第三十話(118) 絶体絶命
何が起きているのか分からなかった。
身体が動かない。
頭上に振り上げられた手斧を見つめることしかできなかった。
殺されるとさえも思えない。
目の前にはヨアン・ダッグスの顔があるだけである。
これが死か。
知覚を得た瞬間、目の前にあるヨアンの顔が歪にひん曲がった。
喉に突き刺さった矢を引き抜こうとしている。
嗚咽交じりに血を吐き出す。
流す涙まで赤い。
これが死だ。
「狙われてるぞ!」
背後で声がした。
振り返ると、こちらに向かって走ってくる山猫と目が合った。
いや、違う。
山猫のような顔をした野兎だ。
それも違う。
走ってきたのは、野生の少女だった。
「何をしているっ!」
飛んできた矢を受けなかったのは少女のおかげだ。
彼女が僕を丸太小屋の中へ押し込んでくれた。
それから少女は扉に閂を掛けた。
そして、鋭く僕を睨む。
「ヴォルベ、目を覚ませ!」
そう言って、平手打ちをするのだった。
それから少女は矢継ぎ早に指示を出す。
「武器を構えろ。
敵に囲まれているぞ。
中にもいるかもしれない。
敵味方の判断はお前にしかできないんだ。
お前が区別しろ。
アタシが援護する」
指示が的確だったので、そこでやっと冷静になることができた。
それでも短剣を握る手が震えている。
廊下に人の気配は感じられなかった。
まずは安否確認だ。
王妃陛下と王太子様の元へ急がねばならない。
しかし焦りは禁物だ。
二階への階段は廊下の奥にある。
その前に南側の客間を確認しなければならない。
扉を開けると、背中にナイフを突き立てられたココマの死体が目に入った。
手斧を持った少女が客間に踏み込んで中を確認する。
ベランダに通じる出入り口の扉には閂が掛けてあった。
少女が頷いて見せた。
廊下の奥で音がした。
床の軋みだ。
少女が手斧を床に置き、弓矢を構えた。
それから廊下に出て、物音がした方に狙いを定めるのだった。
矢道を遮らないように歩を進める。
音を立てないように注意していたが、床が軋んでしまった。
「降参だ」
その声はリューク・ハドラだ。
「私です。ヴォルベです」
そう言うと、両手を頭の後ろに組んだリュークが奥の間から出てきた。
「何でも君の言う通りにしよう」
僕と顔を合わせても降伏の姿勢を崩さなかった。
「私はヨアン・ダッグスの一味ではありません」
「あの女は誰だ?」
「私にも分からないのです」
「君も父上に頼まれたのではないのか?」
「とんでもありません」
「あの女は私を狙っているではないか」
「まずは事情をお聞かせください」
「見て分からぬか!」
リュークが激昂した。
「父上がヨアンを手引きしてココマを殺させたのだ」
「陛下と殿下はご無事ですか?」
「分からぬ。食堂のテーブルの下に隠れていたのだからな」
そこでリュークが頭をかきむしった。
「確認を頼めるか?」
「はい」
「二階が陛下の居室だ」
「行って参ります」
「父上は武器を持っておるぞ」
そこでリュークは少女にも指示を出した。
「女、お前はヴォルベを援護しろ」
少女は僕に判断を委ねた。
「陛下と殿下の安否確認を最優先に行う」
僕の言葉に少女が頷いた。
僕が先頭を務める。
少女は弓矢から手斧に武器を持ち替えていた。
二階の廊下に異変はない。
静かすぎるくらいだ。
もうすでにお二人とも連れ去られた可能性がある。
入り口は一つだけだった。
鍵は掛かっていない。
扉を開けるとハドラ神祇官が壁にもたれて地べたに座り込んでいた。
腹から出血していた。
「閣下!」
近づくと、まだ息があることが分かった。
「閣下、お気を確かに!」
呼び掛けに応じるように目を開いた。
「何があったのですか?」
「……リュークを、殺してくれ」
僕はとんでもない思い違いをしてしまったようだ。
少女にお願いするしかなかった。
「頼む。さっきの男を捕まえに行ってくれ。殺しても構わない」
少女がコクリと頷き、すぐにその場を後にした。
