21.
濁った海水は、春先にも関わらずまだ冷たいままだった。
感覚のなくなった指でそれをかき分けながら、深みから酸素をもとめて、上へ、上へ……
白い文明の光が乱反射しながらも目に届きはじめた。
そこからは、一気に海面に出ることができた。
一息に酸素を血流の中へ取り込み、もがくように対岸へと向かって泳いだ。
そして、空振り続けたその手は、ようやく岸の土をつかんだ。
銀の濡れ髪を幽鬼のように垂れ下げて現れたのは、ひとりの少女だった。
激情の業火は寒海にも消し去ることはできず、たえず彼女……鐘山銀夜の瞳に生気を灯し続けていた。
不機嫌そうに立ち上がった彼女は、息を整えながら、右腕で『もうひとり』の襟髪を引きずった。
少女の手の中で気絶した少年の肉体は、身じろぎひとつしなかった。
彼女らの頭上には、島と本州とを結ぶ大橋が大きく傾いていた。
つい先ほどまで自分たちがいたその場所に、『大渡瀬』は置いて来てしまった。そこを見上げながら、銀夜は鼻を鳴らした。
「なんで助けた?」
と、問う声があった。それは手に持った錫日照慈本人のものでもなければ、おのれの自問でもない。
それを発したのは、朱色の羽織と赤い帽子を身につけた、黒髪の青年だった。
本来ならいるはずのない男の登場に、銀夜はまた幻覚を疑った。
「あいにくと俺は本物だ。といっても、この肉体は貰いもんだけど」
相手の顔色から感情の奥底まで読み解くような異様な察しの良さは、まぎれもなく自分のかつての……怨敵。
なんの能力も才能も持たない凡人。
でありながら、甘言でもって人々を扇動し、銀夜を死にまで追いやった、悪党。
道を踏み外しながらも、結果として多くの民草に慕われた男。
錫日照慈と同じく、鐘山銀夜の道理に相反しながら勝利し、成功した矛盾の塊。
「鐘山、環……!」
「おう、久しぶり」
青年は、青空色の両目をしばたたかせながら、片手を挙げた。
「というか昔の形状こうして保ってられてるのは、お前らが霧やら粉やらを広げ回った影響なんだがな」
――いや。
驚きはしたが、心の奥底では察しがついていた。予感はあった。あるいは、期待であったのかもしれない。この異世界に、ひょっとしたら何らかの方法で来ているのではないのか、と。
「つまり、この件の裏で糸を引いていたのは、貴様か」
たとえ手に刀がなくとも、徒手空拳で引きちぎってくれようか。
それだけの殺気を矛として向けながらも、環は意に介さない。
「いやいや。正直なところ、俺だってお前なんかに近寄りたくもなかったさ。それでもそこの坊主に乞われてここまで来たんだ。その意味ぐらいわかってくれよな」
という彼の言葉に、明敏な銀夜の頭脳はすぐに察した。
互いに肉親やおのれ自身の仇でありながら、この臆病な従兄弟があえて銀夜に近づいたことが意味するのは、ふたつ。
ひとつには、今回の件に環の思惑は介在せず、あくまでこの照慈の側が協力を持ちかけたということ。
そしてもうひとつ、今こうして顔を見せているのは、彼女を恐れないだけの圧倒的優位を彼がすでに確立しているということだ。
……たとえばこの付近に、銀夜一個人の武力など歯牙にもかけない伏兵をひそませているなどして。
「なにせ、かわいい甥っ子の頼みだからな」
環が銀夜の眼前を通り過ぎて、彼女が下ろした少年の傍にかがむ。
「それは、私の子ではない」
彼女に似た銀色の髪をさらさらと撫でつけながら言う彼に、ヘドを吐くように銀夜は言った。
「で、さっきの質問になるんだが……だったら、なんで助けた?」
「……」
彼の問いに、銀夜は押し黙った。
それは、自分でも答えの出ない問答だった。
なぜ、錫日照慈は自分の同胞を殺す鐘山銀夜を、ヘリの砲撃からかばった?
なぜ、そんな自分は、殺すべき対象をひっつかんで海へと逃げ込んだのか?
自分の信念か、あるいは別のなにかか。
錫日と語らえば少しは今後の関係も変化するのかもしれない。これから進む修羅の道に、光が差すのかもしれない。
だが、彼は力尽きて意識を喪っている。
だから彼と我との関係は、終わりだ。このまま交わらずに進む。
それぞれに、信じる方策でもって人々を救済し、正義を執行する。
「お前、本当はわかってるんじゃないか?」
呼吸を整えて先へと進もうとする彼女を、環はすれ違いざまそう止めた。
「お前の正義と秩序と、お前の父親のそれらとは、違う。そもそもの動機も、中身も。ここにあの男はいない。よしんばお前のように蘇っても、迷わずに死を選ぶ。そういう男だ。でもお前は生きた」
「……だったら、どうした?」
「いろいろと因縁の吹き飛んだ今なら言える。……死ぬなよ、銀夜。お前みたいなのでも、今となっちゃ数少ない同郷なんだ」
銀夜はふたたび歩き始める。その背に、環の言葉が追いかけてくる。
「もし俺への憎しみが生きる気力につながるのなら、それでも構わない」
帽子ごと頭を押さえつけながら言う彼に、一瞬彼女は立ち止まった。
俯きがちの横顔を向けて、
「貴様の、そういうところが」
とだけ言った。そこから続くことはなかった。
「どこへ行く?」
再び歩き始めた娘に、青年は問う。
もう銀夜は、立ち止まることはなかった。
「貴様らを斬ろうにも刀がない。だから、探しに行く。今ここに生きる私が握るべき刃を、その牙を」
鐘山環もそれ以上は止めなかった。
彼女の落とし子を抱え上げて、どこか頼りない足取りで、ふらつきながら歩き始めた。
その彼に、二、三人ばかりの影がどこからともなく加わって、寄り添った。
銀夜はそこから背を向ける。歩みつづける。
迷いながらも、ふらつきながらも、立ち止まりながらも、行くあてがなくとも。だが、いやだからこそしっかりと、強く、かたく踏みしめて。
そうして真白な砂地には一筋の足跡が刻まれていき、どこまでも続いていた。




