6.
「クソ……クソがぁ!」
誰にともなく口汚く吐き捨てながら、『シルバー・ウィスパー』は廊下を敗走していた。
いくらなんでも、こっちの声の有効範囲が看破されるのが早すぎる。
ただ敵の状況判断がすぐれている、というだけでは理由としては不十分だ。
あるいは相手には、こっちの資料が流されているか、でなければ内通者でもいるのか。
足を一瞬止めてそう思った彼女の背後で撃鉄をたたく音が聞こえてきた。
「あん?」
「ふふ、振り向くな! こっちを見たら頭を吹き飛ばすぞ!」
そんなチンケなおどしをかけてきたのは、敵の追っ手ではなかった。
ここまで彼女に随従してきた、司祭だった。
「わ、私はただ自分の望む研究ができるからとこの職場を紹介されただけだッ、こんな話は想定外だ! こんなところでむざむざ死ぬわけにはいかない!」
「良かったじゃない。お望みどおり研究成果の経過観察ができたってのに。で? そんなアタシの首を手土産に、お国に投降しようって?」
「黙れバケモノめ! 貴様なんかと心中できるか。目さえ合わせなければ、お前なんぞ」
そう、と相槌を打ちながら聖女はゆっくりと彼の方を向く。
反射的に、男の引き金は引かれ、自動拳銃が火を噴いた。
その弾道の下をかいくぐった彼女は、司祭の喉輪をつかみ上げた。
「ば、バカな!? 貴様の運動性は……」
「血泥の中で逃げ回ってりゃ、いやでも速くなるわよ。んなことにさえ気づかないから、クソ虫のように地べた這いずり回るしか能がないってのよ、この三流科学者が」
真紅の瞳を引き絞り、命令を罵声に乗せてささやく。
「う……ぐ、おおぁ、ああああああ!?」
苦悶の声とともに、研究者は白眼を剥いた。
脳の拒絶反応によって口や鼻や眼窩から、血の混じった体液があふれ出る。
まるでゾンビ、いや正しく生ける屍そのものだ。
彼女の命令を忠実におこなうための、手駒と化した。
足音が近づいてきている。
上等なブーツを履いている。体重は相当軽い。
とすれば、トレーラーを投げつけてきたあの小娘か。
目当てをつけた聖女は復讐心に顔を歪ませながら、不必要にポケットやポーチが多い軍服から、手榴弾を取り出した。
ピンを引き抜いたそれを傀儡に握らせて、アゴでしゃくる。
男は手のひらでそれを包み込むと、おぼつかない足取りで足音のする方へと駆け出した。
男が曲がった角で、爆発が巻き起こった。
悲鳴はあがらなかった。血と肉塊と骨片の混合物が散らばり、爆風で黒煙が吹き上がるのが、『シルバー・ウィスパー』からも視認できた。
硝煙と焼け焦げた人間の臭いが、鼻をつく。
ザマを見ろ、と鼻を鳴らし逃走を再開した。
その、刹那だった。
微妙な空気の流れが、彼女のうなじを舐めた。
「……!?」
異変を察知して振り返った聖女は、思わず言葉を失った。
何かが近づいてきている。
形容しがたい存在が、強いて言うなら際限なく広がるモノが。
彼女の髪色とおなじ、白銀の霧が。
その中で、無数の異形をうごめかせて。
黒煙を飲み込み、加速度的にその体積を増しながら、彼女へと向かってきていた。
「とっ、止まりなさい!」
いくら彼女がそう念じても、ソレは止まることを知らなかった。そもそもどこまでが肉体なのか、全容を認識できない存在に、彼女の異能は通用しなかった。
「ひッ!?」
霧から、同じ色の蛇が、鎌首を伸ばして飛びかかった。
アゴを広げ鋭い牙で、彼女の足に食らいつく。
そのまま聖女を逆さ吊りにして、左右の壁が割れるまで叩きつけた。
声を発することもできず倒れ伏す少女に、
「透視能力もつけてもらえれば良かったのにな」
という皮肉げな少年の声が聞こえてきた。
白銀の霧を従わせたそのちいさな影は、青い目を輝かせて彼女を見下ろしていた。
「あん、た……ま……さか」
呼吸さえままならない彼女の喉笛を、少年の肩のあたりから伸びてきた猛獣の爪が引き裂いた。
薄れゆく意識のなか、彼女は喉に空いた穴から、呼気以外のものがこぼれ落ちる音を聞いた。
それは彼女が人を支配し、と同時に彼女自身を縛ってきた装置だった。