第九話 小娘一人
おとうさんが逝ってから数週間が経った。
私は変わらず、店のカウンターで本を読む毎日を無為に過ごしている。私を心配してくれるのか、近所の人が代わるがわる訪れてくれる。そんなときは一緒にお茶をして、本について語って、おとうさんについて語って。少しだけ嫌なことを忘れられる時間。
でも一人になると時折おとうさんを思い出して涙が出そうになる。もっと優しくすればよかった。優しくしてくれたのに。いっぱいいろんなものを与えてくれたのに。私は何一つ返すことができなかった。
いくら考えても叶える手立てなどどこにもないことはわかっている。
けれど私は、この思考の迷路に未だ抜け出せないでいる。そんなある日のことだった。
「ここがおじさんの店か」
本から目を上げると、壮年のおじさんが店の扉を開け、物珍しそうに首をめぐらしながら入ってくるところだった。
「いらっしゃいませ」
できるだけ営業スマイルをしようかと努力してみるけど、やっぱり私はそんなに器用じゃなかった。どうしてもぎこちない笑顔になってしまう。
「おお、キミがアレクシアちゃんか。可愛いね。私はジークルト。ボルドおじさんの弟の息子だ」
私を見ると笑顔で応対するおじさん。私よりよっぽど営業向きだなって直感する。でも初対面の相手にいきなり可愛いとかなんだろう、この人。
「そうなんですか。あの、今日は何か」
思わず慎重な受け答えをしてしまう。
「ああ、今度私がこのお店を引き継ぐことになってね。私の父が若い娘一人に店を任せるのは何かと不用心だということでね」
「え、そう……なんですか」
いきなりのことで話についていけない。
「そういうわけだから、まずはその……この犬何とかしてくれないかな」
そういわれて初めて気が付いたんだけど、ヴァイスが唸り声をあげておじさんをにらんでいる。初対面の人にはこの子はだいたいこんな感じだ。
「あ、ヴァイス、おとなしくして」
私の言いつけに不満の声を上げつつもヴァイスは大人しくしてくれる。
するとどこからともなく「ぐうぅぅぅう」と小さく音が響いた。
「……あの、今から用意するんですけど、お昼ごはんは食べて行かれますか」
「えっ。ホントに? いやぁ助かるよ、今日は朝食べずに来ちゃってさ。市場に行こうかと思ってたところだ」
心底助かったといった感じで破顔するおじさん。なんだかこそばゆい感じ。
「すごいうまい、アレクシアちゃん、料理上手だね!」
ものすごい勢いで食べるおじさん。
「え、いやそんな」
「いや美味しい! こりゃ君の旦那さんになる人がうらやましいなぁ」
「そんな、ほめすぎですよ」
お世辞だってわかってるけど、こんなに一杯食べてくれて、こんなにほめてくれて。いやな気はしない。
その日おじさんは一日、お店の在庫を確認して夕方には帰った。
静かになった店をぼうっと眺めながら考えてみる。
元気な人だったな、おじさん。名前はたしか……ジークルトさん。
あんな人がいるなんて、おとうさん一言も言ってなかったけど……おとうさんに返せなかった恩を、代わりにこの人に返せないかな。
翌日。朝からジークルトさんはやってきて台帳を作る作業をしている。
「アレクシアちゃん、だからあの男だれなの?」
そしてそんなおじさんを早速近所のお菓子おばさんが見とがめ、私は店の端まで引っ張られ、今、質問攻めに合っている。
「え、おとうさんの甥っ子さんということです」
としか聞いてないので答えようがない。正直勘弁してほしい。
「そんなの初耳だねぇ。本当かい?」
「私には確かめる術はないので……たぶんとしか」
「何言ってんだい、大丈夫かい? そんな男を店に入れて」
「いざとなったら叩き出しますから」
力こぶをつくり、にこりと笑いかけるけれど、ついに帰るまでお菓子おばさんの顔が晴れることはなかった。
◇ ◇ ◇
「アレクシアちゃん。ちょっといいかな」
昼も半ばを過ぎたころ、おじさんに呼ばれた。
「このリストの本を処分してほしい」
びっしりと字が書かれた紙を差し出しながらも他のリストを眺めている。
「処分って、捨てるん……ですか?」
私は紙を受け取り、眼でリストを追いながら問いかける。本を捨てる?
