4.
――諦めたか。
各病棟、各専門科につながる大広間から、銀の長髪をなびかせて、『シルバー・ウィスパー』……聖女は天窓を見上げた。
電源をフル稼働させたそのホールは、さながら彼女のコンサートを開催しているかのようだった。
そして隣の区画から聖女を狙っていた不届きなスナイパーは、彼女との距離を置いたらしい。
もう少しだったのに、と少しだけ悔しがる。
あと数センチ、狙撃のために顔を近づけてくれれば、歌声のひとつそこまで届かせてやって、その心を絡め取ることができたというのに。
「聖女様?」
彼女の変調を神経質なまでに気遣う司祭は、外のことにまでは目が向けられないようだった。
そして彼のとても小さな心臓が、血を必死にまわして暴れ狂っているのがわかる。興奮と、恐怖で。こと音響に精通しているしているからこそ把握できてしまう。何より彼は自分の実態を知っている。
ゆえに察してしまえる。そこに忠信などなく、奥底にあるのは自分への恐怖だ。
もはや自分が立っているのは、真っ白な壁と四畳半以下のガラスケースのなかなどではない。
自分たちの創作物が、思いがけず外に出たときに彼らが出来たことと言えば、思考を捨てた盲従だけだった。
皮肉といえば皮肉にも、そのためにこそ自分たちは外道によって産まれたのだから。
信者たちは、二種類いる。
自分をあくまで慕い、崇拝しているタイプと、彼女自身の能力でもって、人形と化した突入部隊や人質たちだ。
だが、そこにどういった違いがあるというのか。どちらも、信念どころか思考さえも捨てているというのに。
聞こえないように舌打ちしたが、彼らに振り返った時にはすでに、勇ましくも優美さをたたえた戦姫の表情だった。
もはやその身にまとっているのは、粗末な入院着などではない。
その目の緋色と、その髪の白銀を基調とした、ゴシック調の軍服。
肩にかかったマントをはためかせ、彼女は高らかに宣言した。
「皆、聞け! ここを耐え忍べば、いずれ裁きの審判が彼らにくだる! いずれ我が同志が千軍万馬をひきいて天上より舞い降り、奴ら汚れた俗人どもを駆逐する! 私は諸君らを信じている! 諸君らとの絆、想いの強さを知っている! そうだ、時が来るまで、我らの結束で苦難を乗り越えるのだ!」
聖女の言の葉は、そのまま彼らの高揚となって伝わっていく。
洗脳され、常識を塗り替えられた彼らにとって、その一つ一つが、何にも勝る至宝だった。
「たとえ諸君らがここで果てようとも、いずれ今日の勇戦は家族や、愛する人々にきっと受け継がれていく! そして今日の無念は、きっと彼らが果たしてくれる! そのためにも、ひとりでも多く敵を殺せ! たとえ向かってくる者が赤子であろうと容赦はするな! それは未来に残る禍根である! それを取り払う名誉を、胸にしっかりと刻み……そして、そしてできることなら生き延びてくれ! ……諸君らもまた、かけがえのない私の同志なのだからな……」
タイミングを見計らい、くるりと背を向ける。
「聖女様……」
と震える声が、背後のあちこちから聞こえはじめる。それは主に、ここまで苦楽をともにしてきた、熱心で、かつ無垢な信徒たちのものだった。彼らは自分が夢想のなかに陥っていることさえ知らず、当初はより安全に、より幸福な生活を送ってきたことなど忘却のなかへと追いやって、ただ彼女の言葉に熱狂した。
「こんな俺たちを……聖女様はお見捨てにならないっ! みんな、彼女のために銃をとれッ、立ち向かえ! さぁ、彼女をたたえる歌を歌おうっ! 銀夜のために、すべては、静謐なる銀夜のためにィッ!」
と、誰かひとりが言った。やがて税込み八千四百六十円の教典にかかれていた讃美歌が、あちらこちらから聞こえ始めた。
この教えに傾倒した作曲家と作詞家が考案したものだから、それなりに体裁はととのっているし、韻を踏んでいる。
「みんな……ありがとう……ありがとう……!」
と、歌姫はその声に感涙し、肩を震わせた
――んなわきゃあ、ないでしょうが。
まぁ、それは彼女にとっては演技でしかなかった。
演説にしたって、そもそもそれは彼女の意に沿うものでもなかった。
あのうすら寒い長広舌は、遺伝子レベルの内部で染み付いたものだ。それが彼女のなかから掘り起こされ、勝手に頭のなかに浮かんだだけだ。そして、まるで油脂でしめらせたかのように、唇から勝手に零れ落ちただけの言葉だった。
かつてこんな口上を披露していた人間は、きっと天性の扇動家か。こんな空疎な絵空事を本気で信じていたとしたら、どこまでもめでたい人間だったことだろう。
どちらにせよ、救い難い。
――さて、人柱はこれで出来上がった。状況は悪くなってるし、頃合い見計らって逃げる算段はしないとね。
……そう、死んでたまるか。
ホルマリン漬けの標本や、実験用のモルモットはもうごめんだ。
目の前で衆愚どもが利益や幸福をむさぼり、自分だけに責任を押し付けられるのはごめんだ。
――なにを犠牲にしたってかまわない。『母親』だろうとなんだろうと利用し尽くす! 何人死んだって知ったことですか。アタシは、アタシの幸福を……ッ
そんな野心に燃える彼女の頭上で、天窓に穴が開いた。
降り注ぐ月光をつたうようにして、直線的な軌道で撃ち込まれたのは鉛色に鈍くペイントされた、弾丸だった。
いや、果たしてそれは弾丸なのだろうか。
ポインタは丸みを帯びていて、その形状は飛距離を伸ばすことよりも、弾の破壊それ自体を、防ぐかのようだった。
……彼女自身をねらった弾丸ではない。
そもそも姿が視認できないぐらいに離れた例のスナイパーからしても、聖女の姿は正確に捉えられないはずだ。
ただ、当たりをつけて適当に撃ち込んだもの。
だが、その意図と目的は、次の瞬間その鉄片から鳴り響いた怪音であきらかとなった。
目覚ましのアラームにも似た、甲高い音は地が揺れるほどに甲高く、うろたえる周囲の声さえも、かき消すほどに。
「……この程度……ッ」
こちらの音域が侵されるほどではない。
だが、正面を向いた聖女は、入り口に向けて飛んでくる、巨大な鉄塊を見た。
それは、彼ら自身が乗り付けてきた、トレーラーだった。