第三十一話(119) 決死の覚悟
二階で監視していたミノルが、森から煙が上がっていると報告した。
それが僕にはどういう意味を持つのか瞬時に判断できなかった。
「まだ逃げていないということか」
「違うだろう!」
ガレットが僕を叱る。
「奴らは周囲の状況を確認し、周辺に敵がいないと判断したから、先手を打とうとしているんだ。それが森の中の煙だ。奴らは火矢を射ち込むか、松明を投げ入れるかして、ここを焼き払おうって魂胆だぞ。丸太は燃えにくいが、火が燃え移ればあっと言う間に全焼する。このままここで、じっとしてはいられない」
それからガレットがミノルにマヨルを呼びに行かせた。戦闘員は護衛兵のタウロスと、ドラコ隊のマヨルとミノルと、ドラコに僕の警護を命じられていたガレットと、僕を入れた五人だけだ。その五人でハドラ家に雇われた十二人の傭兵と戦わなければならなかった。
パヴァン王妃陛下とパナス王太子様はすでに脱出の準備を整えて、二人の召使いと共に緊急避難口のある台所に待機していた。扉の開閉に関する合図を決めてあるので、敵の罠に乗せられることはないはずだ。
僕はといえば、これから高額な報酬で雇われたハドラ家の傭兵と戦わなければいけないというのに、まったく勝利の絵を思い浮かべることができずにいた。怖くて、怖くて、何も考えられずにいるのである。
「公子はここにお残りください」
僕の気持ちを見透かしたかのようにタウロスが進言してきた。
「誰か一人は陛下と殿下のお側にいなければならないのです。火の手が上がる前に敵を仕留めてみせますが、手こずれば煙にやられる前に脱出させなければいけませんからな。残ってお二人をお守りするのが最も重要な仕事となるでしょう」
ドラコならば、どう判断する?
考えろ。
いや、感じたことが答えだ。
「それならば、尚のこと貴殿がここに残られた方がよさそうですね。貴方には地の利があります。陛下と殿下をどこに避難させればよいか理解されているではありませんか。それに王妃陛下と王太子様をお守りするのが貴方の仕事ですから」
タウロスが頷く。
「承知いたしました。健闘を祈ります」
そう言って、王妃陛下と王太子様の元へ急いだ。
時間がないことを承知しているので余計な問答はなかった。
タウロスを見送った後、ガレットが僕に微笑みかけた。
「お前はまだ子どもだというのに、見掛け以上に勇気のある男なのだな」
そう言って、怖さに震える僕を両腕に包み込むのだった。
「大丈夫だ。お前はアタシが守ってあげるからな」
不思議なくらい、一瞬で震えが収まってしまった。
「公子、オレたち必勝不敗のドラコ隊がいることも忘れちゃいけませんぜ」
ミノルに緊張した様子は見られなかった。
「そうだったね。十三人の敵をすべて殺して、陛下と殿下を無事にお救いすることができたら、僕から二人に牧場をプレゼントしよう。ただし、二人とも生きて再会するのが条件だけどさ」
「ホントですかい?」
ミノルの目が輝いた。
「うん。それくらい価値のあるミッションだ」
「あんちゃん」
マヨルが二本指を立てる。
「チーズ!」
ガレットが手を二回打ち鳴らす。
