第二十八話(116) ダリス・ハドラの決断
ダリス・ハドラ神祇官が邸に戻ってきたのは、その日の日没後であった。足を痛そうにしているのは歩き慣れていないためで、神祇官もまた馬車には乗らずに移動しているということである。
夫人やエリゼに話が聞かれないようにと、邸の地下室へと呼ばれた。二人の息子は不在で、父親もいつ帰ってくるのか把握していないようなので、テーブルと椅子しかない、じめっとした部屋で二人きりで話し合うこととなった。
「くどいようだが、ドラコの死に間違いはないのだな?」
ハドラ神祇官の問いに答える。
「はい。子どもの頃から知るジジが証言しているので、ドラコで間違いありません。キグス教官はデモン・マエレオスに同行してハクタ国へ行きましたが、他のドラコ隊の隊士は閣下のご指示を待っています。私はそれを拝聴しにきたのです」
窮地にあるが、ハドラ神祇官の目は諦めていなかった。
「そうか、ドラコ隊が作戦から離脱することが最大の懸念であったが、統率が執れているならば問題はあるまい。ドラコの死を無駄にしないためにも、このまま作戦を続行しよう。我々には国王陛下のご従兄がいるのだからな」
そう言うと、僕を見て微笑むのだった。
「そうですね、いざとなればフィンス陛下の元へ行って、これまでのことをすべて話したいと思います。それまでは島中の、ありとあらゆる内情を探るのが、今後のためにもよいかと思われます。生まれたばかりの子どもの未来を考えて行動するのが、ドラコの行動原理のようですからね」
ハドラ神祇官が頷いている。
「しかし、フィンス国王陛下をハクタ州の隠れ家から連れてきたのはお父上だったと聞いたが? つまりヴォルベ、君は知っていて隠していたわけだね? いや、これは今回の救出作戦と同じで、私もお父上と同じことをしているから責めるつもりはないのだが、他に隠していることはないだろうな?」
エリゼへの気持ちは、ここで言うことではないだろう。
「ありません、いや、はい、隠してはいけませんね、実はクミン王女も匿っているのです。しかし父上がカグマン国に赴任したので、おそらくは王女も移動させたと思われます。現在の居場所については分かりません」
ハドラ神祇官が納得したように頷いた。
「クミン王女は遠縁の住まう荘園に疎開されたと聞いていたが、それもお父上だったか。考えてみれば、テレスコ長官の細君は陛下の叔母に当たるわけだな。お父上ほどフェニックス家に奉仕している人間はいないのかもしれない。公子は血を受け継いだだけではなく、立派な意思も引き継がれたようだ」
父上が褒められるのは、自分が褒められるよりも嬉しかった。
「しかしフェニックス家を信奉して尽してこられたのは、閣下はもちろんでございますが、王宮で断罪した他の七政院の官僚も同じでした。どうして閣下は他の者たちに同調されなかったのでしょうか?」
ハドラ神祇官が考え込む。
「それは正当なる王位継承を順守するためだ」
「では、閣下もマクス王子が偽者だとお考えなのですね?」
首を振った。
「いや、マクス王子はオルバ元国王の子に間違いないだろう。年を取るほど父王に似てきたというのは誰もが知るところだからな。しかし、理由はそれだけではない。一番の理由はオフィウ王妃陛下の人となりがそれを証明しているのだ。あの方ほど信仰心の篤い人はいない。喪中に亡き国王以外の者の子を身籠ることもなければ、他人の子を我が子と偽ることもないのだ。だからこそムサカ法務官も暗殺計画を実行し、オルバ元国王のご嫡男を後継者に推挙したのだからな」
それが事実ならば、ムサカ法務官たちも王家のために最期まで奉仕したことになる。それどころか、命懸けで王位継承を本流に戻そうとしていたわけだ。それが絶対に正しいと信じるあまり、ハドラ神祇官が裏切っていると疑うことができなかったのだろう。
「しかし、閣下だけはマクス王子の王位継承に反対されたわけですね?」
「そうだ。継承順位ではパナス王太子殿下の方が上だからな。それが当時、マクス王子を王族と認める条件だったのだ」
「ですが、現状はマクス王子を含む三人の新しい国王が誕生しました」
「パナス王太子が存命していると知れば、デルフィアス陛下も王位を譲るはずだ」
「フィンスはどうなるのでしょう?」
「ご従弟も同様の判断をするだろう」
王位継承に関する知識がないので、僕には未来を予想するプロセスが思い描けなかった。
