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東京 青ケ島でのこと

作者: 照賀丘


昭和53年春、羽田空港を八丈島に向けてys11,プロペラ機が飛び立つ、自分の初飛行だ、離陸し太平洋を見下すいい気分だ、と思いきや、なんと翼を見るとがたがたと震えている鳥ではあるまいに、目で見て分かるのだ、八丈島までもつのかな、プロペラ機はこんな飛び方をするのかと思い腹をくくる。

1時間のフライトで八丈島空港に到着、命を一つもらった気分だ。

此処で驚いていては、青ケ島まで到着するのは無理だ、八丈島港から村営船、青ケ島丸に乗る、この村営船が又すごい船だ、定員が8人の村営船に20人~30人の乗客を乗せての運航だ。船底から船上まで鈴なりに乗っている、週2便の村営船なので、出るときはいつも定員オオバ―と言う。

又舟の揺れること、半端な揺れでない、船底に潜り込んだ私も死ぬ思いで4時間を耐える。

(この船は戦時中の海軍で使用していた船だそうだ)吐きそうになりながらやっとの思いで到着、よろよろに成りやっと到着。船上から陸をみると100人位の出迎えだ、私もずいぶんとえらくなったものだと思ったが、なにあろう、月何便来るかわからない舟で(冬場は月に一度も来ない月もあると言う、波が4以上になると舟は出ない)、島民の食料が乗っているので、島民全員で荷揚げをするのが決まりだと言う。舟から上陸して島民をみる、顔を見る、挨拶しなければ、と思いつつ、ビックリ、なんと島民全員、頭ぼうぼう、ひげぼうぼう、此処はどこだ、日本か?、アフリカの奥地の国かと思った。あとでわかるが此処には床屋がない、半年もするとみんなこうなると言う、言わずとしれず、私も原住民の仲間入りをする。

荷物は、索道で50m位上の踊り場まで引き上げられる、港から踊り場までの坂道は乗用車のロウで目いっぱい踏み込んでやっと登るか登らないかの坂である、そのため索道を設けたそうだ。その荷物の積み下ろしを島民総出で行う。

舟をすぐ返さないと行けないからだ。次の舟からから私も荷物の積み下ろしに参加するようになった。

この村営船が青ケ島村の食料の運搬船なのだ。ひと月ふた月、舟が来ないときは本土よりヘリコプターでの米、塩、タバコ、の運搬だけはするそうです、この島で米を食べるようになったのは、美濃部都知事の時の離島振興法が制定されてからだと言う。

此処の島では美濃部都知事は神様とされている。

村までの道は狭く曲がりくねっていて車速はロウとセコンドしか入らない。道路上には、上から小石がばらばら落ちてくる。どどどと土砂が車に落ちてくれば、人生の終わりだ。民宿に着くまでの景色だが、ジャングルだ見た事のない植物が島中に生えている、オオタニワタリと言う、1m~2mの植物だが、南国の島に来たと実感する。

また、此処の天候だが、暑い、東京と小笠原の中間ぐらいの位置にあるからだ、そして冬場の風だ,ナライの季節風が吹くと飛ばされる位の風がふくのだ、この風の為、舟が月一度来るか来ないかと言う事になる。 青ケ島、東京都八丈島青ケ島村、伊豆七島最南端八丈島より舟で4時間ほど南にある。.