「これより作戦を説明する。よく聞くんだ。この丸太小屋の西側は湖に面していて、東側の半分が森に囲まれている。奴らの狙いはアタシたちを煙で燻り出して、小屋から出てきたところを弓矢で仕留めるつもりさ。だから弓矢の射程距離に兵を配置しているに違いない。そこでアタシたちは二手に分かれることにする。アタシとヴォルベが宿直小屋のある北側から森に抜けるので、お前たち二人はベランダのある南側に行くんだ。だけど南側から森の中に入るんじゃないぞ。北側と違って、そっちは森に入るまで距離があるからな。お前たちはアタシたちが森に入るまで弓矢で応戦してくれればいい。これは敵の意識を分散させることに意味があるからだ。本陣を死守して弓の攻撃を敵に警戒させ続けるんだ」
矢が飛んでくる状況で森に入らなければならないということだ。
「いいか? ヴォルベ、森に入ってからが本当の戦いだ。向こうは身を隠した状態で待ち構えているのだからな。こちらの動きはすべて見えているんだ。初めから不利な条件で戦いに挑んでいるということを忘れるな。お前が背中を見せるまで、息を潜めて草木になりきるのが傭兵だ。音を斬れ。お前の目は頼りにならないからな」
視覚だけに頼ってはいけないということだ。
「よし、行くぞ」
ガレットに続いて客間を出た。
「公子、頼みましたよ」
パヴァン王妃からお言葉をいただいた。
「お任せください」
僕は任されたのだ。
台所の床下から外へ出る。
地を這って、北側へ移動した。
そこは宿直小屋と馬小屋があって、森からは死角となっていた。
ここからは、いつ敵兵からの攻撃を受けてもおかしくない。
ガレットには父上から譲り受けた短剣を預けてあった。
僕にはドラコの剣がある。
マヨルとミノルは弓矢と槍を持って丸太小屋を出ていた。
「持ち場から離れるんじゃないぞ。死守するんだ」
ガレットがマヨルとミノルに指示を出した。
指示を受けた二人は南側のベランダへ向かった。
ウッドデッキには矢除けの柵があり、そこで敵の注意を引きつけることになっている。
実質的に、僕とガレットで十三人の刺客を殺さなければならないということだ。
死角の位置から森までおよそ百歩の距離があった。
ガレットが声を潜める。
「足は速いか?」
「遅いです」
「ならば二矢目が飛んでくる前に走り抜けた方がいいな。しかし、今は射手の位置が分からない状態だ。お前が真っ直ぐ進む先に、正面で待ち構えている可能性もある。そうなると、いくら下手くそな弓使いでも的に当てるのは簡単だ」
偶奇をも敵に渡さないのがガレットの戦術のようだ。
「そこでだ、一矢目はアタシが囮になる。馬小屋の反対側から囮の動きをするので、正面に弓兵がいないことを確認できたら走り抜けろ。いいか? 弓兵というのは矢道を読まれたらすぐに移動するからな。いつまでも正面に敵がいないと思うな」
ガレットの指示がなければ敵の正面に突っ込んで死んでいたかもしれない。
「無事に駆け抜けることができたって油断するんじゃないぞ。弓兵を避けて進んでくることを予測して待ち構えているのが相手の戦術だからな。森に入ったらすぐに戦闘が始まると思え。ぜいぜいと息を切らしているお前は相手にとって格好の獲物だ。森の中にも息を潜めている弓兵がいることを忘れるな」
僕たちにはガレット・サンがいる。
そう思うだけで気持ちを強く持つことができた。
「百数えろ。それが合図だ」
ガレットが馬小屋の反対側に回った。
走るタイミングは一矢目が放たれた後。
二矢目が放たれる時にはスピードに乗っていなければならない。
約束の時間が近づく。
五十。
ドラコの剣が軽く感じられた。
初めて手にした時とは大違いだ。
移動中に素振りをしてきた成果が出ているのだろう。
やれる。
百。
森の四か所から一斉に矢が放たれた。
今だ!
