偽りの少女に安らぎを④
ポタリ、ポタリ。
水の滴る音がする。
外は雨でも降っているのだろうか。
暗闇のなかにぼんやりと浮かぶ一つのカンテラ。
その淡い光は周囲に乱雑に積まれている本の山と、それを読み漁る一人の幼い少女をゆらゆらと照らす。
「フラノール様!」
突然一人の男が勢いよくドアを開け、少女の名を大声で呼ぶ。
「何でしょう」
鬱蒼とした夜の静寂を破られ、フラノールは恨めしそうに本から目を離しゆっくりと男に目線を移す。
「『ミラノ』を捉えました。もう暫くでこちらに届くらしいです」
男の言葉を聞くなり彼女は先ほどまでの何事にも興味が無いような冷めた顔を消し、耳まで裂けるような笑みを浮かべる。
「よくやりましたわ! はやく、はやく私のもとへっ!」
彼女は興奮し、男の腕を強く握る。
「フ、フラノール様、い、今しばらくお待ちを……!」
男は慌ててフラノールにそう言い嗜める。フラノールは逸る気持ちぐっと抑え、男の腕から手を離す。
「そ、そうですわね。私、少し外を歩いてきますわ」
「フ、フラノール様……!」
男は彼女に対してまだ何かを言っているようだが、彼女は聞きもせずにさっさと部屋を後にした。
ついに「ミラノ」が……手に入った!
フラノールはスキップを踏みながら意気揚々と廊下を歩く。
ドンッ!
「痛っ……!」
頭の中がミラノのことで一杯だった彼女は、正面からやってきたメイドと思い切りぶつかった。
お互いに尻餅をつき、地に手を付きながら立ち上がる。傍にはメイドが持っていた食事が無残にも散らばっていた。
「申し訳ありませんわ。お怪我は無くて?」
先に立ち上がったフラノールはメイドに手を差し出す。
「いえ、とんでもないです、フラノール様!」
メイドは慌てて一人で立ち上がり、フラノールに深々と礼をする。
「この食事は……?」
フラノールが散らばった食事を指差しメイドに尋ねると
「捕虜の方の分だったのですが……。片付けてからもう一度作り直します」
メイドは困ったようにそう言って掃除道具を取りに行こうと踵を返す。
「お待ちになって。捕虜にはこれだけで十分ですわ」
フラノールはかろうじてお盆の上に残っていた食事を抱え上げた。
「これは私が持って行きますから、あなたはお掃除だけお願いしますわ」
フラノールは満足そうにそういうと、メイドは呆然としたまま生返事をした。放心状態のメイドをしりめに暫く歩き続けると、彼女は一つの扉の前で歩みを止めた。
コンコン
「入りますわよ」
何も持っていない左手で丁寧にドアをノックする。彼女はその手で複雑な陣を描くと、扉は反応するように青白く輝き、拡散した。
内部は殺風景な作りで、簡易ベッドが並ぶ先に机と万能棚、そしてこの部屋には似つかわしくない大きな本棚がいくつかあった。
捕虜の部屋の割にはかなり広々としている。ベッドの数からして十数人は入りそうな部屋だ。カルディア教会内部にはこういう部屋はここにしか無く、捉えた輩はすべてここに監禁するためだ。
「食事ですわ。ちょっとアクシデントがあってこれだけしかありませんが」
フラノールは部屋に入るとベッドに座って呆然としている捕虜、リームに向かってずいとお盆を差し出した。
「まさかあなたが食事を運んでくるなんて……どういう風の吹き回しですか?」
リームは不思議そうにフラノールを眺める。
「捕虜の癖に生意気ですわよ」
フラノールはツンとした顔でリームを睨む。
「あはは、気に障ったのなら謝ります」
リームは特に悪びれる風も無く笑顔でそう言うと、フラノールから両手でお盆を受け取る。
―刹那、彼はお盆を握る手を離し、フラノールの腕を掴み強引に引っ張る。
「きゃっ……」
突然の出来事に彼女は体のバランスを崩し、なすがままに押し倒された。行き場を失ったお盆はそのまま地へ落ち再び中身をばら撒く。
「な、何てことをしますのっ!」
フラノールは強気にそう言うが、圧倒的に不利な状況下にある彼女の瞳は恐怖に染まっていた。
