第七十七話 オランワハル
「はあ、あれ……?」
急に手応えがなくなったことを訝しむようにカエル野郎は自らの手を見下ろした。
その脂ぎった腑抜けた表情から一転、あっという間に顔色が悪くなる。
「あ? あ、あああ!? お、お、お、オレの手えぇええ!?」
自らの手があるはずの部分と床のそれを交互に見て叫んだ。
ラトラはたまらずといった表情で「ぶはっ」と吹き出した。
慌てて拾い上げようとした手を、ラトラが蹴飛ばす。フワッと浮いた手は「ボンッ」と抜けた音を立て再び床を転がった。意外と転がるソレは、部屋の奥へとごろごろと転がっていく。
「ちょっ、ラトラ様っ、あっ、ああっ、わた、オレの手っ」
あわてて転がる手を追いかけるカエル野郎。
「あっははは、良い余興ではないか!」
それを見てラトラが指をさしてわらう。部下の一人が慌てて拾い上げると小走りに手渡しに来る。
「どれどれ、もう一回蹴らせろって、痛った!」
そんな彼女の頭を思いっきりはたいてやった。びっくりしたような表情でラトラが振り向く。
「もう、なにするんですかお姉様~」
ぷうと頬を膨らませラトラが抗議の声を上げる。
「なにするんですか、じゃないわよ。何やってんのアナタは!」
「え、お姉様にちょっかいを出すドスケベ野郎の、癖の悪い手を落としてやったのです」
ラトラは平然と言ってのけた。あまりの間尺に合わない考え方に頭痛がする思いだ。
「あああ、お前らなんとかしろぉぉ」
「なんとかと言われましても……おい、止血帯もってこい!」
「うわわ、血が、血がぁ~」
哀れ、魔法が使えない彼らには今どうすることもできない。治療薬と言ってもすぐには用意できないだろう。普通なら死んでもおかしくない重傷だ。
「エル」
「はい? なんです、お姉様」
「悪いけど、お願い」
「えー……私もどちらかというと、ラトラちゃん側の意見なんですけど」
あからさまに嫌そうな顔をして手を口元に添える。
「うん知ってる。でもお願い。こんなの、エルにしか頼めないから」
髪を軽く撫でて肩に手を置く。目を見開いて一回パチクリと瞬きしたエルは視線を外し、肩に置かれた私の手をそっと撫でる。
「こほん。そ、そうですか。まあそうですよね! うん、お姉さまのお願いです。不本意ですが仕方ありません」
そして「ほら、さっさと準備する!」などと厳しい声を兵士たちに掛けながらカエルの方に近づいていった。
最近気づいたのだけれど、『エルにしか頼めない』というと、ほぼ確実にお願いを聞いてくれる。今まで無意識に言っていたような気がするけれど、こういったときには本当に便利だ。……本人には悪いけれど。
ずるいかな? と心のなかで舌を出す。
「お尻を触りたいみたいですから、お尻の近くにつけてあげましょうか~?」
「あ、あの、できれば元の場所に戻していただけると、大変、助かるのですが」
エルはエルでひどいことをいいながらも治療を進めている。
「さてラトラ」
「え、な、なにお姉様」
「あなたには後で、お話があります」
さすがのラトラも不穏な空気を察したのか、上目遣いで「な、なんです?」と聞いてくるけれどその後部屋に戻るまで放置しておいた。
そのおかげか、その後はとても静かにパーティーを過ごすことができた。
もちろんラトラにはその後、きっちりとお灸を据えてやった。
最後まで「ウチ、わるくないもん!」などと言うもんだから、「今後お姉様って呼ばせないけれどいいかしら」とけしかけてやると、あっさり謝った。
翌日は体調不良を理由にカエル王は姿を見せなかった。またラトラになにかされたらたまったものではないとでも思ったのだろうか。
船の出港は夕方とのことだった。
不意にできた時間を、私は城を見て回ることに使った。
レンブルン城。かつて私のマ……クリスティーナ王女が暮らしていたという城。
重厚な総石造りの城だ。長年の潮風や幾度となく繰り返された争いにも耐え、レンブルクの発展を担ってきた王城。しかし魔法という強力な盾と鉾が失われた瞬間、あっという間に魔族に蹂躙され、『忌み子』に簒奪された。
彼らを迫害してきた立場の者たちは、ことごとく追い落とされたわけだ。
いい気味だと思ってしまった。
思ってから自己嫌悪した。
上層にある王女が住んでいたという部屋に入りたかったが、許可されなかった。
私は部外者。ムリもない。「私、実は王女の娘なんです!」なんて言った日には捕らえられてしまいかねない。スゴスゴと階下に戻る。