「……陛下と、殿下は、ご無事か?」
息も絶え絶えだった。
「どこにも見当たりません」
そう言うと、ハドラ神祇官は微笑むのだった。
「ならば、大丈夫だ。お二人とも、私の背中にいるはずだ」
ハドラ神祇官は寝室の扉を塞ぐように倒れていた。
つまり命懸けでお守りしたというわけだ。
「閣下、もう安静になさってください」
「もう、長くは、ない」
そこで首飾りに手を掛けた。
「公子、最後に、これを」
「なんでしょう?」
「貴君に預ける」
首飾りの先には家紋が描かれた陶器の円板がぶら下げられていた。
「半分に割れていますが?」
そこでハドラ神祇官は僕の手の中に押し込めた。
「リュークも、同じ物を持っておる。それを取り戻して、ルシアスに届けてくれ」
そこで急速に握られた手から力が失われていった。
生命活動の終わりが感じられた。
悔しくて、たまらない。
自分が情けなくて仕方がないのだ。
僕はダリス・ハドラに命を救われた。
それなのに、僕は神祇官をお救いすることができなかった。
ハドラ神祇官の名誉のためにも生きなければならない。
まずは敵の包囲下にある、この状況を打破することが先決だ。
王妃陛下と王太子様を守るのが残された僕の仕事である。
階下へ降りると、少女が僕に怖い顔を向けた。
「リューク・ハドラには逃げられた。しかし、アタシのせいではないぞ。お前が敵を見誤ったのだからな。賊の侵入は防げたが、依然として敵に囲まれたままだ。アタシ一人ならば脱出は可能だが、お前みたいな弱い男が一緒では深手を負うだけでは済まないだろうな」
カイドルにいる部族の女はハッキリと物を言うのが特徴だと聞いたことがある。
「君は誰だ?」
「ガレット・サン」
それが山猫のような顔をした少女の名前のようだ。
「ドラコからお前をお守りするようにと言付かった」
「ドラコが? いつから?」
「十二日前からソレインに代わってお前を監視している」
ちょうどドラコが死んだ頃からだ。
「ソレインというのは」
「女にだらしのない兄貴のことだ」
ドラコは僕の知らないところで、僕を守ってくれていたということだ。
「それよりも台所の床下でお前を呼んでいる者がいる」
マヨルとミノルかもしれない。
食堂の奥にある台所に行くと、確かに床下から声が聞こえていた。
「いま開ける。ちょっと待っててくれ」
どうやら板張りの床下に外へと通じる隠し通路があるようだ。
「今度は敵を見誤るなよ」
そう言って、ガレットが手斧を身構えた。
閂を外して扉を開けるとマヨルとミノルとボーテス・タウロスが姿を見せた。
「公子、ご無事でしたか」
マヨルとミノルがホッとした顔を見せた。
「他の者は?」
タウロスが扉に閂を掛けながら答える。
「ネベンとカメロは殺されました。どちらも不意打ちです。ネベンの方は眠っているように偽装されていたのでヨアンの仕業でしょう。そちらの状況は?」
答えられるのが僕しかいない。
「ココマは背後を突かれ、ハドラ神祇官は腹部に重傷を負って亡くなりました。共にリュークとヨアンの仕業です。ヨアンはここにいるガレットが殺しましたが、リュークの方は僕の不注意で取り逃がしてしまいました」
タウロスが首を振る。
「身内に裏切られては防ぎようがありませんな」
リュークが同行していなければ、ココマも背中を向けるのはハドラ神祇官ただ一人だけだったので、無抵抗に殺されることはなかっただろう。退出を命じれば、それに従わなければならないのが主従関係というものだ。
「王妃陛下と王太子殿下はご無事ですか?」
「ハドラ神祇官は無事だと言っていました。しかし呼び掛けても返事がないのです」
「そういう決まりですからな。合言葉がありますので私が連れて参りましょう」
それを契機に客間へ移動することにした。
ココマの遺体を客室に運び終えたタイミングでパヴァン王妃陛下とパナス王太子様が客間へお出でになられた。二人の召使いも一緒で、お嘆きの陛下に寄り添うように椅子に座らせるのだった。
