7.
朝露光る湾岸道を、一台の小型トラックが進んで行く。
引っ越し業社のロゴとマスコットのイラストと、登録されていないナンバープレートを貼り付けたそれは、ツナギを着たふたりの男たちを乗せていた。
「……今のところ、異常なし。どうぞ」
助手席にいる男が、専用の無線機を通じて報告する。彼よりも年嵩と中年男性は、慣れたハンドルさばきで悪路を走行する。その手腕を長年の付き合いで知り、かつ信頼しているからこそ、彼は安心して警戒に専念することができた。
そんな彼らの座席の間には、ジェラルミン製のケースが置かれていた。
中にあるのは荷物そのものではなく、後部の荷台を開くためのリモコンスイッチだった。
かつ、起爆装置でもある。危機があれば自分たちの生命もろともに、車内にあるものを焼却する。それが大金と運び屋との名声とを対価としたクライアントとの契約であり、死の覚悟を負い、かつそれを起動させずに運搬することが彼らの矜持だ。
箱の中身は知らない。教えられてもいない。そもそも、依頼主となる組織の母体や目的、その素性さえも彼らは知らなかった。通例通り、前払いにて全額を口座に振り込み。彼らにとって、信頼関係を築くにはそれだけで十分だった。
あとはこちらが責任を果たしさえすれば、それで良い。この道程も、もはや過半を越えた。
こんな開けた場所で襲撃もあるまい。
そんな見通しをしていた彼らを、うっすらと霧が覆っていた。
濃霧かと身構えた彼らだったが、ふしぎと中に入れば外の様子がよく見えたから、走行自体に支障はない。
ただ、そんな予報は先々の天気を入念にチェックし、情報収集をしていても入ってはこなかっただけだ。
妙なこともあるものだと首をかしげた助手席の男だったが、彼らの乗る車が急に止まった。いや止められた。
「っ!?」
今まで一度も操縦を誤ったことがない。そんな男が、何もない道で急にブレーキペダルを踏んだのだった。
だから彼は、まずその不注意を咎めるより、相棒の異変それ自体を察知した。
「おい、どうした?」
と横顔をうかがえば、尋常でない様子。目を血走らせ、もぎとるばかりに握りしめたハンドルに、汗ばんだ額を押し付けている。
「……いや、そんな、ありえない……あいつは、いや……でも、まちがいない……あぁ!」
ガチガチの鳴る歯の奥からは、そんなつぶやきが漏れ聞こえた。
その意をさぐるまえに、男はシートベルトをはずす時間さえ惜しみ、強引に運転席から飛び出していった。
「おいっ! いったいどうした!?」
と呼びかけても、霧の奥底に駆けていった彼から返事はない。あれほど見通しのきいた霧が、いまはすでに一寸の先も見えなくなっていた。
「……」
助手席にいた彼もまた、車から出た。
スイッチのケースと……忍ばせていた大口径の拳銃を片手に。
ここまで来れば、この霧がただの自然現象ではないことはすでに確信していた。
そういう異様な存在が確認されていることは、彼ら裏社会の人間の間でも有名な話だ。
そして何より、自分たちが運んでいるモノたちも、おそらくはマトモな代物ではないのだろうから。
かつん……かつん……
音がする。
高いヒールで、アスファルトをたたく音。
反射的に音が聞こえた方角に銃口を向ける。だが、すでにそこに気配はない。
無駄撃ちを避けた彼の頬を、なにかが触れた。
「うおっ!?」
反射的にトリガーを引く。火薬が爆ぜ、推し出された弾が彼方へ飛んでいく。命中した様子も、悲鳴もない。
硝煙と火花が霧に溶け込むのを、荒く呼吸しながら見届けるしかなかった。
霧に、太陽が透けて見える。薄らいでいく。
やがて、それが晴れた時、ぎらついた太陽が、彼の肌を焼いた。芝生のにおいが立ち込めて、やわらかな風が頬を撫でる。唖然とする彼の目の前にはなつかしい旧家屋が立っていて、気が付けば彼自身は、子どもの姿になっていた。
「そんな……そんなことは、ありえない」
相棒がつぶやいていたものと似た繰り言を、彼も思わずつぶやいていた。
それは彼がかつて暮らしていた家だった。
今よりも金も力も自由もなかったが、満たされていた少年時代。
すでにもう影もかたちも存在しない光景。
これが偽物の光景だと理性が警鐘を鳴らす。
敵の術中だと経験が訴えている。
――嗚呼、だが。
だが、しかし。
震える指先でさび付いた戸を押し開けば、すでに会えぬひとびとが自分に笑みをたたえていて、
「母ちゃん……」
と唇を開けば、頬をつたう涙が口腔に入りこんで、塩辛く濡らす。
そして現世。
霧の中うつろな表情で涙を流し、両腕を伸ばす彼を、背後から女鬼が嘲笑う。
黄金のの刃を肩にかつぎ、白銀の長髪をなびかせながら、しずかに彼に忍び寄っていった。
そして乳白色の霧のなか、真紅の花が二輪、咲いた。




