第五十七話 誰かを守るということ
長年――といっても数年だけれど。わが家の前に立ち見上げる。お父さんと過ごした古本屋。目を閉じると様々な思い出がよみがえる。途端に涙がこみ上げる。
すぐにでも、ここから立ち去らないといけないということ。そしておそらく、二度とは戻ってこれないということ。それらが私を感傷的にさせる。
「お姉ちゃん」ディルが私の手を握る。心配そうに覗き込む表情はどこまでもやさしい。
「大丈夫よ。行きましょう」そっと髪を撫でて一歩踏み出し、ドアを開ける。
『月下のイモリ亭』。半年と少ししかたっていないというのに、ずいぶん家を空けた気がする。みんな元気だろうか。
「ごめんなさいね、今日は店は……あ、アレクシア!」
トニエラおばさんが私を見るなり手に持った皿を取り落とし、駆けよってくる。木の食器でよかった。カランカラン、と乾いた音を立てて食器が床に落ちる。
「よかった、無事だったんだね!」
そして私を抱きしめてくれる。少し気恥しいけれど、とても暖かくて。すごくうれしい。
「ただいま、おばさん。なんとかね。早速で悪いんだけれど、おじさんたちを呼んでくれないかな。手紙で書いたとおりのことが昨日の夜から始まったみたい」
私の言葉に身を離すと、おばさんは大きく頷いた。
「ああ、だろうと思ってね、昨日の夜からあたしたちは逃げる準備さ! うちの旦那が『ワシはここに残る』ってうるさいんだけれど、なあに。首に縄付けてでも連れていくさ!」
そう言っておばさんはガッハッハ、と笑った。もう少し淑やかにしてほしい。
「馬車を用意しているから、最低限の荷物だけ持って集まって!」
「あいよ!」
そう言っておばさんは店を飛び出した。
「手紙って? ……ああ、今回の件、あらかじめ伝えて準備してもらってたんですね!」
エドが一瞬不思議そうな顔をしたけれど、すぐに事情を察知したようだ。ディルは……あ、大丈夫みたいね。
「お姉ちゃん、持っていく品を準備して! 私は市場のルドルフおじさん捕まえてくるから!」
そう言って店を飛び出した。ルドルフおじさんはこの町一の鍛冶師だ。サルヴィオさんがこの町に一年ほどいたときにみっちり仕事を仕込まれた人。今回、特に連れてこいと言われた重要人物だ。
「でも、本当にこれでいいのかな」荷物を整理する手を止めて、エドに声を掛ける。
「んー、何がです?」真剣な表情でエドが持っていくものを選びながらも、私に返事を返してくれる。
「その……他の人たちに知らせなくて」
「アレクシアさん。そのことはもう何度も話し合ったでしょう?」
エドは手元に落としていた視線を上げ、私を見る。
「うん。でもね」
「救えるものならみんな救いたい。それは僕だって同じです。けれど実際、この大陸に逃げ場はない。船の数は限られている。魔族と対等に渡り合える者だって限られている。そんな中でいたずらに事実を公表して、市民が混乱の中逃げ出したとして。そうしたらどうなるか。アレクシアさんだってわかっているはずです」
私は思わずうなだれた。そうだよね、と小さくつぶやくのが精いっぱいだ。
「冷たい奴だと思ってくれていいです。後ろ指さされたっていい。その結果多くの知らない人が犠牲になったとしても、僕は、僕たちがお世話になった人たちを優先して守るべきだと思うんです」
彼の言うことがいちいち心にしみる。そうだ。この力、私に良くしてくれた、私に居場所を作ってくれた人たちのために振るうんだ。それが私にできる、せめてもの恩返し。
「僕は自分の力を過信も、状況を楽観もしません。僕たちが確実にできることを、確実にできる方法で実現する。できもしないことに手を伸ばすのは勇気なんかじゃありません。それはただの蛮勇。……それにこのやり方を決めたのはパーティー全員です。アレクシアさん一人が気に病むことではありません」
彼は微笑んでゆっくり話してくれる。