「その証拠に、デルフィアス陛下は戴冠の儀を執り行わなかった。それには理由もあるのだが、ご従弟もそれを受け入れた上で国王に即位されたわけだ。つまり両陛下とも暫定政権だということを心得ているということだ。だからこそマクス王子の即位も、暫定的だからと認めることができたのだろう」
僕が知らないだけで、王位継承の正統性を決定づける何かがあるようだ。
「つまり閣下や死んだドラコは、パナス王太子を無事に国王にするために尽力してきたというわけですね? そのお気持ちは今も変わらないことと存じますが、どうしてパナス王太子でなければならないのですか? それだけではなく、私は救出作戦の終着点がどこにあるのかさっぱり把握できていないのです」
ハドラ神祇官がじっと僕を見つめている。
「ドラコが死に、ランバ・キグスやロニー・キングやジャンジャジではなく、ここへ貴君を寄越したということは、公子はすでにドラコ隊から信用のみならず、信頼も勝ち得たのだろう。しかし、今の私には信頼できる者が少ないのだ。ドラコが死んだことで、周りの者をすべて疑わなくてはならなくなったからな。貴君も例外ではない」
そこでハドラ神祇官が苦悶の表情を浮かべる。
「公子が命を懸けて救出作戦に参加したことは、誰よりもこの私が知っている。私利私欲で出来ることではない。それでも疑わなくてはならぬのだ。いい気はしないだろうが、それをどうか理解してほしい」
フィンスの従兄という事実が猜疑心を抱かせるのだろう。フィンスが正統なる継承者ではないと説明をしたのも、僕の反応を見るために違いない。パナス王太子の救出作戦にはそれくらい慎重にならざるを得ない事情があるわけだ。
そこで階上の扉が独特な合図で叩かれた。
「息子たちが帰ってきたようだ」
リュークとルシアスの兄弟が階段を下りてくる。
それと同時に狭い地下室が一気に息苦しくなった。
ハドラ神祇官が怖い顔をしている。
兄弟は空いている二つのテーブル席に座ろうとしなかった。
「お前たち、どこへ行っていたのだ?」
長兄のリュークは父親の質問に答えなかった。
「父上、その前にお人払いをお願いいたします」
「公子はドラコの仕事を引き継いだのだ」
兄弟が驚かないということは、すでにドラコの死を知っているということだ。
「分かったのなら椅子に掛けて、聞いたことに答えなさい」
兄弟が父親の左右に分かれて、四人でテーブルを囲むように座った。
「帰ってくる予定の父上が戻らなかったので捜しに行きました」
説明するのはリュークの役目のようだ。
「お前たちには留守を頼んだのだぞ?」
ハドラ神祇官も長兄の方しか視線を向けなかった。
次兄のルシアスは我関せずといった感じだ。
「私たちは父上のことが心配だったのです。それのどこがいけないというのですか? あのドラコが死んだのですよ? 父上にもしものことがあったら、何もかもが破滅ではありませんか。こうして無事を確認したから杞憂で済みましたが、あの時はドラコの訃報が父上を誘き出す罠である可能性もあったのです。もう少し私たちのことを信用してもいいじゃありませんか」
話し合いの場に僕を同席させたということは、実子にも作戦の全貌を話していないのかもしれない。匿っている王妃陛下と王太子様の居所も二人の兄弟に内緒にしている可能性がある。
「信用を得たいのならば、言いつけを守ることだな」
「ですが父上、もうすでに当初の計画は破綻しているのです」
「ドラコの死は別の問題だ」
「なぜそう言い切れるのですか?」
「ドラコは誘拐されたデルフィアス陛下の妃を救うために、犯人を追っている最中に殺されたのだ。誘拐犯にドラコの突発的な行動を予測できたと思うか? ドラコが現れたのは誘拐犯にとっても予想外だった。それでも死に至らしめることができたのだから、ドラコが安心して背中を向けることができる相手だったのだろう。それか、高い地位にいる者だったのだろうな」
それは誰もが推理している部分であった。
「しかし父上、ドラコはマエレオス邸で死んでいたのですよ? デモン・マエレオスといえば、オーヒン国の国王選でセトゥス家の後援をしていた人物じゃありませんか。セトゥス家が我々を裏切った可能性もあるのです」
