只今バイト中 7
少年を抱き締めながら、パニックに陥りそうになる自分を心で叱咤する。
今何もしなければ、日本に帰られず、少年と私はここで命を落とすかもしれない。
腕の中の少年が私の思考を引き止める。
まずはちゃんと現状を把握すべきだ。
おそらく、今この船は誰にも制御されていない。
理由は、私の視界の中に船長と魔術師さんがいるからだ。
魔術師さんは甲板に明かりを灯した時の場所で眠っているし、船長さんもカークさんと話していた時の場所で横たわっている。
多分なんだけど、この状態になったのは、私が寝落ちした直後だ。
それからどのくらい経ったのかは分からないけども、難所と言われる切り立った崖にはまだ通り過ぎていない。
つまり、このままだと難所を超えることはできない。
私は、今すぐにでも皆さんを起こさねばならないのだ。
そこで、私は現在発生している現象に考えを向けた。
少年を起こした様子から、何らかの状態異常に陥っているのは間違いない。
だって寝汚い私と違って、少年の寝起きはとても良いのだ。
この状態異常は船員の皆さんにも起こっているのだと考えれば、現在の船の様子が説明できる。
そこまで思考して、さすがに私にもピンとくるものがあった。
ゲームや物語で良くあるやつだ。
男性キャラだけが混乱に陥ったりするアレですアレ。
魅了。もしくはチャームと言う。
それなら私だけが状態異常にならない理由も説明できる。
女だからだ。
そして女といえば、さっきから聞こえる耳障りな笑い声。
状況を把握してみれば、良くある話ではないですか。
伝説や神話て語られる船乗りを惑わす人魚とかね。
水棲モンスターは気持ち悪いからもう止めてとは思ったけれど、これは更にタチが悪い。
神様、魅了系モンスターの方が嫌です!
それもいわゆるセイレーン系とか、勘弁してよ。
いや、河だからローレライと言った方がいいのか。
これって、そういう事だよね?
理解してから周囲を見回すと、色々気づくこともある。
私の視界にあるのは死屍累々、まあ、まだ死んではいないんだけど、美女の歌声に心を奪われた男どもの成れの果てである。
既に意識を失っていたり、トロンとした眼差しで虚空を見ていたり、明らかな催眠状態だった。
それだけならともかく、皆さん、乙女が凝視してはいけない部分が大きくなってるのよ!
二十五歳の乙女でごめんね!
皆さん、夢の中で何やってんですか!
なんかもう、どうすればいいの、これ。
でも、きっと放っておいたら死んじゃうのよね?
再度腕の中の少年を抱きしめて、私は覚悟を決めた。
だって、女である私しかこの中で動けないのであれば、私が何とかするしかない。
ずっと少年に守られてたけど、今度は私が守る番だって事だ。
少年を丁寧に床に寝かせると、私はドラゴンスレイヤーと名付けられたナイフを握り締めた。
歌が聞こえるって言ってた。
私には聞こえない、男性だけに聞こえる歌。
代わりに耳障りなクスクスと笑う声は聞こえる。
声を止めれば、歌が止まるのだと思う。
そうであって欲しい。
声の発生源を探す。
笑い声が木霊のように響いて、元の声の位置が分かりづらい。
何でこんな時に居ないのよ、カークさん!
Sランク冒険者様なんだから、精神系の攻撃の耐性ぐらいあってもいいんじゃないの?!
その場にいないベテラン冒険者を罵倒しながら私は船の先端へと向かった。
笑い声は船首から聞こえているはずだ。
途中でリアンさんが倒れていた。
ううう(泣)
こんなに可愛いのに、やっぱり男の人なんですね。
その事に今更ながらショックを受けた。
勘のいいリアンさんは一早く気付いたものの、間に合わなかったって位置なのかな、ここ。
リアンさんの倒れている場所は、船首まで目と鼻の先だったのだ。
「……ひな」
呼ばれた気がして振り返る。
「リアンさん! 意識があるんですか?」
頭を持ち上げて、何度か耳元で呼んでみるも反応はない。
でも、私の名前を呼んでいる。
ちょっと待って、それって反則。
だって、ほら、この状態で名前を呼ばれてるって、そういうことでしょ?
私は思わず真っ赤になってしまう。
えと、とりあえず……優先事項はこの声を消す事だから、うん、ひとまず無視だ無視!
目的の魔物を再度目指すために、私は慌てて立ち上がった。
後ろでゴンと大きな音がしたけれど、気にしている場合ではない。
新月の闇の中で笑い声が一際大きく響く。
目を凝らすと、暗闇の中に浮かび上がる女性の姿があった。
その女性は船首に腰をかけ、歌うように笑っている。
雪のように白い肌、闇に溶けるような黒く長い髪。
スラリとした細い四肢は、黒いワンピースに包まれている。
白と黒の中、楽しそうに口角が上がった唇の赤だけが印象的だった。
「歌うのを止めて」
声が上ずった。
私の言葉に、彼女は一瞬不快な顔をする。
けれど、笑い声は止まらない。
笑いながら私に近づいてくる。
後ずさろう思ったけれど、膝が震えて動けなかった。
甘く見てた。
私は殺される瞬間の恐怖を知らない。
おそらく、この世界に来てから戦い続けている少年がずっと感じている恐怖だ。
これがそうなのかと理解した。
喉が乾く、目眩がする、身体が震える。
意識と身体が恐怖に支配される。
なのに、真っ白になった頭のどこか一部が冷静に状況を見ている。
彼はこの恐怖の中、私を守ってくれていたはずだ。
少年を想うと震えながらも腕が動いた。
私は気持ちだけでナイフを胸の前に構える。
ただそれだけで、恐怖に支配された身体から僅かに力が抜けた。
少年がドラゴンを倒した際に持っていた魔剣だ。
その事実が、私に力を与える。
再度同じ言葉を口にする。
今度は震えなかったと思う。
「歌うのを止めて」
倒したいと思ったわけではない。
私が魔物相手に勝てるとも考えていなかった。
ただ歌を止めて欲しかった。
他力本願かもしれないけど、歌さえ止まれば少年が、リアンさんが、カークさんが事態を好転してくれると期待していた。
ナイフの柄に埋め込まれた大きな赤い宝石が煌めく。
その女性は私の武器が危険なものであることを悟ったかのように足を止めた。
笑い声も止まっていた。
「お前は誰だ。お前……妹を連れて行ったあいつらと同じ匂いがする」