13.
白銀の霧のなか、悠然と男が闊歩している。
これは錫日照慈が短くも激闘の日々で学んだことだが……時折、そういうヤツがいる。
その霧をあやつる少年の意に応じて、蛇が牙を剥いて右翼より曹鳳象にせまった。
大陸の梟雄の右腕が、大きくしなりを見せた。それこそ、今まさに自分に食らいつこうとする蛇のごとく。鎌首を模した手の甲が蛇の頭部の軌道をそらし、逆にからみつき、締め上げて、握力のみでもって白銀の頸骨を粉砕する。
力なく床に蛇が横たわるよりもはやく、獅子の爪に彼を襲わせる。
まったく視界がきかないはずの空間の中、鳳象を奇襲するべく剛腕がせまる。
だが、見計らったような角度とタイミングで、彼はその腕を打った。
虎の爪のごとく立てた指先が、『大渡瀬』でさえ斬り裂けなかった毛皮を貫通し、血しぶきをあげさせた。
そのままフォークのように深く突き刺された指先が、引き抜かれると同時に、鋼鉄と同等の硬度を持つ骨ごとに半分をえぐる。
返す刀で繰り出された裏拳がみずからの半身ほどの太さを持ったそれを、完全に引きちぎり、吹き飛ばした。
悲鳴にも見た獣の咆哮が、霧を震わせる。
鬼人のカモシカのような脚が伸び、床をたたく。次の瞬間、おぼろげな人影と気配が消えた。
――目前!?
本能にしたがって伏せた照慈の頭上を、100mは先にいたはずの男の前蹴りが襲った。
大理石の柱に、鉄板を張り付けた革靴の底がめり込む。
まるで仁王の掌にも似た亀裂がその足から先にはしり、砕ける。
「どうにも、勝手がわからないから本調子になれないな。熊と虎は殺ったことがあるのだが」
そううそぶく曹鳳象と、彼の足によってただのガレキの山となった支柱の残骸とを見ながら、照慈は舌打ちした。
……そう、いるのだ。この世の中には、こういう怪物が。
この男や、『ノーディ』の警備員井倉番、あるいはバイクを駆り異能者を狩る怪人『竜騎兵』。去年の末に意識不明となった『吉良会』の忍森冬花も、徒手空拳で相当の実力者だった。
なんの超能力も特殊な武器も持たず、ただみずからの知勇でもって、神のごとき力を持つ相手を凌駕する人間。力をもとめて違法な人体改造や技術開発に手を染める輩がいる一方で、何かタチの悪い冗談としか、神が気まぐれで生み出したかのようなでたらめな強さを持つ、常人。
「これだから、人間は、度しがたい」
いや、だからこそかもしれないとも思う。
自分のような人外の存在やそれを造成する奴らは、今なお人間の形状を捨てきれない。その理由は、目の前の曹鳳象のようなモノの出現に、可能性を見出すゆえなのかもしれない、と。
とは言え、『それ』を野放図に世に広めるわけにはいかない。
「『彼女ら』を、渡すわけには」
知らず口からこぼれ出た言葉に、「ん?」と鳳象は細い眉を吊り上げた。
「そうか。君の目的はあれら、か」
「あぁ。お前のような者に、悪用などさせるか」
丁寧な日本語に反する、広大な大陸に響かんばかりの呵々大笑。
「悪用とは笑止な。むしろ、あのあわれな生き物たちを二束三文で買いたたき、つまらんことに利用しようとする輩からうばい、妥当な値打ちとして取引しようとしているだけだ。僕自身はあれらをどうこうするつもりはない」
「なら、『シルバー・ミスティ』はなんだ? 何故、彼女を庇護した?」
「懐に飛び込んできた小鳥を、むざむざ殺すことも、殺させることもできない」
「それが、凶音をさえずる害鳥でもかっ」
「だからこそさッ」
鋭い正拳が、さながら掘削機のドリルのように、渦を巻きながら打ち付けられる。
それを飛んでかわしながら、錫日は薄れた霧のなかを男と並走した。