「他の市民に声をかけてしまったら、今度は私たちの仲間も無事で済まなくなる可能性が高いですよ。だからアレクシアさん」
私は黙って頷いた。
「でも、エド。これだけは言わせて」私の言葉にエドが小首をかしげる。
「……君は冷たくなんかない。やさしくて、思いやりがあって。いつも私を助けてくれる、大事な仲間だよ。たとえみんなが嫌ったとしても、私だけは、私たちだけは。君の味方なんだからね」
「アレクシアさん。……ありがとうございます」
エドがはにかむように笑った。
「……さ、早く積み込んじゃいましょう?」
私には大事なものがもう一つある。ラウレさんの形見だ。一揃えの武器、防具。以前は体が小さく、うまく装着できなかったけれど、今なら。
それは寝室の奥に布をかけて保存していた。痛んでないだろうかと恐る恐る取り払ってみたがそれは杞憂だった。艶消しのダークレッドを基調にしつらえられた一式装備は夜の闇に溶け込むように工夫されている。基本的に光を反射しにくくつくられているので、敵の目から逃れるのに適した合理的な装備だった。
身に着けてみると特別にあつらえたかのように、しっくりと私の身体になじんだ。
「アレクシアさん、準備は……っ。それ、ココにあった装備ですよね。すごい。ピッタリじゃないですか。カッコイイです!」
「そう? なんだか恥ずかしいな。あ、こうしちゃいられない! ギルド会館にもいかなきゃ!」
「では僕は、ここでおばさんたちを待ちます!」
今までの装備を麻袋に詰めて馬車に乗せると、ヴァイスと共に速足でギルド会館へ向かった。ギルド職員のユリアンナと貸金庫の中身を回収しにいかなくては。
ギルド会館は上へ下への大騒ぎになっていた。魔道具が機能しないため、ギルドカードを用いた業務がすべて手作業になっているせいだろうか。一番の問題はおそらく銀行業務だろう。
押し合いへし合いする人々の間をかき分け、奥の貸金庫の入り口側からカウンターの奥を覗く。
「ユリアンナ……ユリアンナっ」
カウンターの端からこっそり受付嬢の名前を呼ぶと、奥でなにやら手書きで書類を書いているユリアンナが私を認めると驚いたような顔をした後、キョトキョトと周りを見てからこちらに近づいてきた。
「アレクシア! いつ帰ってきたの?」
「ついさっきよ。で、手紙の通り、すぐに出立よ。準備はいい?」
「わ、わかったわ。何とか抜け出してくる。……あの、ほかの人は」
「ごめん、ユリアンナ一人が精いっぱい」
「……だよね」
「私は貸金庫の中を……!?」
そんな時、乱暴にギルド会館の玄関扉を開け放つ音がした。
「おい、てめーら、どけコラ。道空けろオラァ!」
その口上に続いて姿を現したのは、紛れもない、私が豊穣祭で沈めたあのトーマス。いくつもの悲鳴を皮切りに、ギルド会館のホールにたむろしていた人々は蜘蛛の子を散らすように会館を出ていく。残念ながら、私は奥にいたので逃げ遅れた。
トーマスはずかずかと大股でカウンターに近づくと、手近な職員の胸倉をつかんだ。
「ちょっ」ユリアンナが思わずつぶやく。
「わぁっ、な、なんだね君は! 放しなさい!」
彼はにやりと笑って言葉をつづけた。
「金を出せ」
「は? で、ではギルドカードを」
「んなもんねぇよ、金出せつってんだよ、金庫の中の有り金全部よこせ」
そう言って腰のナイフを抜くと、無造作にその職員の太ももを刺した。
「ああぁあ⁉ い、痛い! コイツ刺しやがった! ひぃぃ」
これでホールにいた残りの人々も、悲鳴を上げつつバタバタと逃げ出した。
「ほら、さっさと出せよ、ホラ!」
トーマスの取り巻きが大きめの袋をカウンターに投げてよこす。こいつら全員『忌み子』だ。強盗を働くつもりか。まさか、みんなが魔法が使えない状態になっていることに気づいているのだろうか。
……ああもう、時間がないのに!
”ヴァイス。ギルド会館。来れる?”
