番外 エドワード編 四話 二人の誓い
――甘い香りがする。
ミルクのような、甘い果実のような。……胸をきゅっと締め付ける、切ない香り。
以前、こんな香りをかいだのはいつだったろうか。
――遠くで鳥のさえずりが聞こえる。そよ風の音。ああ、ここは森の中なのか。
白い光が視界の先にちらり、ちらりと瞬く。それらが徐々に集まって、やがてぽつりと一つの灯となった。
しばらく水の底から水面を見上げるような、そんなゆらゆらとした光のたわむれをぼんやりとながめていたけれど、ふいに水面近くに引き上げられるかのように、それは徐々に視界いっぱいにあふれてくる。
その光があまりにまぶしくて、思わず顔をしかめた。
鳥のさえずりは一気に音量を増し、僕を覚醒へと導く。同時に窓から穏やかに吹き込む風にほほをなでられる感覚をおぼえ、少しくすぐったくなる。
ゆっくり目を開くと、そこは見慣れた天井だった。サルヴィオさんの工房で、僕が借りている部屋。そのベッドで眠っていたようだ。窓から差し込む陽の様子からすると朝のようだった。
いつの間にか鳥たちのさえずりは消えていた。
お腹のあたりに重みを感じ、首をめぐらす。アッシュブロンドの美しい髪が映った。きっと甘い香りの正体は彼女だ。少し首を伸ばして顔を覗き込むと、僕のお腹を枕にして穏やかな寝顔を浮かべている様子が見えた。
ぽすっと頭を天井に向けなおすとほっと息を吐く。ディル。よかった、無事だったんだ。
「確か昼前だったはずだけれど」
最後に覚えているのは祭りの日のお昼ごはんを食べる前。少なくとも半日以上も眠り続けていたのだろうか。いっぱい魔法を使ったからかな。あまり覚えていない。
もう一度ディルを眺める。規則正しい寝息を立てている、彼女の髪をそっと撫でてみる。サラサラの髪が心地いい。しばらく撫でていると、彼女は少し身じろぎをした。
「ん……?」と鼻にかかった声でつぶやくと、ディルはゆっくりと目を開いた。
そしてそのまま見つめ合う格好になる。
「おはよ」僕が声を掛けると、驚いたような顔をして身を起こすと、すぐに顔がくしゃっとゆがんだ。
「よかった……目が覚めて。もう、覚めないんじゃないかって思った」
指で目じりをおさえながらディルは笑った。
「ごめん。心配をかけちゃって」
ディルはふるふると頭を振る。「ちがう、あやまらないで。私、うれしいの」
「傷、大丈夫だった?」僕の言葉に彼女はこくりとうなずく。
「あれだけの時間で、すごいね、エドは。痕も残ってないよ」
見る? とスカートをたくし上げようとするのであわてて止めた。
「よかったよ。傷がのこらなくて」
「本当にありがとう。エドが助けてくれてなかったら、私、たぶん死んでた」
ベッドに腰かけながらディルはしみじみと語る。
「そんな。僕だって必死だったよ。ディルだって、すごく頑張ってたし」
僕はおもわず唾をのみ込む。
「ひ、必死だったんだ。ディルを守らなくちゃ、って」
「エド……うれしい。ありがと」とディルがこちらを振りむき、にっこりと笑ってくれた。
「ん? 頭のここ、ケガしてない?」
不意にディルが体を近づけて僕の髪に手を触れる。さわさわしてくすぐったくって、思わず肩をすくめる。
「そ、そうかな?」ディルとの距離が近くてどんどん頬が熱くなっていくのを感じた。
少し胸周りの開いた無防備な彼女の服装が、更に僕をじりじりと追い込んでいく。
「あ……あう」彼女も僕の様子を見て、距離が近いことに気づいたようだ。
意を決し、身を離そうとしていたディルの手に、僕は手を添える。ピクリと彼女の手が震えるのを感じた。そのまま優しく手を包む。
「ディルが無事で本当に良かった」
「……私も。あなたが無事で、本当に良かった」
そっと腕を引き寄せると彼女は最初少し戸惑ったように小さく「あっ」と声を出したけれど、僕に寄りかかり、そのまま胸に頭をのせ身を預けた。
彼女の肩に手を添える。今度は震えなかった。
僕の胸に顔を乗せ、幸せそうに目を閉じるディルの表情。彼女の笑顔をこわしたくない。
彼女のぬくもりをずっと感じていたくて、僕はしばらくこのままでいた。
ふいに窓からさあっと風が吹き込み、カーテンがふわっと舞った。
どんどんディルへの思いが増していく。こんなに愛おしい存在になるなんて、出会ったころのことを考えたら、想像もつかない。でもきっとこの想いは確かだ。
