第五十四話 飛べない鳥
さわやかな風がテラスから吹き込み、カーテンを揺らしている。
豊穣祭が終わり、秋の刈り取りを待つこの時期。日差しは柔らかく、私の部屋をやさしく照らす。
私は椅子に腰かけ、本を読んでいる。
ただひたすらに文字をなぞる。
静かだ。遠くで鳥の鳴き声が聞こえるほかは、ときおり私が発するページをめくる音だけ。
私は無為な日々を過ごしていた。今日も自室で本を読むだけの一日が終わろうとしている。
「エインクラネル様、お茶はいかがですか」
たまにお茶を持ってくる侍女もひどく事務的だ。私が軽く頷くと、目も合わせず無言で新たなお茶を準備する。
兄を陥れた冷酷な妹。周りにはこう噂されているらしい。それを親切に教えてくれた侍女は、翌日には私の周りから外された。それ以来私の担当は、この無口でぶっきらぼうな、面白みのない者になった。
ベルナルド兄さまが牢に入れられてから、なぜか私も自由に出歩けなくなった。自室から出ることも許されていない。これはもう、いわゆる軟禁だ。
何度か説明を求め、侍女を通じて王に御目通りを願い出ているけれど、叶えられる様子もない。王は――父は本当に、私も切り捨てるつもりでいるのだろうか。
私は本の中身がいつまでたっても頭に入ってきそうにないので、ついに諦めることにした。本をポイっと机に投げてため息をつく。本はパタンと少々大きめの音を立て、少し机の上を滑ってから大人しくなった。
「本を大事になさいませんと」。そのような言葉が侍女から出ることも少し期待してみた。けれどこの面白みのない女は立ち止まって軽く眉を上げた後は、何食わぬ顔で本を少しどかしただけで、カップを机の上に置いた。
そして本当に事務的にお辞儀をすると、そのまま音もたてずに再び部屋の端に控える。
何を期待しているのかしら。私は軽くため息をついた。
どこに嫁に出されるのだろう。片道覚悟の輿入れだ。極東のカカ辺りかしら。独特の文化圏であると聞く。言葉が通じるのかが不安だ。それもそうだが何より、まともな縁談でないと思った方がいいだろう。家臣の伯爵か、子爵の次男辺りに押し付けられたほうがまだましかもしれない。
その前に母上はどうお考えなのだろうか。私に何の落ち度もないことはおわかりのはず。母からとりなして貰えばあるいは。
そこまで考え、あのぶっきらぼうな侍女を呼ぼうと思ったのだが、ふいに思い浮かべたのはベルナルド兄さまが口走ったあのひとこと。
――妹も黙らせろともおっしゃったではないですか――
あれは苦し紛れの出まかせだったのだろうか。
いいや。ベルナルド兄さまは何においても素直な――だから私にも口を開いたら嫁に行けと言ってはばからなかったわけだが――性格の持ち主。裏を返せば腹芸ができるタイプなどではない。要はかわいいおバカな人。だからこそ、私も暴言の数々は許してこれた。
……もし。もしもあの時、兄さまが話したことが、すべて本当のことなのだとしたら?