「そうだね。やり方は任せるよ。代わりに入れる本は私の方で手配してあるから」
ぼかしたけど捨てろってことだ。そしてすぐやらないといけないみたいだ。
きっと明日明後日には新たな本がここに届く。
「わかりました……」
ほとんどが昔の本だ。処分。その言葉が重くのしかかる。
「あ、それと」「はい」
「今日から私もここに住むから、よろしくね」「えっ」
「確か二階の部屋、余ってたよね?」「ええ、まぁ」
「ベッドとかとりあえず寝れればいいから、準備してくれないか」「はい……」
リストの本はおとうさんがコツコツ集めた大事な古書だ。捨てるに忍びない。長屋の倉庫に入れておいておじさんには捨てたと言っておこう。
晩御飯も手放しで喜ばれて戸惑いを覚えるが悪い気はしない。
その後もお店で帳面とにらめっこをしているおじさんを横目に手早く片づけなどを済ませ、先に休みますとの声掛けに、やはり帳面から目を離さずに上の空で「おやすみ」といった。仕事熱心な人だ。
自室に辞ししばらく本を読んでいたけれど、つかれていたのだろうか、いつの間にか眠ってしまっていた。
◇ ◇ ◇
ふとベッドが揺れたのに目が覚める。窓を見るとまだ外は暗闇。顔を天井に向けると視界の端にぼんやりと人影があった。
「ん……なに……?」
「やあ、こんばんは」
私の太ももあたりに馬乗りになりながら、おじさんは悠然と返事をした。
「きゃっ! おじさん!? な、なにしてるんですか?」
「何してるって……決まってるじゃないか」
そう言って徐々に顔を近づけてくる。
「せっかくの若い女付き一戸建てなんだからさ、……使わない手、ないよね?」
「ちょっと、やだ、なに、やめて!」
思わず突き飛ばす。頭の中は起き抜けでぐちゃぐちゃだ。
「……出てってください!」
起き上がってシーツをたくし上げる。こんな夜中に、なんて人だろう。
「おいおい、そりゃねーだろ。遊んでやるって言ってんだから大人しく転がってろよ、『忌み子』の分際でよ!」
「!! ひどい……」
「あぁもういいや、なら動けなくしてから楽しむとするわ。……精神の蔓よ、わが敵を戒めよ。……バインド」
魔法の戒めが手足を拘束する。くそ、縛られてもいないのに、なんで動かないの!?
おじさんがいやらしい笑みを貼り付けながら私を押し倒した。
「放して! くっ、この、卑怯者!」
「いいねぇ、いいねぇ、こういう趣向もまたたまんないねぇ! さぁ、せいぜい鳴いてくれよぉ!」
乱暴につかまれた薄い肌着はあっという間にはぎ取られた。
「い、いやあぁ! やめてぇ!」
手が、足が、言うことを聞かない。こんなの、こんなの、いやだっ!
「誰か、助けて! おとうさん! 助けて!!」
突然昔の記憶が蘇る。下卑た笑みを浮かべて私をまさぐる奴らの顔。
……やっぱり幸せをつかむなんて、『忌み子』には、無理だったのかな……?
くやしさと悲しさが一気に押し寄せてきて、涙がつい溢れてくる。
おじさんのやけにほっそりした生白い手が私の胸に掛かろうとした。
そんな様子を見たくない。ぎゅっと目を閉じた次の瞬間。
バンッ!
不意に乾いた音が響いたかと思うと。
「いっ! 痛ってえ、なんだよこの、クソ犬!」
おじさんの悲鳴が聞こえたと同時にバインドの効果が消える。おじさんの集中力が切れたからか。いやそんなことより、ヴァイスなの!?
「この、殺してやる! 炎よ! 我が敵を」
いけない! ……これでもくらえ、女の敵!
「ふっ!」ドスン、といい感触が私の右手に伝わった。おじさんの腹にきれいに入った右拳。
「うぐぅ」とうめき声をあげ、おじさんはゆっくり崩れ落ちた。立ち上がる様子はない。
「助けてくれてありがとう! ヴァイス、すっごく嬉しいよ! 大好き!」
ヴァイスに思いっきり抱き着く。彼は私の頬を一杯舐めてくれる。
ひとしきりきれいな毛並みを撫でまわしてから立ち上がり、伸びているジークルトを見下ろす。パンツ一丁で伸びているおじさん。かっこ悪い上に気持ち悪い。
私は涙をぎゅっとぬぐってから小さくため息をつく。
「行こう、ヴァイス」
手早く身支度を整え衛士の詰め所に向かう。さっさとあの変態夜這い野郎を突き出さないと。
この時私は疑いもしなかった。衛士は私の味方だと。正義は私にあると。
忘れていたわけではないと思っていた。けれどこの世は別のひどい理でも動いていることを、私はあとで痛いほど知ることになる。