セトゥス家はハドラ神祇官にとって妻と娘を預けられる数少ない信用できる人たちに違いない。しかし救出作戦とオーヒンの国王選の時期が重なっていて、選挙に敗れたことが、どのような影響を及ぼしているのかは不確かだ。
「セトゥス家が勝馬を乗り換えた可能性を考慮しないのは父上らしくありません」
「アント・セトゥス閣下とお会いしてきたばかりだ。お前は私の目が節穴だと言いたいのか?」
「友人の友人は、父上の友人ではありませんからね」
リュークはデモン・マエレオスを疑っているということだ。
それに対して、ハドラ神祇官はキッパリと否定する。
「デモン・マエレオスのような狡猾な男が、デルフィアス陛下の妃を誘拐した犯人に繋がる証拠を自分の領土に残すはずがないではないか。窮地を脱したようだが、問答無用で処刑されてもおかしくなかったのだぞ?」
確かに、逮捕命令が出ていたドラコの死体がなければ、間違いなく逮捕拘禁されていただろうし、そうなれば拷問を受けて、耐えきれなければ事切れていた可能性もある。王妃陛下の誘拐なので、それくらいのことが当たり前のように起こり得たのだ。
「父上がそこまでお分かりになっておられるならば、我々ハドラ家もまた、窮地の立場にあると分かりそうではありませんか。しかもデモン・マエレオスのように直接デルフィアス陛下に申し開きすることができないのですよ? それでどのようにしてこの窮地から脱することができるというのですか?」
ハドラ神祇官が息子を睨めつける。
「何を狼狽える必要がある? 辛抱を要することは初めから分かっていたことだ。デルフィアス陛下が無事にカイドルの首都へ戻られるまでは、どんなことがあろうと王妃陛下と王太子殿下をお守りせねばならん」
「でも父上」
そこでリュークは言葉を探す旅に出てしまった。『ですが』とか、『しかし』とか、『でも』などの言葉を多用しているので、どうやらリュークは父親を説得したいようだが、肝心の弁が立たないのである。
「ルシアス、父上に説明して差し上げろ」
とうとう次兄に丸投げしてしまった。
それに即座に対応したのがルシアスだった。
「つまり兄上はこう仰りたいのです。王宮が襲撃されて、デルフィアス陛下は実行犯としてドラコを指名手配しました。それ自体はドラコ自身が誘導したことなので何も問題はございません。ですが、七政院を新たに組閣する際、父上の安否が不明であるにも拘わらず、デルフィアス陛下はサッジ・タリアスを神祇官に任命しました。暫定措置ではありますが、兄上はそのことについて疑念を抱いたのです。作戦を実行する前から、我々ハドラ家にも疑いの目が向けられる可能性があることは予想していました。しかし、まるで初めから我々がドラコと共謀しているかのように神祇官職を取り上げるというのは、我々ハドラ家に対する敬意に欠けた行動です」
当事者ならではの思考だ。
「母上とエリゼが自治領にいないのだから、人質に取られて、止むを得ずドラコに協力したと考えてもよさそうではありませんか。母上とエリゼを隔離したのは、実際にそれを狙ってのことなのですからね。しかしデルフィアス陛下は我々を救出するどころか、頭からドラコの共犯者、いえ、首謀者であると決めつけたのですよ? その敬意の欠片もない行動に、兄上は憤りを感じておられるのです。ドラコの逮捕命令よりも先に、我々家族が人質に取られた可能性を考慮して、持てる力をすべて出し切って捜索に当たるべきではございませんか。そうしなかったということは、我々ハドラ家がどうなろうと知ったことではなかったのでしょう。兄上が不審を抱くのも無理はありません」
一理ある。
伏し目がちになったので、ハドラ神祇官も思うところがあるのだろう。
「神祇官というのは、不在が許されぬ官職だ」
「我々家族を救出しない理由は見当たりません」
「首謀者として疑われるリスクがあるのは百も承知だったではないか」
話し合いが一周してしまった。
そこでルシアスが仕切り直す。
「父上、どうか兄上の気持ちを汲んではいただけないでしょうか? 今一度、ご再考願えればと存じます。ドラコ・キルギアスの立てた作戦には、彼自身が死ぬというシナリオは存在しておりませんでした。もはや修正だけで済む話ではございません。我々だけで作戦を練り直す必要があると考えます。ドラコにしても、よもやフィンス国王陛下が存命しているとは思わなかったでしょうし、知っていたらもう少し慎重な行動ができたかもしれません」