リームは片手でフラノールの手を押さえつけると、もう片方の手をゆっくりと彼女の首元へと伸ばす。
「っ……!」
首を絞められると悟った彼女は目を瞑りぐっと堪える……が、彼の行動はフラノールの想像するものとは全く異なっていた。
リームはフラノールの耳元に掛かる髪を払い、その耳の付け根にそっと触れる。そこには数センチに渡る深い傷がしっかりと残っていた。
―あの時、時の街から転落したミラノは街の絶壁に頭をぶつけ、後に残るほどの大怪我をした。
「やっぱり、あなたは―……」
リームは虚ろな瞳でフラノールを見下ろす。対照的にフラノールは先ほどまでの恐怖の表情を見る見るうちに歪んだ笑顔へと変化させていく。
「やっと気づいてくれましたのね。会いたかったですわ、「兄様」」
***
「なんだって!」
バブは机を両手で強く叩きつける。ユリナはそんなバブを横目で見ては、出された紅茶を涼しい顔で啜っていた。
「つまり、フラノールはミラノでミラノはフラノールで……わけわかんないわ!」
メイは両手で頭をクシャクシャと揉むと顰めた顔で独り言を言う。
フィラと和解したユリナ達は、メイと共に応接の間へと通されフラノールについての説明をさせられていた。
「ええ。フラノは未確定次元のミラノ自身よ」
「だ、だけど……なんで未確定次元が? 時の街のヒトには無いんじゃないのか?」
バブは焦りを抑え、冷静にユリナに問う。
「正確には、「時の街には無い」よ。時の街のヒトでも確定世界に居る間は多次元が存在するわ。ミラノは幼い頃から確定世界で育ってきた。他の一般人と同じよ」
「じゃあ無限にある未確定次元の中のたった一人のミラノがこうして世界の時間の仕組みに気づき、喧嘩売ってきたとでもいうのか?」
バブは無理のあるユリナの解釈に横槍を入れる。
「そこでアピス兄さんよ」
ユリナは紅茶のスプーンを上下に振った。
「どういういきさつなのかは知らないけれど、兄さんはフラノに何らかの情報を与えたのよ」
「それで「自覚者」か」
バブはうーんと唸るように言う。
「ええ。時の神の反抗勢力である「自覚者」はアピス兄さんの率いる集団ですもの。 ……ああ、御代わりいいかしら」
ユリナは後ろに控える神子に遠慮なく紅茶の御代わりをお願いする。
「おいおい……」
そんな彼女をバブは呆れたように見つめた。
「第一お前、なんでそんなに立場が強いんだ?」
バブは此処に来たころから気になっていた疑問をユリナに投げかける。
「うふふ……何でかしらね。」
ユリナは微笑しながらバブの問いを流した。
「二年ほど前に一度お会いしたことがあるのです」
先ほどまで沈黙を守っていたフィラがそう言う。。
「とにかく、話はこれで全部よ。私はこれからリームとミラノを探しにいくんだけど、フィラ君ももちろん手伝ってくれるわよね?」
話が途切れたのを見計らったユリナは満面の笑みでフィラにそう問う。フィラはもちろん、周囲の誰もがその笑顔の裏に断れないオーラを感じていた。
「え、あ、ちょ、ちょっと待ってください! そんな約束をした覚えは……」
フィラは慌ててユリナに言う。
そもそも世界の時間の仕組みどころか時の街の存在さえ知らなかった彼は、ユリナの説明では現状の一割も理解できていなかった。
「いい?フィラ君。あなた時の神様を崇めてるんでしょう?このまま放っておいたらミラノはフラノに殺されるわ! ミラノは神の子なのよ!」
ユリナはフィラの両腕を掴み、真剣に訴える。二人は時が止まったかのように暫くの間硬直していた。
「……分かりました。やりましょう」
フィラはため息を一つつくと観念したようにユリナにそう言った。その答えを聞いたユリナは満足そうに掴んだ腕を離す。
「フィラ様……」
周囲の見張りたちが怪訝な顔でフィラを見つめる。
突然教会を襲って姫を強引に奪い返した集団に従う上官に対する軽蔑の眼差し。フィラはそれを痛いほど感じた。
