第二十三話(111) 運命の選択
「遺体には触れぬように!」
夜明け前の邸の中にランバの声だけが響き渡った。応接間の床に横たわるドラコの遺体に縋ろうとしたジンタを注意するのだった。僕はそれがドラコの変わり果てた姿だとは思わなかったので茫然とするしかなかった。
「着ている服は隊長の物で間違いありませんかな?」
ランバの問いに、ランプを持つハンスが黙って頷いた。どうして服を確かめたかというと、その遺体は頭からつま先まで全身に大火傷を負っていたからである。しかも、火傷を負った顔を見て、辛うじて男だと分かる程度だ。
焦げていないので火あぶりにされた火傷ではなかった。熱湯の中に突き落とされたかのような火傷だ。しかし死因は分からなかった。調べれば刺し傷があるかもしれないし、殴打された痕も見つかるかもしれない。殺害現場だって、ここではないのかもしれないのだ。
「これはドラコなのですか?」
ハンスの問いに、ランバは答えなかった。それは分からないというよりも、現実を受け入れたくないかのような感じだ。僕は涙を流すジンタを長椅子に座らせて、隣に座ってやることしかできなかった。
「ここで今しばらくお待ちください」
そこでランバが断りを入れた。
「邸の中を調べて参ります」
「お願いします」
そう言うと、ハンスは遺体の腰紐から鍵束を離して、ランバに差し出した。
受け取ろうとしたランバの手が止まる。
「この鍵は隊長に渡した物ですかな?」
ハンスは質問の意味を理解したようだ。
何も言わずに顔を手で覆ってしまった。
鍵を身に着けているということは、ドラコ本人で間違いないということだ。
「賊がいるやもしれませんので見て参ります」
ランバが応接室を出て行った。
ハンスが椅子に深く腰掛ける。
言葉を発する者はいなかった。
何をどう考えていいのか分からないのだ。
ドラコが死んだのではない。
世界がドラコを失ったのだ。
彼がこれから何をしようとしていたのか?
それが永遠に分からなくなってしまった。
ハンスがランプの火を消した。
気がつくと、窓から朝日が差し込んでいた。
いつの間にかランバが戻ってきていた。
目が赤い。
それは朝焼けのせいだけではないだろう。
しばらくして、ハンスが窓の外を眺めるランバに問い掛けた。
「王宮の救出作戦では王妃と王子の死を偽装しました。ですから、これもドラコ自らが己の死を偽装したものである可能性はありませんか?」
判別不能の遺体なので、そう考えてもおかしくはなかった。
「我々を欺く意味がありませんからな」
誰よりもショックを受けているはずだが、頭は冷静だ。
「ハドラ神祇官を欺くためでは?」
「猊下は我々の数少ない、いや、唯一の身元保証人ですぞ?」
「しかし、では一体、誰がドラコを殺したというのですか?」
「隊長は油断するお方ではありません」
「ということは、信用する者に裏切られたと?」
「にしても、隊長を殺せる者など存在しませんからな」
遺体にはドラコの愛用している大剣が握られていた。ランバによると、硬直したまま固く握られていることから、死んだ後に握らされたのではなく、死んだ時に強く握っていたと考えられるそうだ。つまり戦闘状態で殺されたということだ。
その状態で発見されたからこそ、殺されたとは考えられないのである。信用している者に裏切られたとして、剣を抜く余裕があったのならば負けるはずがないからだ。屋内で複数人を相手にしたとも思えないし、だから、遺体はドラコではない、と考えてしまうのである。
「いや、そうやって現実を誤魔化すのはいけませんな」
そこでランバが僕を見つめた。
「公子、これは非常にまずい状況になりました。現在、パヴァン王妃陛下とパナス王太子殿下の行方を知る者はハドラ神祇官ただ一人ですからな。猊下にもしものことがあれば、ダリス・ハドラが黒幕として、そしてドラコ・キルギアスが暗殺の実行犯として歴史に名が残ってしまいます。匿われている陛下と殿下のお命が奪われてしまったら、その誤った認識が既成事実と化すのですよ。公子を罠に掛けることも考えられますからな、今すぐ乗り切る方法を考えねばなりませんぞ」
