只今バイト中 8
恐らく魔物であるだろう美女に、誰かと問われた。
驚きよりも、話が通じることに安堵する。
気持ちに余裕が生まれ、更に冷静になれた。
長い黒髪の隙間から見える紅い瞳を見据えながら、私は殊更ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私は内館日向、日本人」
声は震えなかっただろうか。
はっきりと話せているだろうか。
「この世界で言う人族です」
私がそう言うと、彼女は驚いたように目を見開いた。
「うちだてひなた。それは貴方の真名であろう。何故私に告げるのだ」
不思議に困惑した声音に聞こえた。
「何故って、誰かと尋ねたのはあなたでしょ? 私の国では自己紹介という名前を尋ね合うシステムがあって、別におかしなことではないよ? 今度はあなたの番ね。あなたの名前はなんていうの?」
「自己紹介?」
「そう。自己紹介。名前と出身地と後は自己PRかな。自分の特徴を紹介するシステム。あなたのお名前は?」
私の言葉に、彼女は本当に困っている様子だった。
先程まで恐ろしかったのに、今はどこか愛嬌があるようにすら感じる。
構えていたナイフを下ろすと、肩から力が抜けた。
私って現金だ。
「私に名前はない。ただ、妹からは姉さまと呼ばれていた」
「妹さんも名前がなかったの?」
「いや、妹がいなくなった時には、あの男につけられた綺麗な名前があった」
その言い方が、名前を持つ妹に憧れているような、羨ましいような、そんな複雑な口調だった。
だから緊張感もなく、つい微笑んで軽口をたたいてしまったのだ。
「そう。私なら貴女に白雪ってつけたいな。だって、白い肌が羨ましいぐらい綺麗だもの」
「し、ら、ゆ、き?」
「白雪って真っ白な雪って意味なのよ。可愛くて綺麗なお姫様の名前でもあるんだよって、ごめんね、勝手なこと言っちゃった」
不意に空気が変わった気がして、調子に乗って口を開いていた私は、状況を思い出して慌てて話を変える。
「名前とか、そんなのは今はいいですよね。それより、この船の船員たちに……」
「名前……私の名前はしらゆき。シバァティア国の魔人だ」
私の話を途中で遮ぎり、嬉しそうに彼女は自己紹介をした。
や、それって、私が言った名前だよね?
姉さまって呼ばれてたって言ってなかったっけ?
「えと、あの、その、姉さま?」
「私の名前はしらゆきだ。うちだてひなたが名付けた。しらゆき、綺麗な名前。お姫様の名前」
彼女はうっとりしている。
あう。
なんか、なんだろう、また色々間違えた気がする。
「白雪さん、えーと、よろしくね」
私、顔が引き攣ってなかったらいいんだけど。
内心冷や汗を垂らしながら微笑んでみた。
「うちだてひなたは、よろしくをしてくれるのだな。しらゆきは嬉しいぞ」
彼女、白雪は、先程とは異なる妖艶で美しい、それでいてどこか可愛らしい笑みを浮かべて私を抱き上げた。
一体何事!?
さっきまでとは違う意味で大パニックである。
「この船はもうすぐ沈むからな。しらゆきはうちだてひなたを助けるのだ」
沈む?
「ちょ、ちょっと待った! ダメだよ沈めちゃ! 沈まないからね、みんな起こさなきゃ」
「沈めてはダメか?」
いや、悲しそうに言われても困ります。
「とにかく下ろしてね。この船は沈ませないから。白雪さんはみんなが起きたらパニックになるかもだから、隠れてくれていると嬉しい」
絶対、説明が面倒だと思うもの。
彼女がお願い通り私を下ろした瞬間だった。
私が誰かに抱きかかえられるのと、白雪が後ろに飛び退いたのが同時だった。
彼女に対してナイフを一閃させたのはリアンさんだった。
私を抱きかかえて彼女と距離をとったのは少年だ。
「いい夢みさせてくれたお姉さんには感謝してるけどね、ヒナを連れて行こうとするのは見過ごせないよ」
あの状態でのいい夢ってなんですか!
改めて思い出してしまって顔が赤くなる。
「おねえさん、無茶しないで」
少年が心配そうに覗いてくる。
無茶はしてません。
この状況は本来の私の目的通りだったりする。
他力本願だけど、歌が止まれば絶対に二人が来てくれると思ってた。
予想外だったのは、魅了系モンスターである白雪が、何故か私に懐いてしまったということである。
「私から、うちだてひなたを奪うあなた方を排除します」
そう言って、白雪が歌い始める。
私には笑い声に聞こえるんだけども。
「わー! 待って、待って!」
少年の腕から抜け出し、私は対峙する二人の間に入ると、背に白雪を庇ってリアンさんに向き合った。
驚いた白雪の歌が止まる。
「白雪は悪い魔物じゃないから!……たぶん」
同様に驚いていたリアンさんが剣呑な眼差しで白雪を睨みつける。
「船を沈めようなんて考えていないから!……たぶん」
「ひな、そこをどいて。そいつは魔物なんて可愛いもんじゃないだろ」
彼が私にこんな態度を取るのは初めてで、それだけ彼が白雪を危険視しているのだと理解はできる。
どこからどう見ても可愛い顔なのに、眼差しと雰囲気が変わるだけで別人のように怖い。
「ほら、白雪さんも! たぶん、船を沈めて私を困らせたりしないよね? たぶん、リアンさん達を傷つけたりもしないよね」
怖いのを頑張って仲立ちしているのに「何で多分なの」っていう、少年のおっとりした呟きなんかが聞こえてくる。
そんなツッコミはいらないからね。
「うちだてひなたは困るのか?」
背後から、困惑した声で質問してくるのは白雪だ。
「困る!」
「ならしない」
打てば響くように返ってきた言葉に、私も驚いた。
「しらゆきは、うちだてひなたの困ることはしない」
改めてきっぱりと言い切る。
のだが、無常にも現状を告げる台詞が続くのだ。
「だが、この船はこのままでは沈んでしまう。しらゆきはうちだてひなたを死なせたくない」
「では、お前の巣への入り口を閉じてもらおうかな」
船首に近いマストの上から聞こえてきたのはカークさんの声だった。