「ちょっと、あなたたち!」
視線から逃れるように俯くフィラを庇うようにユリナは一歩前に出た。
「さっきの話聞いたでしょ! フィラ君が協力してくれるってことは、あなたたちもあたしに協力するってことなのよ!」
ユリナがそう一喝すると、見張りたちは挙動不審にどよめき始める。
「ほら! 騒いでないで三人分の神官のローブを持ってきなさい!」
ユリナは手近な場に居た見張り数人に向かって叫ぶ。見張りたちはわけも分からず、とりあえず彼女にいわれるがままにローブを取りにいった。
「ローブなんか用意してどうするの?」
メイは不思議そうな顔でユリナに問う。するとユリナはいたずらな笑みを浮かべ言った。
「うふふ……変装して教会深部に潜入するわよ」
***
「あの時、攻め入る暴徒の術式から逃れるため、母様は私たちを陣外に突き飛ばしましたわ」
「そして僕らは時の街から転落した」
教会深部の軟禁室。
奥まったその部屋には光も届かず、机の上にポツンと置かれたランタンだけがひっそりと辺りを照らす。
仄かな光が映し出すのは、ベッドの上に仰向けになる少女とその上にまたがる青年。一見淫靡な光景に映るが、実態はそれとはかけ離れていた。
「時の街の周囲を覆うのは確定世界へと入る時空の歪み。今まで「たった一人」だった私たちに、瞬時に無限大の自分ができてしまいましたわ」
「あなたはその「無限大」の中の一人だと言うのですね……」
リームはフラノの目を真っ直ぐに見つめ、問う。彼女は何のためらいも無く静かに頷いた。
その様子を黙って見つめていたリームは、彼女から離れてベッドの端に座りなおす。
「一体どういうきっかけで世界の時間の仕組みに気づいてしまったのです? そもそもなんでこんなことを……」
リームが困った顔でまだベッドの上に横たわるフラノに問う。フラノは少しためらったが、静かに彼の問いに答え始めた。
「『確定時間』の私たち兄妹……つまりあなたとミラノは『二人ともトレインアイド王国に落ち、同国の王女に拾われる』という歴史になっているようですが、私が存在した次元では『私はカルディア王国に落ち、兄様は行方知れず』こうなっていますわ」
フラノは相変わらず仰向けに寝そべったまま無表情に答える。
「そう……だったんですか」
リームは何故か申し訳なさそうにそう言った。
「別にあなたが非を感じる必要はありませんわ。元々会ったことも無い兄ですもの。今更何の情もありませんし、何も感じませんわ」
フラノはそんなリームを余所に淡々とそう言う。
「ただ、身寄りの無い私を此処まで育ててくださった乳母様や、私を支えてくださった沢山の方々には……本当に感謝の言葉もありませんわ」
彼女は目線を天井から窓無き壁へと移し、語尾を霞めながらそう言う。
泣いているのだろうか……。
「なのに神は、私たちを裏切った……」
不意に彼女はこちらを向き、ポツリとそう言った。その頬に一滴の涙が走る。
「⁉」
突然フラノはベッドに預けていた体を起こし、傍に掛けているリームの胸倉を掴む。 驚いたリームは体勢を崩し、ベッドに肘を付いた。
「私たちの次元は神に見捨てられたのですわ!」
「ど、どういう意味で……」
醜悪な形相で凄むフラノに慌てるリーム。それに気づいた彼女は少し手を緩めて言葉を紡ぐ。
「次元の衝突事故のことはご存知でしょう? 兄様」
「え? ええ……」
フラノールの問いにリームは怪訝な顔をする。
「あの事故で私の居た次元は消滅させられたのですわ。同次元に存在する全ての人たちと共に」
憎々しげにそう語るフラノールにリームは言葉を失う。
「当時、敵対勢力に囚われ力を失っていた神は全ての神力を確定時間を守ることに回しましたの。結果、未確定次元の管理がおろそかになり、次元の衝突という最悪の事故を招いてしまったのですわ」
フラノールの責めるような目線がリームに突き刺さる。