絶対安全だと思っていたドラコを失うということは、絶体絶命を招くということだ。僕たちがどれだけ危ない橋を渡っていたのか、今更ながら思い知るのだった。こうなるとハドラ兄弟の方が正しかったようにも思えるが、それを今さら後悔しても仕方がない。
「まずはハドラ神祇官にご報告せねばなりませんね」
それ以外に思いつかなかった。
ランバはそれには答えず、窓の外に目を凝らしていた。
「ハンス殿、こちらへ向かってくる、あの馬車をご確認願えませんかな」
ハンスが立ち上がり、窓の外に目を向ける。
「父上の馬車です。会議の予定でしたから、ぼくを捜しに来たのかもしれません」
デモン・アクアリオスこそが、カイドル帝国の最後の皇帝だったという噂のある男だ。また、デモン・フィウクスという名でオーヒン国の財務官を務めた男でもあり、デモン・マエレオスと名を改めてフェニックス家の縁戚者になった男でもある。
オフィウ・フェニックスが『ハクタの魔女』なら、デモン・マエレオスは『北の悪魔』だ。名前を変えながら経歴を増やし、出会ったすべての人たちに対して影響力を及ぼす。どのように接すればいいのか、最も難しい相手である。
とりあえず立ち上がり、意気消沈しているジンタも立たせることにした。一つ一つの言動で、その後の未来が変わってしまうかもしれない相手である。たった一度のミスも許されない。視線の置き方まで注意が必要になるだろう。
客間に現れたデモン・マエレオスが驚きの声を上げた。
「ハンス、これは一体なんだ」
デモン・マエレオスが言った『これ』というのはドラコの遺体のことだ。
「ランバもいるではないか。どうして、貴君がここにいる?」
息子と違って、老いを感じさせない精力旺盛な体つきをしている男だ。『赤獅子』とも呼ばれ、強靭な肉体を持つランバと向かい合っても、威圧感で圧倒するのである。僕やジンタの方には一度も目をくれなかった。
「お久し振りでございます」
ランバは挨拶だけに留まった。
「ドラコに逮捕命令が出ているのだぞ? 王妃陛下と殿下を殺したというではないか。貴君も関わっているのではないだろうな? 荘園の襲撃も、すべてドラコが関与していたと聞いておる」
そこで息子のハンスに目を向けた。
「ハンス、しばらく会わなかったが、まさか、お前も関与しているのではないだろうな? ドラコを匿っているのではないのか? いいか、よく聞くのだ。王族殺しは重罪だ。お前だけではなく、お前の持っているすべてのものが裁かれるのだ」
そこで足元の死体を一瞥した。
「それより、これを説明せい」
ハンスが叱られた幼子のような顔で答える。
「父上、それが、つまり、その遺体が、ドラコだと思われるのです」
雄弁なデモンが、それを聞いて言葉を失くしてしまった。何か言おうとするが、言葉が出て来ず、応接間を移動して、考えては立ち止まり、歩き出しては、遺体を見て、また立ち止まるのだった。
「ランバよ」
そこでデモンが指を差した。
「知っていることをすべて話すのだ。これはわしの生命に関わる問題である。そのことを心せよ。よいか、間違っても『言い忘れた』などと、後に下手な言い訳などせぬことだ。貴君の誠実さを、わしは買っておるのだからな」
そこで初めて、僕やジンタの方を見るのだった。
「ハンス、この者たちについて説明せい」
ハンスがオドオドした様子で答える。
「背の高い彼が、テレスコ首都長官のご子息で、もう一人が、ドラコが仕事に使っていた密偵です」
それを聞いて、両手を広げて近づいてきた。
