第七十一話 水底の澱
最初に「助けていただいてありがとうございました」と言ったきり、野営地に戻るまでエルは終始無言だった。それとなく観察してみたけれど、どこかを痛めたとかそういう感じではなさそうだった。
光の精霊が照らす道を帰ってきたし切迫する状況ではないのだから、戻りはそう神経を減らす行軍ではなかったはずだった。しかし彼女の様子がそうさせるのか、ぐっしょり濡れた長靴で歩くかのようにその足取りは重い。
野営地から精霊の明かりが見えていたのか。もう少しというところで、ブンブンと手を振る元気なディルの姿が見えた。
「エル! 無事だったのね、良かった!」
駆け寄って来て嬉しそうにディルがエルの手をとる。
「ディル……ごめんなさい、心配かけちゃって」
エルはバツの悪そうな苦笑いを浮かべた。
「ずいぶん遠いトイレだったな」
ジェフリーのからかい混じり、いや完全にからかったセリフに、エルは氷のような視線を彼に向ける。
「その軽口を二度と聞けないようにのど元にナイフでも突き立てて差し上げたいところですけれど、今回はご迷惑をおかけしましたので黙っていることにします」
「うん、黙ってないからな? しっかり文句言ってるからな?」
そんなエルの氷の槍と見紛う切れ味鋭い言葉も、ニヤニヤと受け流してしまう。そんな姿を見てしまうと、実は彼にとってはご褒美なのではと勘ぐってしまう。
「ほんとにもう、エルはいま魔法が使えないんだから、一人で離れたらだめじゃない」
「……ほんとそうね」
腕を組んでため息をつくディルとうなだれるエル。珍しいシチュエーションかもしれない。
「今度からトイレ行くならアタシが一緒についていってあげるからね」
「ディルちゃん優しいねぇ」
胸をドン、と叩くディルにジェフリーが感心したように――いやこれもきっとからかっている――相槌を打つ。
「そりゃ姉妹だからね」
などと得意げに口角を上げるディル。この子悪気はないと思うんだけれど、すぐ乗せられちゃうのがなんとも。
「そうですね。トイレも満足に一人で行けないなんて。まるで動けない傷病兵かお年寄りみたいね」
「やだ、そんなんじゃないわよエル」
「なに? 役に立たない、足を引っ張るだけの私がそんなにおかしい? それとも哀れみかしら?」
エルはうつむいたまま早口で話す。表情はサラサラのアッシュブロンドに隠れうかがい知ることはできない。けれど両の拳は固く握られている。
会話の雲行きが怪しくなってきた。
「……そんなこと、誰も言ってないじゃない。エルどうしちゃったのよ」
ディルが腕組みをやめ、両手を広げてエルに問いかける。
「わかってるでしょ。魔法も使えない、剣の腕もからきしの私なんてなんの役にも立たないってこと」
相変わらず地面を見つめながら話すエルだったけれど、サラサラの髪から覗き見えた表情に思わず息を飲んだ。
エル、あなた。なんて表情してるのよ。
「役に立つとか立たないとかなによ。私達、仲間でしょ? そんなことは問題じゃ」
その言葉にエルは顔を上げた。怒り、悲しみ、悔しさ。そんな感情がないまぜになったような、そんなつらそうな表情。
もしかすると今、私は彼女の内面を初めて見ているのかもしれない。
「問題なのよ! なにが仲間よ。ごっこ遊びしてるんじゃないのよ。私は、みんなの役に立たないといけないの! そうじゃないと、私」
胸元に手をやりエルは声を荒げた。
「考えすぎじゃないのかなぁ? エルだって役に立ってるじゃない」
「は? 例えばなんですか」
エルはユルスラを睨みつけながら問いかける。だめだユルスラ、そんな呑気な口調で話しかけたら彼女は。
彼女は尻尾をわずかに緊張させながら顎に手をやり視線をさまよわせた。
「えっと、例えば」
ほんの二、三度瞬きをする間黙り込んだあと、目を輝かせて人差し指を立てながら元気よく答える。
「そう、馬車を扱える!」
「そんなの、お姉さまやディルにもできるじゃないですか!」
「あ、はい」
ユルスラはしょんぼりと尻尾を萎らせて黙り込んだ。
「エル大丈夫よ、そんなこと誰も思ってない」
「いいえ。お姉さまだってきっとそう。本当のところは役に立たない私なんて、心の中では厄介だって思ってらっしゃるのよ」
エルはもう自分の感情を抑えられないでいる。
いっそのこと、全て吐き出させてしまったほうがいいかもしれない。
「エル! あなたいい加減に」
「なによディル! ちょっと剣が扱えるからって偉そうにしないで! 私が居なければとっくにあの世行きだったくせに!」
「な……んですって?」
「おいおいお前らそれくらいでいいんじゃ」
「「アンタは黙ってて」」
ヒートアップした二人に鋭い拒絶の言葉を投げつけられたジェフリーは、「わかったよ」と一言いうと肩をすくめて天幕に潜り込んだ。
”おいおい、アレ、いいのか?”