「そしてフラノは誓ったんだよ。『自分がミラノに成り代わり、消滅する前の自分の居た次元を確定時間にする』と」
不意に背後から投げかけられた言葉の主に、リームはドキっとする。振り返るとそこには年恰好三十代の青年が立っていた。
青年は腰のあたりまで伸びた長い金髪をバサリと跳ね退けると、不適な笑みでささやく。
「どうした、俺がここに出てくることが心底嫌でたまらんような顔をしているな」
「……っ!」
青年が一歩手前に踏み出すと、リームはフラノを払い後ろに下がる。余程この青年が苦手らしく、じんわりとした汗が頬を伝っていた。
「まあいい。フラノ、準備が整った。最終段階に入るぞ」
彼は目線をリームからフラノールへと移し、事務的にそう言う。すると彼女は再び目を爛々と輝かせ、子供のようにはしゃいで言った。
「ああっ、アピス兄様! ミラノが……届いたのですね!」
「ああ。今ミラノは祈りの間に捕らえてある。フラノ、ミラノを殺せ! そうすれば確定時間を隔てる時の壁は無くなる。行け!」
アピスの合図と共にフラノールは猛烈な勢いで走り出す。状況は把握できないが、ミラノを殺すという言葉に反応したリームは二人の時を止めようと胸元のペンダントを握る。しかし、それよりも早くアピスがリームを取り押さえた。
「そこの見張り、こいつを拘束してその辺に縛り付けとけ」
アピスは抵抗するリームを押さえつけたまま振り返り、外で待機する彼の見張りに叫ぶ。見張りが道具を取りに行ったのを見計らうと、彼はリームに目線を戻し押し殺したような声で言った。
「お前にはこれから役に立ってもらわないといけないんだよ。時空の鎖はお前だからな」
アピスはそこまで言うと、大嫌いな異母弟を憎々しくげに突き飛ばす。壁で背を打ったリームはその場に力なくうなだれた。
暫くすると拘束具を持った見張りが戻ってきた。二人はリームの手足に棘のついた拷問具のような枷をつけると、紐でベッドの脇に括り付け動けないようにした。
作業が終わるとアピスは足早に部屋を出、見張りは持ち場へと帰っていった。
部屋に一人残されたリームはミラノを助けるため様々な考えを巡らせていた。もたもたしていてはミラノは殺されてしまう。
ふと足元に目線を落とすと、そこにはフラノールが取り落とした食事がばら撒かれていた。転がる鉄製の器の脇に、ひっそりと佇むナイフとフォーク。
リームは足でナイフを引き寄せ、後ろに回された手元に蹴りやる。なんとかその手にナイフを掴むと自分とベッドを括り付ける紐を切った。
とりあえず動けるようにはなったが、相変わらず手足は拘束されているので立つのも精一杯の状態だった。ベッドにもたれながらなんとか立ち上がると、何か書けるものが無いかとあたりを見回した。しかし見える範囲にはそんなものは無く、なによりも手を後ろに回して手枷をつけられている為手は使えない。
リームは深呼吸をすると、観念……というよりも覚悟したようにベッドに座り左足の裏を右足の枷に光る棘に刺した。
「似合ってるわ、二人とも」
夜更けのカルディア教会、見張りの休憩室からは温かな光が漏れていた。そこにはフィラとフィラの側近が数人、そしてカルディアの神子服に身を包んだバブ、メイ、ユリナの三人がいた。
それはフードのついた白色の長いローブで、裾は足首のあたりまでゆったりとあった。
「そ、そうかしら?」
メイが満更でもない様子でくるくると振り返りながら正面の全身鏡を眺める。
「その前に、俺に何か言うことがあるんじゃねーのか?メイ」
先に着替えを済ませたバブはそばにあった椅子に腰を下ろし足を組んでメイを眺める。
「な、なによ」
「なによじゃねーよお前、なに勝手なことしてんだよ。この間の一件でまだ懲りてねーのか」
ついこの間勝手なことをして迷惑かけたばかりなのに、早速勝手に動いて状況を悪くするメイにバブはいい加減堪りかねた様子だった。
