第十一話 旅立ち
この日は兄貴の家で泊まることにした。兵舎では金を盗むバカもいるので、実家が近いので帰ってきたのだ。とはいえ、これからの道中では山賊に警戒したり、町中ではスリに気をつけなければならない。
兄貴はまだ出張から戻っていなかったが、長兄の家から両親が泊まりに来ていた。これで俺も安心して旅立つことができる。
簡単に両親を紹介しておくと、共に五十代半ばで、今までに四男三女の子を儲けて、現在は長兄の農家と次兄の牧場を行ったり来たりの生活を送っている農夫婦だ。
出立前夜、とにかく母親はよく喋った。大事な物は肌に巻き付けておけとか、大人だけではなく、子どものスリにも気をつけろとか、馬をしっかり休ませろとか、馬は並足の方が距離を稼げるとか、全部言われなくても分かっていることばかりだった。
全員でクルルさんが作った夕飯を黙々と食べた後、今度は珍しく父親が口を開いた。かなり珍しいことだ。長兄や次兄と仕事のことで話すことはあっても、俺や死んだ三男とは滅多に口を利かない人だからだ。
「ケンタスよ」
親父が話し掛けたのは友達の方だった。
「ぺガスのことを頼んだぞ。倅は昔からお前の真似しかできない子どもだった。お前が悪さをすれば同じように悪さをし、お前が孝行をすれば同じように孝行をする。倅はお前の行動次第で善人にも悪人にもなれる男だ」
それを俺の前で口にするのが親父らしいところだ。
「ケンタスよ、お前が心に迷いを抱いても、倅の心の中に答えは存在せぬぞ。寂しかろうが、お前は一人で答えを見つけ出さねばならんのだ。この世にはお前の心を迷わせる魔物が多く棲みついておる。それでも正しい道は存在することを忘れるな」
親父の言葉は、俺がケンタスに求めている気持ちのような気がした。
「人生には困難が付きものだが、お前は正しい道を選べる男だ。大衆の声に惑わされ、自分一人が間違っていると思うこともあるだろう。しかし忘れてはならんぞ。数に勝る大衆もまた、これまで多くの罪を犯してきたということを」
最近の親父は年のせいか、畑仕事よりも教会で人と話すことを好むそうだ。
「しかしながらケンタスよ、お前の本当の敵は大衆ではないぞ。お前を苦しめるのは己との葛藤だろう。誰よりもつらかろうが、闘い続け、打ち克ち、命がある限り勝ち続けるのだ。その戦果は誰にも気付かれぬだろうが、多くの者の救いとなるだろう」
こんなに喋る親父を見たのは生まれて初めてだった。
「ぺガスよ」
俺にも親父から一言あるようだ。
「お前はどこまでもケンタスの後について行け。一人でうろちょろしてはいけないし、ケンタスより前を歩いてもいけない。お前が下になることで、背中に翼が生えたかのように大きく飛翔できるのだ」
親父が空想的な例えをするとは意外だった。
「二人の意見が揃ったら、その時はそのまま進めば良い。二人の意見が違ったら、その時はケンタスの示す道を選ぶのだ。明らかにケンタスの意見が間違っていると思ったとしよう。それでもぺガスよ、お前はケンタスの意見を選ぶのだ」
言っていることが無茶苦茶だ。
「お前の果たすべき役割は意見を提案することであって、決定することではない。ケンタスの真似はできても、お前がケンタスになることはできぬのだからな。どんなことがあっても離れようとするんじゃないぞ」
俺とケンタスのどちらが実の息子か分からなくなる話だ。
「ボボ君」
初対面のボボにも一言あるようだ。
「君はどんなことがあっても生きて村に帰らなければいけない。懲役中に死んでも、誰も君の顔を知る者はいないし、誰も君の名前を呼ぶ者はいないだろう。家族以外の者には、生きていたことすら忘れ去られるのだ。だから生きてくれ」
これはボボに対してではなく、徴兵中に死んだ三男に語り掛けているようだ。
「功績を残そうとしなくてもいい。犠牲になろうとしなくてもいい。とにかく無事に生きて村に帰ることだけを考えればいいんだ。勲章がなければ褒めないような連中は、君が死んでも悲しまない連中だ。生きていることが為になる人となれ」
そこで急に親父が涙ぐんでしまった。必死に涙を堪えている姿が、見ていてつらくて、周りの人間が先に泣いてしまった。俺も泣いたし、ケンタスも泣いたし、ボボも泣いてしまった。母親とクルルさんも泣いて、三人の子どもたちだけが不思議そうな顔をしていた。
「三人共、今日はもう早く寝なさい」
そう言うと、親父は馬の見張りをすると言って厩舎へ行ってしまった。まさか親父から言葉をもらえるとは思っていなかったから、久し振りに家族の前で涙を見せてしまった。恥ずかしいが、旅立つ前に死んだ三男のことを思い出せて良かった。
気を引き締め直さなければいけない。俺には緊張感が足りなかった。これでは浮足立って、途中で事故に遭う確率が高まっていただろう。