マヨルとミノルには明り取りの窓から外の動きを監視するようにと命じてある。それは僕のアイデアではなく、ガレットの進言によるものだ。彼女は僕を守るのが仕事なので、僕のことを監視し続けていた。
「公子、陛下に状況をご報告していただけますかな」
タウロスは僕の口から説明させようとした。
「はい。事はそう悠長に構えていられる状況ではございません。不意打ちでこちらの人間を四人も殺しましたが、それで目的を達したとは思えないからです。リューク・ハドラが伏兵を引き連れてきていたことを考えますと、必ずや第二波の攻撃を仕掛けてくることでしょう」
タウロスが陛下の代わりに訊ねる。
「敵兵の数はどんなものでしょうな?」
「はっきりとした数は分かりません。なにしろ尾けられていると気づきもしませんでしたから」
そこでガレットが口を挟んできた。
「数は十二。リューク・ハドラを入れれば十三だ」
念を押すことにした。
「確かなのか?」
「お前の曇りきった目と一緒にするな」
訊き返さなければ良かった。
「どうやって得た情報だ?」
訊ねたのはタウロスだった。
「この目で確認したまでだ。セトゥス領からここへ来るまでの間、リューク・ハドラは部隊に追跡させるための目印を残してきたのだろう。常人が目視できるだけの歩間距離ではなかったからな。後方部隊にしてはおかしいと思ったが、仲間に裏切られるような間抜けはいないと思って、アタシはアタシの仕事を続けたさ。初めから知っていれば、矢で皆殺しにしてやったんだがな」
ガレットは走りながらヨアンの首を射抜くほどの腕前だ。
タウロスが唸る。
「十三人に対して、こちらは五人か」
「ヴォルベのような半人前も数に入れるのか?」
ガレットが遠慮なく会話するようになってしまった。
「戦ってもらわねば困る」
「足手まといになるだけだ」
「他に方法はあるまい」
「アタシが一人で片づけよう」
「何を言っている。相手はハドラ家が雇った傭兵だぞ?」
「一本の矢すら真っ直ぐに飛ばせない連中だ」
「弓の腕に自信があるのは結構だが、相手が多すぎる」
弓矢というのは矢道から射手の位置や距離が測れるので、気配を消して近づき、そこから一人か二人に命中させることができても、その後は警戒されて当たらなくなるものだ。相手が十人以上ならばすぐに取り囲まれるだろう。
「ここの出入り口は頑丈だ」
ガレットが僕たちを説得しようとしている。
「丸太を抱えて突っ込まないと扉はぶち破れないだろう。それも高床式になっているので、勢いなんてつけられっこないんだ。他に方法といったら、斧で破壊するしかないな。しかし、こちらに弓矢があることは敵も知っている。二階の窓から出入り口を狙えるようになっているので、迂闊には近づいてこないだろう。戦力差を考えれば一人でも惜しいだろうからな」
ガレットが弓の名手であることは、すでに敵も分かっているはずだ。それを知らなかったのはリュークだけだ。ココマを殺して安心したのか、ガレットを生かしたまま逃げたことを、今ごろ後悔していることだろう。
「それで、そなたはどのように敵をせん滅させるというのだ?」
タウロスの問いにガレットが答える。
「近づいてこないならば、このまま夜になるのを待てばよい」
「それでは弓が使えないではないか」
「アタシは夜目が利く」
それでは山猫の顔をした、山猫ということになる。
「お前たちには見えないものが、アタシには見えるんだ」
王太子様がガレットを興味津々といった目で見ている。
「ただし、そこまで待ってくれればの話だがな……」
彼女を見て、僕は敵の行動も予測できない無策無能だと己を思い知った。
それからしばらくして日が傾き出した時のことだ。
二階で監視していたミノルが階下に下りてきた。
「公子、正面の森から煙が見えます!」
それを聞いたガレットが戦闘準備に入る。
「やはり先に動いてきたか」