「だって私リームと約束したのよ! 必ず助けにいくって。あんたが動くのを待ってたら三十年後になるわ」
メイは謝るどころか強気な皮肉で返した。彼女もバブがわざわざリームを救出しに行くとは微塵も思ってなかったらしい。
「そうだとしても一言くらい相談しろよ」
特に否定もせずに答えるバブに、メイは深いため息をつき呆れ顔で返した。
「私は謝らないわよ」
プイとそっぽ向くメイ。そんなメイを据わった目で見つめていたバブはこれ以上言い合っても時間の無駄だと思ったのかそれ以上追求することも無かった。
「……ふふっ、ははは」
二人のやりとりを静かに見ていたフィラがクスクスと笑い声をあげる。
「お二人とも、本当に仲がよろしいのですね」
「どこをどう見たら仲良く見えんのよ!」
他国の重鎮に対して身内のような態度をとるメイを慌ててバブが制す。
「すいません、この女……いやうちの姫は脳が全体的に残念で考えなく喋るものですから……ほら、メイ!」
バブはメイの後頭部を押し無理やり頭を下げさせる。メイは小学生低学年の少年が母親に怒られたときのような顔をしていた。
「いえ、表を上げてください。あなた方を見ていると、弟を思い出します」
「へー、弟とか居るんだ」
メイがその話に興味を持ち、続きを聞こうしたが
「さ、じゃあお二方そろそろいいかしら?」
少し離れたところから温かいまなざしで見守っていたユリナが二人の元に近づき言った。
「ああ。でもこれからどうするんだ?」
「ふふ……教会深部まで侵入してヴィードと接触するわよ」
ユリナは不敵な笑みを浮かべた。
「ヴィードに?でも俺たちは顔割れてるぞ。いくらフードを被ってもそれくらいじゃ……」
「そこは術式の力を借りるわ」
そういうとユリナはバブの傍にあるテーブルに置いてあるペンを手に取る。彼女はペンのふたを抜くと床に何やら複雑な文様をスラスラと描いていった。
「よし。二人ともこの陣の内側に入って」
ユリナは陣の外から二人にそう促す。二人は言われるがままに陣の内側に入った。
「シルファディア王家の術式二十「幻惑の術式」」
ユリナの術式開始宣言に呼応するように床に描かれた陣は青白く光り、床から剥がれ二人に収束してはまばゆい光を拡散した。
「……なにが起きたんだ?」
特に何も変化を感じない二人は自分の手を眺める。するとフィラとフィラの隣に居る二人の側近が大声をあげ二人を指さした。
「お二人が……私たちに?」
フィラの側近が驚いてそう言うと、メイとバブはお互いを見合わせ、不思議な顔をした。
「どうなってるの?ユリナ」
状況が呑み込めないメイはユリナに説明を求める。
「あなたたちに「幻惑の術式」を掛けたわ。この術式は陣の外に居る人たちの脳を錯覚させて陣の中に居る人たちを陣に記した別の何かに擬態させる術式なの。今、あなたたちは陣の外のあたしたちから見るとこの二人と同じ容姿をしているわ」
そういうとユリナはフィラの側近の元に寄り指をさした。
「もともとこの術式は陣の外に対して働きかける術式だから陣の中に居ると作用しないの。だから二人はお互いに何も変化がないように見えるのよ」
「な、なるほど……」
ユリナは術式の説明を一通り終えると、フィラの手を取った。
「さ、フィラ君。ヴィードの元に案内して?」
「は、はい」
ユリナの手早い術式捌きにあっけを取られていたフィラは正気に戻り、テーブルの上で煌々と輝くランタンを手に取った。四人は見張りの休憩室を出て奥の暗がりに向かって進みだす。
「なあユリナ、こんな術式を使うならなんでわざわざ着替える必要があったんだ?」
先ほどの術式の説明なら頭のてっぺんから足のつま先まですべて術式で偽ってしまえばいい。なんでこんなに回りくどいことをするのか、バブは不思議に思った。