事故にも確率があるはずだ。銀貨の詰まった巾着袋を見せびらかせばスリに狙われやすくなるのと一緒で、馬の疲れを考慮しなければ、いざという時の襲足で落馬事故に遭っていたかもしれない。
今夜親父と話をしていなかったら、きっと軍服を着て調子に乗ったまま旅立っていた。今夜は親父と死んだ兄貴に感謝して眠ることにした。
翌朝、見送ってくれたのは母親とクルルさんだけだった。
「じゃあ、ケンちゃん、うちの子をお願いね」
それが母親の別れの挨拶だった。
「義姉さん、兄貴に会ったら、こっちは心配いらないって伝えておくよ」
「うん、お願い」
クルルさんもあっさりしていた。
「行ってきます」
こうして俺たち三人は特別任務を受けて旅に出た。朝の陽射しだというのに、もう既に暑く感じられた。初夏と呼んでもいいくらいの気候である。これだと馬の給水は小まめに取った方が良さそうだ。
目安としてケンタスの兄貴がいるカイドル州の都までは片道で三週間から四週間は掛かるといわれている。それも天候に恵まれた場合に限るので、実際は往復で二か月半くらいは余裕を持ってもらえる距離だ。
緊急の伝令だと馬を駈足にして、町ごとに馬を乗り換えて先を急ぐ場合がある。これだと片道で一週間から十日もあれば到達できるそうだ。しかし先にも述べたが、一頭の馬だけで行くなら並足でゆっくり歩いて行くのが、結局一番早いという結論が出ていた。
ただし世の中は広いもので、中には脚力だけで伝令係をしている人間がいるらしい。馬の並足で三、四週間のところを半分以下の日数で走り切るそうだ。こういう人は戦時中に大活躍して、名前を残さないまま、ある日突然ひょっこり大地主になる。
今回の特別任務は、俺たち新兵に頼んでいる時点で、それほど重要ではなく、且つ緊急ではないと考えられる。陣営隊長に手渡された書簡の中身は確認できないが、期日指定はなく、確実に届けることだけしか念を押されていないからだ。
昔と比べて道が舗装されているので最短ルートで目的地に行けるというのも大助かりだ。戦時中のインフラ整備と違って、現在は田舎の村でも道がきれいになっていると聞くし、やはり余裕が持てる時代が続くというのはありがたいことである。
王都を出て、まず初めに目指す場所はハクタ州の都だ。そこまでの道は、水たまりができないようにきれいに舗装されている馬車道が続く。この道のおかげで生きたままの魚を大量に運ぶことが可能になった。
その上、道の分岐点にはちゃんと看板まで立てられている。こういうところに経済の安定というか、戦争のない平和な暮らしの風景を感じるのだ。戦時中は村の存在を消すために、わざと道を無くす村もあったそうだ。
「おいおい、ケン、どこへ行く? そっちじゃないぞ」
ケンタスの野郎がいきなり道を間違えやがった。
「うん?」
馬上のケンタスは涼しい顔をしていた。
「カイドルは北西だけど、ハクタは西じゃない。東の方角だ。看板にもそう書いてるだろ」
「知ってるよ。でも今日はハクタには行かない。先にボボの村の様子を見ておこうと思うんだ。二、三日遅れたって、どうってことないからな」
「それならそうと先に言ってくれよ」
「言ったけど、ペガは一人で考え事をしてたじゃないか」
確かにケンタスの言う通りだった。
「ボボの村に行く前に、途中でシャクラ村もあるから、そちらの様子も確認しておこう」
ケンタスは自由の身になった途端、好き勝手し始めた。本来なら誰かが手綱を締めないといけないのだが、俺は親父から余計なことをするなと言われたばかりだ。ボボも嬉しそうなので諦めるしかなかった。
ボボの実家に行かなければ今日中にハクタへ到着することも可能だったのに、辿り着くまでに二日も無駄にしなければいけなくなった。こんな調子ではカイドル州まで一か月は掛かってしまいそうだ。
現在歩いているシャクラ村への道は歩き慣れた道でもあった。道路や家屋に使う石の採掘場があるので、石運びの日には何度も往復した道だからだ。普段ならちょうど朝の出勤時間なので新兵がぞろぞろと歩いている時間帯だが、今日も仕事はないようだ。
旅に出たので思い出に風景の描写もたっぷりしたいところだが、採掘場しか目につかないので、切り崩した山が見える、としか表現しようがなかった。鳥が飛んで虫も鳴いているけど、興味がないからカラスやフクロウ以外は名前すら分からなかった。
採掘場を過ぎてからシャクラ村まで、ひたすら山間の道を歩くのだが、村に入る前に、どこか途中で馬に水を飲ませてあげなければならなかった。しかし、その飲み水に気をつける必要があった。
なぜなら子どもの頃からシャクラの水を飲んではいけないと言われていたからだ。なんでも鉱山の水や空気には毒が含まれているというのだ。といっても、国が問題化していないので、単なるデマの可能性もある。