「やあやあ、これはこれは、長官のご子息でござったか。まさか、このような形でお会いできるとは思ってもみませんで。お父上は剣聖モンクルスの片腕として名を馳せたお方。私どもの世代にとっては生ける伝説なのですよ。しかも此度の政変で従弟に当たるフィンス・フェニックス陛下が国王に即位されたばかりではございませぬか。わざわざ遠い所、足をお運びいただき、誠に感謝いたします。公子殿がお見えになったのには、きっと深い理由がございますのでしょう。さぁさ、どうぞ、お掛けくだされ。一緒にランバからの話を聞こうではありませぬか」
気味が悪いほどの低姿勢だった。
そこでデモンがジンタを指差す。
「お前は仕事に戻るんだ。外を見張り、異変があったら、このわしに報せるように。わしのために仕事をするならば、勝手に領地に入ったことと、邸に侵入したことを見逃してやろう」
あからさまに僕との扱いを変えることで、地位や家柄のいい者に対して、分かりやすく敬意を表すのだ。これが貴族社会における情操教育の基本でもある。地位や家柄の価値を守るための手段ともいえるだろう。
僕とランバが長椅子に座り、デモンが肘掛け椅子に深く腰掛け、ハンスに丸椅子を宛がって、わざわざ窓辺に座らせるのだった。警護兵には外を見張らせ、応接間から人が出払ったのを確認してから、改めてランバに説明を求めた。
僕が隣で聞く限り、ランバはすべて正確に話していると断言できた。付け足すことがなく、不明な部分は不明とし、最後には、ドラコの死によって自分たちが窮地に陥っていることまで正直に打ち明けるのだった。
説明を受けている間、デモンは一度も口を挟むことがなかった。人物名や地名をすべて認知しており、話し手が言葉に詰まっても、決して急かしたり、聞き返したりしないのである。話し手の話術を楽しんでいるような余裕が感じられた。
ランバが唯一伏せた部分はドラコ隊の潜伏先だ。ハンスが同席している場で伏せたということは、彼にも教えていないということである。それがドラコとの取り決めなのかもしれない。仲間の命は自分の命も同然というわけだ。
「――そこでハドラ神祇官にご報告に上がろうとしたところ、閣下がお見えになったというわけでございます」
ランバが話を締めた。
「うむ」
デモンが唸った。
「ドラコを亡き者とした賊の姿は見なかったというのだな?」
「はい。邸はもぬけの殻でございました」
デモンがため息をついた。
「……このわしを嵌めようとしている者がおるということだな」
そこでハンスを指差した。
「息子よ。今すぐここを出ろ。馬がなければ、わしの馬車を使うがいい。なにをしておる。さっさとせぬか!」
急かされたことで、慌ててハンスが外へ飛び出して行った。
「公子」
デモンが僕に語り掛ける。
「これは私奴を陥れる罠にございます。ドラコが搬入業者を割り出して、我がマエレオス領に当たりをつけたということは、いずれデルフィアス陛下も探り当てることでございましょう。その時は私奴を、王妃陛下を誘拐した容疑者として捕えにくるのです。表に身に覚えのない荷台が停めてありましたが、あれがもし誘拐に使われた搬入業者の物でございましたら、それだけで証拠は充分と判断するやもしれません。現在の陛下は最愛の妻を奪われたことで、冷静な判断ができる状態とは思えませんし、また、期待してもいけませんからな。武装した兵士をこちらに向けられることもありましょう。そこで迂闊に姿を見せれば、その場で矢を放たれることも考えられるわけでございます」
デモンが改まる。
「そこでですが、公子には二つの選択肢がございまして、そのいずれかを選んでいただきたいのです。一つは、この窮地を脱するために、私奴にすべてを任せていただくことです。もう一つは、公子自らデルフィアス陛下にすべてを語ることでございますな。参考までに申し上げますが、前述の選択では、ドラコの意思を継ぐことになり得ますが、後述の選択では、ドラコの死を無駄にすることになりましょう。どうか、その点を留意して、賢明なる判断をしていただくことを切に願います」
それでは自分に任せろと言っているようなものだ。
「お聞きしますが、任せるというのは、具体的に何をするおつもりでございますか?」
デモンは十四の子ども相手にも舐めた態度を取らなかった。