「そうね、この術式は実際に姿を変えるわけではなく見る人の脳に語り掛ける不安定な術式なの。ふとした拍子に脳が本物を捉え認識し、嘘がバレてしまう可能性もあるわけよ。だから、他人を欺くときはできるだけ偽るモノに近づけておいた方が効果的なのよ。実際至近距離に近づくと術式の効果が弱まり本物が見えてしまうからね。まあ至近距離といってもこれくらいの距離だけど」
ユリナはそう言うとバブの顎に手を当てて顔を近づける。その距離わずか十センチ程。唇が触れ合うか触れ合わないかくらいの距離で淫靡な笑みを浮かべるユリナに、バブは一瞬たじろぐ。
「なるほど、キスするときはイケメンでよかったな」
彼は不敵な笑みでそう言うと、いつの間にかユリナの腰に手を回していた。このままここで何かがおっぱじまるのではないかと思うような二人の間にメイは強引に割り込んだ。
「この大事なときに何やってんのよ!」
顔を真っ赤にしたメイはバブを突き飛ばした。この二人はどこまで冗談でどこからが本気か全然わからない。傍で様子を見ていたフィラすらも頬を染めて目をそらしている。
「ほら!ふざけてないでさっさと行くわよ!」
メイは顔を赤らめたまま鼻息荒く進みだす。……が、道がわからないので結局フィラの後ろに回った。
「うふふ、メイったら本当かわいい」
一連の動作を眺めていたユリナは可愛いぬいぐるみを愛でるような目で見つめた。
「しかしユリナ様、貴女はなぜ陣の中に入らなかったのです?」
先頭を歩くフィラが不思議そうに尋ねた。同じことを思っていたメイとバブもうんうんと頷いた。
「そ、それはほら、私はヴィードと面識あるし、偽る必要ないからよ」
いつもふわふわと振る舞い他人を攪乱しているユリナが珍しく慌ててそう言う。バブは少し不審に思ったが、今は追及の時でもないだろうとその疑問は心の中に仕舞った。
暫く右へ左へ登ったり下りたりしていると一つの扉の前に着いた。途中何人かの神子と思わしき人や教会関係者とすれ違ったが、誰も二人の正体には気づかないようだった。
「この奥がヴィード様の部屋ですが……」
フィラは扉の前で立ち止まると振り返り、不安げにユリナを見つめた。
「ヴィードにリームを返してもらうように交渉してみましょう。フラノと何らかの接触をしたと思われるリームに状況を説明してもらう必要があるわ」
ユリナは扉を見つめながらそう言った。
「わかりました。それでは開きますよ」
フィラはその手で扉の前に陣を描く。すると扉はフィラが描いた陣を追従して青く輝き、拡散する。彼が扉を押すと静かに開いた。
「フィラ、こんな時間に一体何事です?」
ヴィードは突然現れた部下に驚く。
「ヴィード様、こちらの方が貴方に御用があるそうで……」
フィラが恭しくそういうと、その後ろからユリナが毅然とした態度で現れた。
「お久しぶりね、ヴィード」
ユリナが高圧的に挨拶すると、ヴィードは嫌なものでも見るかのように苦々しく顔を歪めた。
「おや、これは……ユリナ様。一体こんなところに何用ですかな?以前も申しましたように、私共は神力保持者ではございませんし、ここに神力保持者はおりませんぞ」
「いえ、今日は別件で来たのよ。あなた、この間時の街の男を捉えたでしょ? そろそろ開放してあげてくれないかしら?」
ユリナが一歩前に出ると、ヴィードは一歩後ろに下がる。
「ああ彼か……。彼を捉えたのはフラノール神ですぞ。その後どうなったのか私は知りませんな」
緊迫した雰囲気の中、ヴィードはユリナに気圧されながらも落ち着いた声でそう言う。この様子だと本当に彼はリームについて何も知らないらしい。
「使えない男ね」
浅いため息を一つつくとユリナは頭をかいた
「じゃあとりあえず捕まえた人を監禁するような部屋に連れて行って頂戴?」
ユリナがそう問うと、ヴィードは観念したように部屋を出て案内を始めた。
ヴィードはフラノールを神と崇め、フラノールが望む「自覚者」を教会に密かに集めていた。
たとえ時の街の連中が訪ねてきても、ヴィード自身は神力保持者ではないのでバレることは無い。彼は連中と接触するときの窓口となっていた。