振り向くとヴァイスが起き上がってこちらを見ていた。
”あら、他人の心配なんて珍しいわね、ヴァイス”
”昨日今日の仲じゃないからな、そりゃ多少は”
”まぁ、いよいよとなったら割って入るけれど。今は吐き出させたほうがいいのかも”
”そうかもな。じゃ、俺は寝る”
ヴァイスは一つ大きなあくびをすると、再び丸くなった。
「わ、私は自分で剣を鍛えたし、自分で生きる道を選んできたつもりよ!」
「何言ってんのよ。私は姉だから、出来の悪い妹の面倒を見なければいけない。魔法が使えないから別の能力を与えてあげないといけない。殺されそうになったら助けてあげないといけない。だって私は、姉だから」
「それは違うよ、確かに助けてもらったことは少なくない。けれど最後は二人で頑張ったからここまで来れた、だから今生きてる。そうじゃないの?」
「違わないわよ! 事実でしょ。あなたが剣を教えてもらえたのも、殺されずにすんだのも、全部私のおかげ。違う!?」
「エ、エル。あなた……もうこの際だから言わせてもらうけれど、あなたほんっとうに恩着せがましいわ!」
「は、はぁ!? 恩着せがましいって何よ!」
「なんでもお姉ちゃんがアレをしてやったとかコレを手助けしたとか! 確かにそういうことも少なくなかったわよ。でもね! 毎回それを聞かされるこっちの身にもなってよ! 空気読めないのはエルのほうじゃない!!」
「恩着せがましくもなるわよ! なんで私だけ苦労しないといけなかったのよ。どんだけ私が毎日毎日、まーいにち! 大人と戦ってきたと思ってるのよ!」
「は? ……なにそれ」
「あなたのためにどんだけ大人達とぶつかったのか、あなたは知らないでしょ!? あなたを放逐するって話も一度や二度じゃなかったんだからね!」
「え……そんなこと、私、聞いてない」
「あたりまえよ。聞かせてないんだもの。そうとも知らず本当に脳天気な子」
「ちょっとエル。言葉を選びなって」
「うるさい、他人は黙ってて!」
ユルスラがなんとか場を収めようと口をはさもうとするけれど、ぴしゃりと放たれた明確な拒絶にビクリと肩を震わせ再び黙りこくる。
そのまま勇気ある不幸な獣人ちゃんは、「はわわ」と情けない声を出しながら私のところに寄ってきた。よしよし、と頭を撫でてあげながら論戦の行方を見守る。
「そのたびに私はあなたのこと必死になってかばった。もしかしたら王家の役に立つかもしれないと、随分薄汚い物言いもしたわ。それだけ必死だった。そうしないと翌朝には居なくなってしまうような、そんな状況だったから」
「そ、そんな雰囲気だったなんて私全然しらない……知らないよ!」
「あなたはそんな汚い部分を何一つ知らずに育った。そりゃそうよね。私が隠してたんだもの。おかげで本当に素直におおらかに育ったわ。ほんと、うらやましい」
「うらやましいって……」
「あのクソッタレの王宮の中で生きていくためには強くなければならなかった。賢くなければならなかった。まるで欠かさず爪を研ぎ、知恵をつけないと、あっという間に子供がさらわれ食い殺される弱い獣みたいに。そうしないと姉として、妹を守れないから」
気づけばエルは泣いていた。笑いながら、ハラハラと泣いていた。
「だから妹ひとり守れない今の私なんて、存在する意味がないの。間違っても、守らねばならないはずの妹に守られる立場になるなんて。そんなの、絶対許されない」
「そんな、だってあと一月ちょっとで元に戻るじゃない、なにもそこまで」
「なにもそこまで、ですって? この屈辱、あなたには絶対わからない。いいえ、わかってたまるもんですか!」
エルは言葉のナイフで周りを、そしてなにより自分自身を傷つけ続ける。
そんな様子を見ていた私は、あることを試そうと思っていた。以前ヨルグになんの気なしに聞いたことを。