そこで僕を一瞥したのは、暗に責めているからだろう。
「結果論ではありますが、兄上の慎重論に耳を傾けていれば、これほどの窮地に陥ることはなかったのではありませんか? 差し出がましい申し出であることは重々承知しておりますが、こういう時なればこそ、兄上の先見の明に頼っていただきたいのです」
ハドラ神祇官が次兄の話を頷いて聞いている。
「そうだったな。私は少しばかりモンクルスに心酔しすぎたのかもしれない。幼き日に見た雄姿に心を奪われ、いつまでも追い続けていたのだ。しかしモンクルスも、『モンクルスの再来』と呼ばれたドラコも、もういないのだな。だが、私にはそれ以上に立派な息子たちがいたことに気づいてやれなんだ。我が子がこれほど立派に成長したことを一番近くで見ていながら、まるで見ようともしなかったのだから、節穴と思われても仕方あるまい。愚かな父を許せ。今の私が頼れるのは、お前たちだけだ」
そう言って、リュークと僕とルシアスの顔を順番に見回すのだった。僕がこの場にいることに戸惑いはあるが、それでもハドラ家を知る上では重要な立ち会いだと思った。まるで春の訪れを感じさせるような瞬間だ。
「早速ですが」
リュークが切り出す。
「私たちをパヴァン王妃陛下とパナス王太子殿下のいる隠れ家へと案内してほしいのです」
「それは漏らさぬ約束だ」
「しかし居場所を知るドラコが殺されたのですよ?」
「デルフィアス陛下が帰国なさるまで動かぬことが肝心なのだ」
「では、まだ安否を確かめていないということなのですね?」
「報せがないことが安全である証拠ではないか」
「ドラコは明らかに拷問を受けたのですよ?」
「口を割る男ではない。だから命を落としたのではないか」
「不測の事態が起きたのですから確認を急ぐべきかと考えます」
そこでハドラ神祇官が唸った。説明を受けたわけではないが、おそらくユリスがカイドル国の首都に帰還してから、万全を期した状態で王妃陛下と王太子様を送り届けるというのがドラコの立てた計画だったのだろう。
黒幕の正体が分からない状態ならば、カイドルの首都に避難させるのが一番安全であり、ユリスしか信用して預けることができないので必然でもあるからだ。また、ドラコはカイドルの地理を熟知しているので安全に送り届ける自信があったのだろう。
「このようなことは口にもしたくないのですが」
リュークが前置きをしてから告げる。
「父上に万一のことが起きた時のことを考えてほしいのです。ここで父上に倒れられたら、誰が王妃陛下と王太子殿下をお守りするというのですか? 居場所を知らぬまま方々を駆けずり回らなければなりません。残された私たちには他に頼れる者がいないのです。ドラコが生きているうちは私やルシアスも納得しましたが、肝心のドラコがいなくなっては、カイドルまで無事に届けられる保証もないではありませんか。王宮の人事が刷新されたのならば、王宮に送り帰すという選択もございます。いずれにせよ、安否を確かめないことには何も始まりません」
ハドラ神祇官が決断する。
「ならば早い方がいいだろう。明日の朝、発つとしよう」
そこで僕の方を見た。
「公子にもリュークと共に同行していただこう」
その言葉にリュークが大袈裟に驚く。
「父上、待ってください。一緒に連れて行くというのですか?」
「無論だ」
「ですが」
ハドラ神祇官が嫡男の言葉を遮る。
「王妃陛下と王太子殿下を移動させる際にはドラコ隊の護衛が必要となる。その時には公子に先導をお願いせねばなるまい。カイドルに行くにしても、王宮に帰るにしても、どちらにせよ、公子ほど任務に適した人材はおらぬのだからな。デルフィアス陛下と面識があり、フィンス陛下とは従兄弟の間柄とあらば、事情を説明するに最も相応しい人物というわけだ。そのためにドラコも計画に参加させたのだからな」
リュークが弟の顔をじっと見ている。
「ルシアスは連れて行かないのですか?」
ハドラ神祇官がテーブルの下に視線を落とす。
「お前はここに残って足を治すことだ」
階段を下りてくる時、膝を痛めていたようだったので、それを見逃さなかったようだ。
「しかし――」
リュークの言葉を遮ったのはルシアスだった。
「兄上、そういうことです」
微笑むルシアスを見て、リュークは感情を抑えるのだった。
ルシアスの方はというと、歩かされなくて済んでホッとした様子だ。