「元を辿れば、ドラコに逮捕命令が出たのは、ドラコ自身が思いついたこと。それを実行したのは、それが最善と判断したからにございましょう。ならば、ドラコが計画した作戦をこのまま続けるのです。それが故人の遺志というものではございませんか。ですから、ドラコには王妃陛下と殿下を暗殺した実行犯として死んでもらうのです」
膝の上に置かれたランバの握り拳が震えている。
「正気を失ったデルフィアス陛下を前にして、パヴァン王妃とパナス王太子の身柄がない状態では、どんな申し開きも聞き入れてはくれますまい。手前どもで、勝手に相手が分かってくれるなど、思い込み、決めつけてはいけないのです。デルフィアス陛下の聴取は、この身を懸けた交渉でございます。勝つ気がなければ、引き分けることも叶いません。今一度、思い出していただきたい。この私を罠に嵌めようとしている者がいるということを。そして、その者がドラコの命を奪ったのですぞ? さぁ、公子、ご決断くだされ」
これは果たして僕の決断といえるのだろうか? 今回のように、彼と出会ってきた人たちは、みんなデモン・マエレオスが望むような決断をしてきたのではないだろうか? そういう僕も、デモンにすべてを任せようと思っている。
それでカイドル帝国はどうなった? それでオーヒン国はどうなった? デモンの長兄はどうなった? 多くの者が死に、息子が死に、彼だけが富を築いているではないか。罠に嵌められたのは、本当にデモン・マエレオスの方なのか?
罠に嵌まったのはドラコじゃないのか? そして、その罠を仕掛けたのがデモンなのではないのか? 彼は僕がフィンスの従兄だと知っている。僕の立場を利用したいだけじゃないのか? そのためにドラコを裏切ったのではないのか?
この男をフィンスに近づけることに怖さを感じる。デモン・マエレオスに任せるということは、接近する機会を与えてしまうということだ。彼が敵だとは思わないまま、寄生虫のように食われてしまうのではないだろうか?
しかし、デモン・マエレオスの言っていることは何もかも正しかった。救出作戦のプランを変更することもできたが、王宮で偽装死を決断したのはドラコ本人である。そして、その判断をさせたのは、僕という存在があったからだ。
この世にドラコの遺志を継げる者がいるとしたら、それは僕しかいない。王族暗殺を企てた者と、ドラコを殺した者がのさばっているならば、必ず見つけ出して断罪せねばならないのである。
しかし、決断しようと思った瞬間、すぐに不安になった。デモンに任せた途端に、裏切られるのではないかと考えてしまうのだ。決断する前に、どうしてもハドラ神祇官に相談したいと思った。
「てぇへんだあ! とんでもないものがやって来ますぜ」
ジンタが血相を変えて飛び込んできた。
ランバが立ち上がる。
「何事か?」
「鎧兜の兵士がわんさか押し寄せて来てるんでさ」
デモンが腰を上げたので、僕も立ち上がった。
「公子、どうやら時間のようです」
そう言って、デモンが床の絨毯をめくり上げた。
「床下に隠し部屋がございます」
床板を外すと、空間が現れた。
「ひとまず、こちらにお入りください」
まだどうするか決心がつかなかった。
「中に入って、ギリギリまで考えればよいのです。デルフィアス陛下にお話しするというのであれば、ここから出てくればいいですし、その時は私も弁護に努めます。私奴にお任せくださるのであれば、そのまま息を潜めて、引き揚げるまで隠れていればよい。その時は、私が交渉に当たりますからな。さあ、まずは入ることです」
ランバやジンタに選択権はないようだ。
「分かりました」
「それでは、私奴は二階の自室に鍵を掛けて、機を見て投降いたします」
そこで隠し部屋が床板によって蓋をされた。
絨毯を元に戻すと、中は真っ暗になった。
ランバとジンタは何も語らなかった。
僕の決断を誘導するつもりがないのだろう。
二人とも僕を信用して命を預けたということだ。