廊下の絨毯は美しい朱で染め上げられている。壁にもタペストリーやフラッグなどの飾りが設えられ、数週間前に激しい戦闘があったなど気づかせない程だ。
しかし窓枠や曲がり角の壁に目をこらすと、新しい無数の刀傷がついているのがわかる。
また木枠には薄っすらと血がこびりついている箇所もある。
まちがいなくここは戦場だったのだ。
廊下の突き当りの木戸を開いたら、そこは城壁の上だった。岬に沿って立てられた壁は、そのまま岬の突端まで続いている。海からの強い風に髪を押さえながら外に出る。
バタバタと暴れる服もしばらくはなんとかしようと思ったけれどすぐに諦めた。風に翻弄されるまま、しばらく歩き続ける。
岬の突端に近づくにつれ、風は勢いを増した。ようやく突端の、その先に立った時、景色は一変した。
「……空をとんでるみたい」
視界いっぱいに広がるのは一面の海原。あとは海からの上昇気流に乗って一気に高度を取る海鳥や猛禽たち。それに空をのんびりと流れる雲。
首を右に巡らすと、少し離れたところに城下町。その港には今日使うのだろう帆船が停泊しているのが見て取れた。
再び視線をまっすぐ海に向けると気づいた。海原の先に微かに浮かぶ島影。
「あれが――」
「そ。アレが私達の島。オランワハルって呼んでる」
振り返るとラトラがいた。いつの間に。でも良かった。どうしてだか、今は誰かがそばにいてほしかった。
「オラン……ワハル」
視線を島に戻してつぶやく。遠くでゆらめきながら辛うじて見えている島影を見ていると、何やら言いようのない感情が湧いてくる。
「いいところだよ。気候もそんなに変わんないし。こっちの島と大して変わらない。まあ、住んでいる魔族が多いから、ちょっと窮屈ではあるけれど、ね」
ラトラは隣に並んで同じように海を眺めた。
「それも今回の『裁きの星』のおかげで解消する。悪いけれど、この大陸は返してもらう」
「『裁きの星』?」
私の問いかけに彼女は振り向く。
「そうだよ。魔法がつかえない理由。もう人族も知ってるんでしょ?」
『天馬の変』のことを言っているのか。
「ええ、そうね。人は『天馬の変』と呼んでるわ」
「へえ。それはずいぶん洒落た名前だ」
ラトラは歌うように語った。
「これから魔族はどうするの? 魔法使いが再び力を使えるようになったら――」
「それを父上にたずねにいくのでしょう? なんか、秘策があるって言ってたよ。私も知らないから、すっごく楽しみなんだよねー」
彼女も詳しいことは知らないという。幸い彼女という伝手もここに居るわけだし、これはもう、いっさいがっさい島に行って直接魔王様に聞くしかなさそうだ。
◇ ◇ ◇
夕方私達はレンブルンを離れた。陸から吹く風にのって、帆船は順調に沖へと向かう。随分頼りない炎だけの明かりが徐々に離れるにつれ、空のほうき星のぼんやりとした光に照らされる。幻想的な光が、精霊たちを虜にする。
仲間たちとしばらく話していたけれど、毎日話をしている間柄。語る内容も尽きて夜半前には皆与えられた船室に入った。
特段なにをするわけでなく、さっさと床に入る。
ゆったりと揺れる船の動きにつられ、次第にまどろみの中におちる。
そんなときだった。
ゴゴ……ン
船首のほうで何か音がした。
意識を戻した次の瞬間、大きな破裂音とともに船室の窓が粉々に砕けた。
あわてて飛び起きる。今の衝撃で照明のランタンが破壊されてしまった。光の精霊に仕事をしてもらう。
”ヴァイス”
”ああ。お客さんのようだな”
廊下に出ると仲間たちも次々に廊下に出てきた。
「エル」
「はい、明かりですね」
間髪入れずエルも明かりを出す。
「エル、ディルにも明かりを用意してあげて。私はジェフリーに」
「ヴァイスはいいとして、ユルスラは」
「彼女も夜目が効く。不要よ」
「そういうこと。さ、上甲板に行くぜ」
ユルスラがニヤリと笑って顎をしゃくった。
ヴァイスとユルスラは持ち前の身体能力でスルスルと混乱の中飛び出していく。
甲板ではすでに戦闘が始まっていた。隣にはいつの間にか同じクラスの船が横付けされている。しかしあの船、マストがついていない。どうやって動いているの?
あいや、そんな事は今はどうでもいい!
「しかし、アレは何?」
ほうき星の明かりに照らされたのは大きな……クマ!? まさかこのカラクリ!
そんな考えを確信に変えるに充分な声が、カラクリから聞こえてきた。
「はぁ~い、魔族とエルフのお姫様がた、こんばんはぁ」
クマのカラクリは爪を伸ばしてからうやうやしく挨拶をすると、盛大に蒸気を吐いた。
「お命、頂戴にまいりましたわぁ」