江戸時代以前より人が住んでおりましたが、江戸時代に大噴火が起こり一時島を離れたが、又、人が入り現在に至ると言う、歴史を持つ島であり,黒潮がはやいため手漕ぎの舟では八丈島までの往復が困難であったため江戸時代の噴火時小舟にしがみ付く手の指をなたできって落としたという、舟に多く乗ると八丈島まで走れないからだと言う忌まわしい過去もあるようだ。島の各家には家の神様がそれそれ存在し、各家でお祭をする、月一度程度、回りばんで各家の神様を呼ぶという風習があり村中の家長を朝九時頃から自宅に呼び、酒、島料理、歌、踊り等で飲みつずけ、昼には昼ごはんが出てなを飲みつずける。夕方、四時近くになると飲み疲れたか一段落したと思ったが、いきなり家長が島言葉 (島言葉は内地人には一言も理解いできない)江戸時代に内地から島送りになった公卿様の言葉であったそうだ、)江戸の強盗、政治犯等は八丈島までしか流されない、江戸幕府に逆らう公卿が青ケ島まで流されたという、なぜかと言うと、二度と八丈島まで帰れないからである。まして江戸までは大きな帆船でなければ行き来が出来ないからだ。


先祖に対し家に呼び戻す祈りを叫ぶ、だんだんに激しくなり三〇分位すると正座をしながら七〇~八〇cm、飛び跳ね上がり最高潮に達すると一日が終焉する。なにをするにも島一丸となり行う、美濃部都知事になる前までは米を主食にしていなかった、サツマイモが主食であった、そのサツマイモの植え付け時は、村中で行う、島民の一年の食料の調達の手段であるから参加をしないとこの島では生きていかれない。島民全員が一家族んなのだ。  

島では曇りの夜、懐中電灯、を持たないと一歩も外を歩けない、私は、東京出なので、つい懐中電灯を持たないで、外に出るが、一歩も歩く事が出来す懐中電灯を取りに戻ることになる。懐中電灯を持たないで外に出ると一寸先が見えない、隣の家に行くのも生垣を触り触り行かないと歩く事が出来ない、江戸時代の闇夜

戦いなど出来るわけがよくわかる。

南海の孤島であるが故、魚はよく釣れる、シマアジ、カンパチ、グレ、イシダイ,トビ、サバ、等々、あげるときりがない、島民が好むのはグレの仲間、ササギである。ササギは肉食系の魚、ササヨが一般で言うグレである。ササギは少しにおいがあるが、油が多く島垂(ニンニク、唐辛子、醤油等をべースにした、島だれ)で食べる。

ある日、港に行くと、島民がさおを持って帰ってきた、どうしたのと聞くとカワハギが着てて魚が釣れないと言う、カワハギ?、つればいいんじゃないのと言うとカワハギは釣っても食べる人がいないと言う。カワハギと言っても数が半端でない、釣り糸を垂れてもすぐ食いつくが釣れないカワハギがテグスをすぐ切ってしまうと言う、海中を見ると、30~40cmのカワハギがむれをなして泳いでいる、港の先端ほうでは、たまで、カワハギをすくい上げている、いくら上げてもカワハギはいなくならないと言う、ここでは、ウマズラハギは食るが、カワハギは食べないと言う油が無いからだと言う。

又ある日、ああ、あれはなんだと叫び声がする、なんときびなごの群れだ、港に入り込むとビチビチ何万匹のキビナゴがはねまわる、大型の魚に追われ港に入り込んだという、30分位で元の静かな港になった、映画やビデオでは決して見られない光景だ。

私も台風一過、朝一番6時に早起きして港に釣りに行った、釣り糸を垂れると40匹位(1キロ前後)いろいろな魚を釣った(シマアジ、カンパチ、メジナ等、)と言うより、釣れた、15分間入れ食いなのだ。台風の為、魚が港に避難して居たらしい、台風で餌をとることが出来ない為の入れ食いらしい、青ケ島の記録?。    

青ケ島では一年中温暖ですごしやすい、ただ6月だけは梅雨期で湿気がすごい、鉛筆がHBでは、紙に書く事ができない。2B以上柔らかい鉛筆でないと紙にはまったく書けない。紙が切れてしまうのだ。

島のいたるところには、明日葉、三つ葉、が群生している、梅、みかん、じゅんねんじょ、等なんでもある、りんごはないよ、特にスイカは、2~3月の寒中に出来るのだ、内地で1個10000万円、高いか安いか。