走る。
飛ばす。
目の前を矢が飛んでいった。
足を止めるな。
駆け抜けるんだ。
あと少し。
残り十歩。
いや、五歩だ。
森に入った。
減速した瞬間、鼻をつく体臭を感じた。
振り返ると、槍兵が迫ってきた。
その瞬間、槍兵と戦った時のドラコの残像が見えた。
ギリギリまで引きつけて。
踏み込む足を見極める。
攻撃予測を見抜いて。
半身で剣を振り抜く。
手首を切り落としたら。
下段から上段に振り上げる。
首は飛ばなかったが。
吹き出した血しぶきで勝利を確信した。
いつの間にか、ドラコの残像が消えていた。
一所に留まってはいけない。
弓兵はどこにいるか分からない。
ならば、こちらから殺しに行けばいい。
少なくとも四か所から攻撃を受けていた。
そこへ向かう。
今度は僕がガレットを援護する。
しかし到着すると、すでに弓兵は死んでいた。
ヨアンの時と一緒で、首に矢を受けていた。
ガレットだ。
少し歩いたところにも、もう一体。
三か所目の弓兵がいる場所へ向かったところで、背後に小枝が折れる音がした。
振り返ると、長剣を持った兵士が迫ってきていた。
またしても目の前に長剣使いと戦った時のドラコの残像が現れた。
リーチ差は互角の相手。
勝負は一瞬。
わずかなフェイクを入れる。
寸止めから。
腕が伸びきったところを見逃さない。
中段からの豪打。
首が飛んでいった。
その瞬間、ドラコの残像が消えた。
首のない死体が地面に倒れたところで矢が飛んできた。
すぐに上体を伏せる。
矢道から射手を捜すが見つからない。
地を這いながら移動する。
移動しながらも手頃な石を拾い集める。
敵は兜を被っていなかったからだ。
射手の場所を知るには矢を射らせるしかない。
立ち上がって、木立の間を駆け抜けた。
矢が飛んできた。
射手を発見。
木陰を利用し距離を詰める。
移動する射手に向かって、思い切り投石した。
屈んだ射手のこめかみに三発目が命中。
蹲る弓兵の元へ急ぐ。
短剣で応戦する弓兵の首を素早く切り落とすことができた。
すぐに身を屈める。
一息つく。
ここまで無傷でいられる自分が自分で信じられなかった。
敵兵はガレットの弓を警戒しているから動きが鈍いのだろう。
しかし油断は禁物だ。
十二人殺しても、十三人目に殺されては意味がないからだ。
すぐに動く。
一か所に留まってはいけない。
周囲に気配は感じられなかった。
歩を進める。
南側に向かう。
もうすでに五人は死んでいる。
しかし、まだ八人も生きている。
その時、背後で音がした。
振り返った瞬間、顔に血しぶきが掛かった。
喉を斬られた兵士は僕にもたれかかる。
兵士の背後に、ガレットが立っていた。
「ガ、ガレット」
「お前、背後の敵に気づかなかったのか?」
「うん」
「アタシはてっきり敵を油断させる高度な作戦でも仕掛けているのかと思ったぞ」
そんな余裕はない。
気配を消して僕に近づいた男は、背後から忍び寄るガレットに気づかなかったわけだ。
僕は二人の人間の気配に気づけなかったことになる。
「何人殺した?」
「仕留めたのは三人です」
「アタシは南側の方の敵を四人殺してきた」
そこで突然、頭を押さえつけられた。
ガレットが弓を構えている。
僕には何も見えない。
矢を放った。
何を狙ったのかも分からない。
命中したのかも分からなかった。
「来い」
ガレットが走った。
まるで音がしない。
空を翔けているかのようだ。
追い掛けるが、どんどん離される。
ガレットの前方に命乞いする兵士の姿が見えた。
地べたに両膝をついて、両手を上げている。
ガレットは走りながら、その男の首を短剣で刎ねるのだった。
それから男の足に刺さっていたであろう矢を地面から拾い上げた。
「これでさっきの奴を入れて六人目だ」
「北側に弓兵が二人死んでいた」
「そうだな。それを合わせれば八人だ」
「僕が殺した三人を入れると十一人」
「残り二人か」
「リューク・ハドラは?」
「アタシは殺してないぞ」
「じゃあ、まだどこかにいるんだ」
「気配は感じられないな」
ガレットが言うなら間違いない。
「逃げたということ?」
「逃げ出すのが普通だ」
戦う前は恐怖に震えていたのに、今は取り逃がしたことに悔しさを感じている。
「一旦、丸太小屋に戻ろう」
ガレットが頷いた。
返り血を浴びた僕と違って、彼女は戦う前と容姿がまったく変わっていなかった。
「おい、リューク・ハドラがいるぞ」
先に見つけたのはガレットだった。
僕は森を抜けるまで確認できなかった。
「投降したようだな」
リューク・ハドラは丸太小屋の前で地面に突っ伏していた。
ミノルがリュークの背中に槍を向けている。
マヨルの姿はなかった。