”あん? いま飯食ってるんだが。トニエラの肉料理がまた格別なんだよ”
”そんなのいいから今すぐ来て! あなたのアレクシアちゃんがピンチよ”
”お前がピンチって、笑わせる。魔王でも連れてこないとあり得んだろ”
”男に襲われそうなのよ! ああもう、助けてよっ”
”はぁ? 男だあ? ……今行く。待ってろ”
”ありがと、愛してるっ”
”はいはい。せいぜい下着は死守しろよ”
ん? 何か勘違いしてないかしら。
「なにやってんだよ、さっさとしろ!」トーマスの取り巻きがカウンターの女性にけしかける。女性はひっ、と一声悲鳴を上げ、震える手で袋を手に取った。
「ちょっと、あなた。お金引き出すにしちゃあ少し乱暴すぎない?」
「ちょ、やめなよアレクシア!」
私の言葉にユリアンナが制するように声をかけたけど、ちょっと意味がない。
「あん? ……うっ、アレクシアてめえ……いつ戻ってきやがった」
トーマスは私の顔を見ると、露骨に嫌そうな顔をした。
「ついさっきよ。といっても用事が済んだらすぐに離れるけどね」
「じゃあとっとと行っちまえ、特別に見逃してやるからよ」
出口を親指で示して出て行けと告げる。けれどこっちもギルド会館に用事があってきた。はいそうですか、と帰るわけにはいかない。
「特別に、ねぇ……ありがたいお話だけれど、この現状を見て『それじゃ、ごきげんよう』って出ていけるほど人間捨ててないもので」
腰の細剣を抜きながら提案をする。
「あなた達、おとなしく降伏なさい」
この剣。鎧とセットで保管してあった、ラウレさん愛用の剣だ。
「はっ。何を言い出すのかと思えば降伏だぁ? タイマンじゃまだしも、こっちはザコを外しても六人はいるんだぜ? 輪姦されたくなけりゃ引っ込んでな」
トーマスはへらへら笑いながらナイフで自らの頬をぺちぺちと叩いた。
「雑魚って誰ですかトーマスさん」
そこでまたゲラゲラ笑いだす男たち。夜は雑魚なんて言わせませんよ! など相も変わらず下品な物言いで盛り上がっている。
「あー、盛り上がっているところ悪いんだけれど。こっちも一人じゃないから」
そう言って私は入り口を指さす。
トーマス以下郎党が一斉に入り口を見る。そこには人の背丈ほどもあろうかという、白い魔狼がうなりをあげていた。
「ひぃぃ! 狼だ! しかもでけえ!」
取り巻きの何人かが腰を抜かした。一人は早速水たまりをこしらえている。
「ま、魔物じゃねぇか、な、なんだってこんな」
「あら。前からいたじゃない」
「前からって……まさかあの犬っころかよ、ふざけんなそんなことあるわけ……! ひっ、やめ、やめろ、うわ、あ、ああああっ!」
「ヴァイス、殺さない程度にね」
ヴァイスは一声吠えると襲いかかった。強盗の男たちは木の葉のように振り回される。放り投げられたり、壁に叩きつけられたり。そうやって男たちはしばらく悲鳴を上げていたが徐々に大人しくなってきた。そろそろ頃合いか。
「降伏する気になったかしら」
床に転がっているトーマスに声を掛ける。
「わっ、わかった、降伏する、するからこの狼をなんとかしてくれぇ」
何とか大ごとになる前に事件は解決するかのように見えた。
けれどそれは連中を縛り上げている時に起こった。
「こんな時に強盗など! 全くこれだから『忌み子』という連中はどうしようもない。こんな劣等人種なぞ根絶やしにしてしまえば良かったのに。国の連中はお優しいこった!」
トーマスを縛り上げながら職員が彼を罵倒する。
この言葉に『忌み子』の彼らはもちろん、私も息を飲んだ。
「何を」私が咎めようと思い口を開いたら遮られた。
「テメエ! 俺達が何だって? テメエみたいなのがいるから! 俺達がこんな風になっちまったんだろうが! 畜生!」
トーマスはそう叫ぶと職員を突き飛ばした。驚いた表情で尻餅をつく職員をトーマスが見下ろす。縄が緩んでパラパラと落ちていく。縛っている最中だったから解けたのだ。
「大人しく捕まってやろうかと思ったが予定変更だ。テメエだけはぶっ殺す」
そういうが早いか隠し持っていたもう一本の小さいナイフを取り出すや、襲いかかった。
「ひ、ひいいぃ!」職員の悲鳴が響く。
精霊を。ダメだ間に合わない。仕方ない。私は覚悟を決めて剣を突き出す。