もしも仮に毒の話が真実だとしても、シャクラの銅山は、貨幣の流通に安定をもたらすためには絶対に稼働を止めてはいけない国策事業となっているからだ。経済の安定が人命を救うという側面も見過ごせないわけだ。
俺だってシャクラに配属されていれば銅山で働かされていたので、決して他人事ではなかった。シャクラで働いていたというだけで差別を受けてしまう可能性もあるのに、笑っていられるほど愚かではない。
二千年後の俺の子孫には、お金を持つことのありがたみや、それが決して当たり前ではないということを残しておきたいところだ。お金の良し悪し、または金権主義云々の前に、貨幣を当たり前に持てるようになるまで苦労したことを忘れてほしくないのである。
「ぺガス、前を見ろ」
ケンタスに注意されて、前を見ると、荷馬車が眼前に迫って来ていた。
一旦、横道に避ける。
「おい、お前さんたち」
そのまま通り過ぎるかと思ったら、荷馬車の男は止まって声を掛けてきた。
「一体全体、このところどうしちまったっていうんだ? シャクラに行っても奴隷の姿をさっぱり見掛けなくなっちまったじゃないか。お前さんたちは王都から来たんだろう? 何か知ってたら教えてくれないか? これじゃあ商売にもならねぇ」
昔から世間では徴兵のことを奴隷と呼ぶ人がいる。この奴隷という言葉は時代や国や地域によって使われ方が多種多様なので、見解を統一させることは不可能だ。
我が国に限れば、徴兵は奴隷と呼ばれる側面もあり、国から仕事を優先的に斡旋してもらえる公共事業の従事者と呼ばれる側面もある。戦争が起これば彼自身も徴兵されるので、差別的意味合いで言ったわけではないことが分かる。
ケンタスが相手をする。
「我々は新兵なので事情は分かりません。シャクラへも初めて行くんです。それより商売にならないとはどういうことですか? こちらの方が聞きたいくらいですよ。良かったら教えてくれませんか?」
荷馬車の男が愚痴る。
「どうもこうもねぇよ。これまで何べんも商売をしてきたのに、その俺が盗人だって? 冗談じゃねぇっつうの。どうして盗品かどうか調べられないといけねぇんだ。難癖付けられて押収されたら堪ったもんじゃないからな。指一本触れさせてやらねぇんだ」
見ると荷馬車には丈夫そうな縄が積んであった。おそらくこの上半身裸で真っ黒に日焼けしている男は卸問屋なのだろう。シャクラは銅の精錬の他にも青銅器の加工場もたくさんあるのだ。
「こんなことは言いたくないがな。わざわざシャクラまで売りに来なくても、今はオーヒンでも売り捌くことができるんだ。品質が良ければ向こうの方が高く買い取ってくれるんだぜ? へっ、それを昔からの馴染だからシャクラに卸してるっていうのに、それを盗品じゃないかと疑われるんだもんな。わざわざ来て損しちまったよ。久しぶりに今夜は宿屋に泊って酒が飲めると思ったが、全部パアだ」
やはり今までに無かったようなことが起きているようだ。
「商売相手を疑うようになったらシャクラも終わりかね。お前さんたちは奴隷仕事があるだろうが、こっちは保証なんてないからよ。こんなことになるなら、もっと早くからオーヒンで販路を確保しておけば良かったな」
現在は中立国であるオーヒン国の通貨でも税金の支払いが可能なので、商人がオーヒンに流れているという話だ。王都の遷都も海外貿易に力を入れるのが目的ということだが、今のところはオーヒンの後追いという印象にしか見えないのが正直なところだ。
「お前さんたちは随分と若そうだが、何年目だ?」
荷馬車の男が尋ねた。
「まだひと月も経っていませんよ」
ケンタスの言葉を聞いて、男が憐れむのだった。
「それはご愁傷さまだな。まぁ、お前さんたちに比べればマシってことか。国王が変わればどうなるか分からんが、今より良くなることはないだろう。それまでにオーヒンの貨幣を貯めておいた方が良さそうだ。そっちの方が信用できるからな。お前さんたちが奴隷契約を終える頃には、恩給として貰えるカグマン貨幣がゴミ屑みたいになっているかもしれないんだぜ? 逃げるなら早い方がいいだろうよ。俺はもう二度とシャクラには来ねぇ。へっ」
そう言い捨てて、荷馬車の男は去って行った。最近の情勢不安はオーヒン国とも関係があるのかもしれない。確かに中立国オーヒンの方がビジネス・チャンスは多いと聞いたことがある。
「ケンよ、今の話だが、どう思った? 最近の異変はオーヒンと関係があるのか?」
ケンタスが馬上で眉間に皺を寄せる。
「男の話だけでは判断しようがないな。オーヒンについては分からないことが多すぎるんだ。国の成り立ちや政治形態など、なぜ中立国として存在できたのか、さっぱりだからな。兄貴が問題を起こして処分を受けたが、果たして何があったのか」