又ここには、赤虫と言う害虫がいる、民宿のお婆さんから聞いていた、山に入る時は肌を出して山には入らないで、赤虫に刺されるから、なんと刺されるのではなくて、皮膚に入り込むのである、入ってから1週間ぐらい生きていて皮膚の中を動き回るのだ、この赤虫には苦い思いがある。

島民が一人行方不明になる、半日もすると何処にもいないとなり、明日から捜索を島中で行うと言う。

業者とも打ち合わせをし、東京都建設局との打ち合わせを持って仕事を休工とし捜索に加わることとなった、2日捜索をしても見つからない、3日目の朝、消防団の団長が来て今日は中止すると言う、なぜと聞くと、これ以上ひっぱれないと言い遺体を引き上げに行くと言う、何が何だかわからない、後で聞くと、団長と2~3人で遺体を引き上げに行くと言う、見つかったのかと思い、安堵していたら、なんと自殺していた、墓所の木で死亡していたのだ、この家系の人はみなさん先祖代々最後は自殺をするのだという。

その時、捜索で山の中を2日捜索したときに赤虫に食われたのだ、かゆかったけれど赤虫が腹の周りを4~5日はずり回るの実体験した、赤虫が動いたあとがあかく糸をひいた様な跡が付くからである。

秋口になりトンネル工事も進みいよいよ貫通式だ、施工業者、トンネル工夫、島民、みんなウキウキもちろん私も、前日から東京都建設局の道路菅(建設局長)も入村し前日より大騒ぎだ。

坑内の祭壇とともに、手造りの神輿みこしで神事が執り行なわれ(宮司は島民)最終発破が

セットされ、3,2,1、どどどどーと轟音とともに真っ暗闇に、わあわあーと工夫がよじ登り岩をかきわけ、かきわけ登り、対面に居る工夫と握手をする。貫通式セレモニーだ、(裏話、前日までに貫通させておいて穴を塞ぎ本日の発破となる、最終発破をかけて貫通できないと恥をかくからだ)それから建設局長の挨拶のあと、工夫が神輿を担ぎ出しトンネル内は、それこその大騒ぎだ、酒、魚、牛肉、(牛肉は島内の子牛だ、年間青草が生えている青ケ島では家庭で牛を飼っている、1~2年育てて牛糞を取りその牛を内地に返しそれから太らせて市場に出すそうだ、肥料を取るために牛を飼うのだそうだ、島内の牛を食べるのは島始って以来だそうだ、レバ刺しが最高に旨かった)等々で村中でおおさわぎだ。特に工夫は奇知外のように騒ぐ、命を張って掘り上げたトンネルだからだろう。感無量。

暮れの20日、村営船がまだ1度も入港しない、島外の作業員,工夫、は焦りを見せている、25日まだ舟が来るようすがない、作業員、工夫は気が荒くなり爆発しそうだ、天候のせいだと言っても納得しない、その日の夕方施工業者が来て八丈島より漁船をチァターしたから一緒に乗らないかと言ってきたので乗せてもらうことになった、翌日港に(離島、島には基本的に2か所の港が設置される、予備港である、今日の日みたいに表の港が使用できない時に使用する為である、予備港に行くと20人位の人が集まっている、浪は荒い漁船が接岸すると、舟が4~5m上下する、舟が上がってくる時に飛び乗るのだ、飛べない人もいる、船頭は大声で怒鳴る舟が岸壁にぶつかり舟がバリバリと言って壊れているからだ、私も飛び乗る、直ぐ船底に潜り込み丸くなる、岸壁を離れた瞬間、舟が横波を受け大きく傾く45度以上傾いた、私の命もこれまでだと観念した、しかし奇跡的に復元したのだ、船内ではオオと小さなため息か、安堵の声かがした、私もまた命を一つ貰った、八丈島に無事着いた時は、私も含めてこれまでして乗船した事を悔いた。大騒ぎをして命を懸けることは無かったとしみじみ感じた所です。

でも青ケ島素晴らしい島だ。



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