「誰も救わぬような罪人だからこそ、救う意義がある! ありとあらゆる体制と個人とが黒と糾弾した者を救うことこそが悪と名乗る者の本懐だッ!」
「……狂人がっ」
「では逆に、そして重ねて問おう……君は、何者だ」
照慈の身より生じた霧が、ふたりの間に流れ込む。男のひねり出した拳が、新たな獣の手にはばまれる。
「いかにも我らは悪人にして狂人さ。だが、君は『人間は度しがたい』と、言ったな。では君は人か、獣か? 異能者か、それを狩る者か? 体制側か、反体制側か? 鐘山銀夜のクローンか、子か? ……あるいは、『ヤクト・ハウンド』第四班長か?」
「……っ!?」
「やはりその声、錫日照慈か。シマをめぐって何度かやり合ったが、直接『顔』を合わせるのは初めてだな」
照慈をおそった動揺が、そのまま獣の腕力に影響する。
数分の一にも満たない細さの腕に、獣の前肢や牙が手刀によってたたき折られ、掌底によってこじ開けられ、彼を守護する存在が取り除かれる。
その隙をつけ込まれ、まっすぐに踏み込まれ、懐に入り込まれる。
「だが、今日の君の周囲に部下もなく、我々に手出ししろという任務を受けたわけでもあるまい。にも関わらず、君は同胞を狩るためにここに来た。もしくは救いにか? だがその彼女らとて、それぞれ役割があった。教祖、あるいは実験動物、愛玩物、性欲処理の道具、あるいは兵器。だが、君は? 人の秩序を守る側に立ちながら、いくつもの戒律や掟をやぶる、そんな矛盾に満ちた少年が背負う使命とはなんだ? くり返し聞こう、誰でもない銀髪の少年……君は自分をどう定義する?」
「お前の、知った、ことか!」
一度距離をとり、手を突き出す。
そこから生じた白銀の濃霧が、獣の群れを呼び出した。
さながら百鬼夜行のごとく生み出されたそれらが、主人の怒りを突進力へと還元して、ただひとりの男に押し迫った。
男の手の上には、いつの間にか果実大の代物があった。
――手りゅう弾!?
だが、ピンが弾き飛ばされ、中から噴き出たものは、化学物質によって黄色く変色した煙だった。
スモークボム。
爆炎は生じなかったが、鳳象の身を隠し、霧を飛ばすには十分な圧力を持っていた。
まさか武闘家の袖からそんなものが出てくるとは想像せず、思わず思考の虚をつかれた。
霧から出ることを許されない獣の進路が、制限される。その外側から、槍のようにすぼめられた男の指先が突き出され、獅子の眉間を撃ち抜いた。瞬間、その全身がおおきく波打って肉体中の水分を振動させて、二メートル近い巨体が鮮血とともにはじけ飛んだ。
その血しぶきを浴びながら、数匹の大蛇が男の喉笛をねらった。だが、鳳象は彼らと競うように、あるいは彼らをもてあそぶかのように、蛇行しながらかわし……あろうことか、壁を足場に駆け抜けた。そのパオの背から、抜き身の青龍刀を二本、引き抜いた。
数歩遅れて壁に激突した蛇たちをその刀身を旋回させて一薙ぎに切断した。
へばりついた朱の雫を、風に乗せて振り払う。
筆のように照慈の足下に線となって床を彩り、鳳象も自身も勢いを駆って、双刀を振りかざして飛んだ。
だが、
「その問答、代わりに私が預かろう」
という少女の声とともに、上層部に通じる天井が吹き飛んだ。
ガレキと共に侵入してくる黒煙から、ひとりの少女が突っ切るように落下してくる。彼女は黄金の粒子をはらんだ刀を殴りつけるように振り下ろし、真っ向から、鳳象の曲刀を受け止めた。
「我こそは鐘山銀夜だ。私とおなじ姿をした何者かが何を為し、何を語り、どう名乗ろうともな」
三者三様の色が渦巻く混沌の戦場で、自分とおなじはずの髪色が、照慈にはふしぎとまばゆく見えた。