そう考えれば今の状況も納得できることが多い。まさか。私を軟禁しているのは王ではなく――
「エインクラネル様」
唐突に声をかけられ、私はびくりと身を震わせてしまった。
「……なんでしょう」勤めて冷静に返事をしたけれど、この妙に勘の鋭い侍女にはお見通しだったかもしれない。
「プリシラ様が、お越しです」見上げた先にはいつもの事務的な表情があった。
「プリシラが? いいわ、通してちょうだい」
頭を下げ、背を向けた侍女を見送りながら、軽くため息をついて立ち上がった。
「エインクラネルさま、ごきげんうるわしゅう」
プリシラは部屋に入ってくるなり、ドレスの裾をつまんでちょこんと膝を折り、かわいらしく挨拶をした。くるくるときれいに巻かれたアプリコットブラウンの髪がゆらゆらと揺れる。
「こんにちは、プリシラ。さ、こちらにいらっしゃい」
この子は確か今年で六歳。第二婦人、ナターシャ様の三番目のお子だ。私とディルを姉と慕い、ことあるごとに遊びに来てくれる。私が近くに来るように声をかけると、ぱぁっと笑顔になってととっ、と円卓のほうに来る。
ぱっちりとしたヘーゼル色の瞳。この無垢な瞳で見つめられると、何も悪いことをしたわけではないけれど、思わず目をそらしたくなってしまう。ごまかす様に髪をなでる。
「あの、これお母さまから、一緒に食べなさいって」
プリシラが私にバスケットを差し出す。おいしそうな焼き菓子だった。
「では、私が盛り付け直してまいりましょう」
侍女がバスケットを持っていこうとしたときにプリシラが焦ったような表情を見せた。
「いいわ、このままで。……このままの盛り付けでもおいしそうじゃない。いいわよね、プリシラ?」
私の言葉に彼女はコクコクと頷いた。
「じゃ、お茶だけお願い」
チラチラとこちらを気にするように離れた侍女を見届けて、私はバスケットの中を見渡した。焼き菓子の下に折られた紙が入っている。素早く抜き取り、懐に入れる。そこでプリシラはホッとした表情を浮かべた。
お茶が出てきたところで人払いを命じた。侍女がいなくなるのを見計らい、懐の紙を取り出す。その内容に私は目をみはった。
『今すぐ城から逃れなさい』
「……ねえさま?」
プリシラが不安げに首を傾げる。丁寧に巻かれた髪が彼女の動きに合わせて揺れる。
「あ、ごめんなさいねプリシラ。私、用事があったのを思い出したの。お母さまには『ご心配ありがとうございます、肝に銘じます』と伝えてくれる?」
彼女はコクリと一つ頷く。「いい子ね」とひと撫でするとニコっとして立ち上がり、一度こちらを振り返ってから足早に部屋を後にする。
あんな小さな子でも、雰囲気で分かるのだろうか。こんなところに生まれたばかりに、同じ年頃の子供が知る由もない世界のことも、この子は経験しているはず。私がそうだったように。
もはや二度と会えないかもしれない。そんな気持ちで彼女の小さな背中を見送った。
こうしてはいられない。すぐに城を出ねば。でも、どこに? ……ミッドフォードのディルの下に行くしかない。もはや頼りにできるのは、ディルだけ。喧嘩別れのようになってしまっているけれど、事情を話せばわかってくれる。
私はドレスをはぎとるように脱ぎ捨てると、そのままクローゼットの扉を開けた。
「エインクラネル様、いかがなされたのです、その出立ちは」
旅装束に着替え終わり、クローゼットを出たところで侍女から声がかかった。
「ええ。ちょっと散歩に行きたくなりまして」
「申し訳ございません姫様。少し散歩は後からでお願いできますでしょうか」
「なぜ」
「我が王が、姫様をお召しでございます」
頭を上げずに侍女が言う。本当に事務的な口調、気に入らない。
また小さなため息。
――ナターシャ様。少し、遅かったようです。
王の言葉はそっけないものだった。次の休息日が明けてから、リンブル聖教の修道院に入り、修道女として修行せよ、とのことだった。
私の言い分は「そのようなこと、もうどうでもよいことだ」と一蹴した。
悔しさで顔を伏せていると不意に、
「あなたのお父上、国王よりたっての願いということで承りました」
などと声が発せられた。慌てて顔を上げるといつの間にか、大司教のユストゥルが玉座の隣に立っていた。
「私の下で、一から神の教えを学びなおすのです。そして立派なレディとなり、国のために働くのです。よいですね」
私にもはや選択権などない。「かしこまりました」と一礼をするのがやっとだった。
お母様は一度も姿を見せなかった。