そして安全に自覚者を集めるためには、教会の窓口として時の街の連中とも程よい関係を保っておかなければならない。ヴィードは時の街に対し強く出ることはできなかった。
「こちらです」
一行は鉄製の扉の付いた部屋の前に案内された。ヴィードが扉に向かって陣を切ると、同じく青白い光が追従して拡散した。
「……貴方が開けなさい」
一応罠の可能性を考慮し、ユリナはヴィードに扉を開けさせた。彼がしぶしぶ扉を開くと、そこには手足を拘束されたリームがベッドの前に座っていた。
何故か彼の周囲には毛布や本などが散乱している。
「リーム!」
メイがそう叫ぶと二人の体が突然青白い光に包まれ、収束しては拡散した。どうやらリームとの再会が幻惑の術式の解除キーになっていたらしい。
術式が解けメイ達が顔を露わにすると、ヴィードは驚いてよろけ背後の壁で背中を打った。そんなヴィードをよそに、リームを見るなり一番に駆け出すメイ。彼女は枷を外そうと試みたが術式が掛かっているようだ。
「ヴィード、貴方これ外せるでしょう?」
ユリナが冷たい口調でそういうと、ヴィードは悔しそうに術式を展開し枷を外した。手足が自由になったリームが立ち上がると、その胸元にメイが飛び込んできた。
「ううっ……ごめんなさい、私、私……」
大粒の涙とついでに鼻水まで零し大泣きするメイ。
「あはは、メイさんが元気そうで何よりです」
リームは笑顔でそう言うとメイの頭を優しく撫でた。
「何でリームには謝るんだよ」
バブはその感動の再開を面白くなさそうに眺めていた。一番メイに手を焼いたのはバブ自身だと本人も自負していてのコレである。
「……で、一体どうなってるの?」
ユリナは泣きじゃくるメイを嗜めているリームに聞いた。
「フラノールは未確定次元のミラノ自身です。彼女はミラノを殺し、自分がミラノに成り代わろうとしている。早くミラノを探し出して助けないと……」
リームはそう伝えると教会のさらに奥の方を見つめた。
「ミラノはどこに?」
「兄さんは「祈りの間」と言っていました」
場所がわかっているのなら話は早い。
「フィラ君、案内できるかしら?」
「ええ、祈りの間なら私でも分かります」
手早く突入準備を済ませるユリナ達の前にゆらりと影が蠢き立ちはだかる。
「あまり舐めてもらっては困りますな、ユリナ様」
気がつくと部屋の四方八方を教団関係者に取り囲まれていた。
「フィラ、いつまでその連中と馴れ合っているのです? 早くこっちに来なさい」
ヴィードはフィラを睨みつけながら厳しく叱咤した。
「ヴィード様、私は……」
フィラは口ごもり力なく俯く。彼は敬虔なカルディア教団の信者だった。幼い頃にその才能……つまり神力を見出され、ずっと教団で育ってきた。
彼にとっては教団が信仰する「時の神」は唯一無二の絶対的な存在なのである。その、まさに信仰の対象である時の街の面々が今、目の前にいる。
真実を隠し何一つ教えてくれなったカルディア教団への不信感と、時の街という信仰対象に対する憧れがフィラの行動を鈍らせていた。
「……フィラ君、あなたが協力してくれてミラノを無事救えたら、神の娘の恩人として時の街に招待するわよ」
ユリナが迷える子羊にトドメの一撃を食らわせる。その一言に彼の心の天秤は完全に振り切った。
「ふん、恩知らずの裏切り者が……全員、敵国の侵入者共々殺せ!」
ヴィードがそう号令すると、彼らは一斉に襲いかかってきた。
「ここはあたしに任せて、メイ達はミラノを」
ユリナがメイ達を庇うように敵兵の前に立つと、バブとリームは軽く頷いた。
「ユリナ一人じゃ無理だわ!皆でコイツら倒して……って、うぐっ」
大勢の敵と一人で対峙するユリナを引き止めるように叫ぶメイを、バブがみぞおち辺りを一小突きしてヒョイと肩に担いだ。
「ユリナ」
リームは彼女の名を呼ぶと手短になにかを耳打ちし、バブ達と共に敵の合間を縫っては教会の深部へと駆けて行った。