「ディル」と僕が語り掛けると彼女は身を起こし、「ん?」と僕の目をまっすぐ見る。
僕も彼女を見つめながら、ゆっくり身を起こした。互いの息遣いも感じられる距離。再び肩に手を添え、僕は精いっぱいの気持ちを伝える。
「絶対に君を、僕は守る。どんなことがあろうと、絶対に」
するとちょっと驚いたように。けれども、
「なら私もあなたを守るわ。何が起ころうと、ずっとあなたのそばにいる」
ディルはすごくやわらかな笑顔を見せながら、しっとりと潤んだ瞳で見つめかえす。
彼女は手を伸ばし、僕の胸にそっと押しあてる。
僕がその手を取り、彼女は指を絡めた。見つめ合い距離はどんどん近づいて。
「ディル……」「エドワード……くん」
そしてディルは目を閉じて――
バターン! と扉が勢いよく開くと同時に、
「エドくーん! おっはよー! 朝だよー……って」
固まる僕たちを眺めながら、「おじゃま……だったよね?」とロナが気まずそうな表情で頭をかいた。
サルヴィオさんから聞くところによると、どうやら魔力切れで気絶してしまったらしい。一気に魔法を使いすぎるとそういうこともあるそうだ。
「お前はそんなことも知らずに魔法を使っているのか」とおじさんには呆れられた。
大好きなごはんの時間にも関わらず、ディルはなんだか機嫌が悪い。
「ごめんね~、お二人さん。邪魔しちゃったねぇ。残念だったね、ディルちゃん」
真っ赤な顔で睨みつける視線を「お姉ちゃんがこわい~」といって台所に逃げ込んでかわすロナ。悪い顔になってたよ。
「もう、ロナったら……あ、もうエドったら頬っぺたにつけて」
気づいたらディルが僕の頬からパンくずをひょいと取ってパクっと食べた。
「なんじゃ、すっかり女房じゃな」「え、そうかな~。あ、エド紅茶のむ?」
サルヴィオさんの軽口にディルはへらっと答えた。
そして僕が使っているカップを取ると、立ち上がって紅茶のポットを取って注ぐ。
鼻歌交じりで紅茶をそそぐ様子は、すっかり機嫌が治っているように見える。意味が分からない。
けれど彼女の横顔。控えめにいっても見とれるほどかわいい。こんな娘とさっきは……!
想像しただけでまた緊張してあ、あ、また頬っぺたが。
「はい、どうぞ」「へっ、あ、ありがと」
あまりに見とれてしまっていて、差し出されたカップに気づくのが少し遅れたかも。
慌てて受け取った様子に、彼女は少し不思議だったようで。
「ん? ふふっ。どういたしまして」と少し首をかしげて微笑んだ。
カップに口を付ける僕は、ニコニコしているディルに見つめられている。
「もてるのぅ」という言葉に横目で見たサルヴィオさんは、にやにやと笑っていた。
この穏やかな、ふわふわした雰囲気は、突然の来訪者によって唐突に終わった。
「失礼します!」
玄関から男性の張りのある声が工房に響いた。
「なんじゃい朝っぱらから」とサルヴィオさんが玄関の方を見やると、ロナがパタパタと向かっていった。
「サルヴィオ卿、早朝から申し訳ございません。王城よりの用件にて、まかり越しております。こちらにご滞在のディル様、エドワード様にお取次ぎ願いたい」
もともと工房は広くない。食事をとっているダイニングと玄関もそう遠くない位置にあるので、玄関での会話は丸聞こえだ。
だそうですよー、とロナがこちらに声を掛けてきたので、僕たちは顔を見合わせてから立ち上がった。
「ディル様、エドワード様に、我が主スザンナ王女よりの召喚でございます。お受け取り願いたい」
そういって使者は封緘が施されている封書を恭しく捧げ持つ。僕ははぁ、どうもとそれを受け取り、ディルに手渡す。彼女は手際よく封蠟を外し、内容を確認する。
素早く目を走らせたディルは、「お召しの件、確かに承りました。二人で登城する旨、お伝えいただけますか?」と使者に告げた。
ディルの言葉に使者は頷き、「お昼前にこちらに馬車をご用意いたします」と告げ、この場を後にした。
「なんだったの?」「タダで美味しい王宮料理を食べさせてくれるって」
そういって僕に手紙を寄越した。中身は昼食への招待状だった。スザンナ王女が、昼食会を催すので参加してほしいとのことだった。
「さて、あの子は何を食べさせてくれるのかしらね?」
いたずらっぽい笑顔を浮かばせ、ディルは言った。
今日のお昼ご飯は、王城でのランチに決定した。






