EE 第二十六話 苦悩の末に
スラム街という所は乱雑で粗暴、住民の多くが落伍者かそう生まれてしまった者たちが住む場所、といった印象が付き纏うがいつでも治安が悪いというわけではない。
確かに貴族街と比べると犯罪が起きる確率は雲泥の差だが、それでもそんな中に平穏な時を過ごす場所はある。
女や子供、老人などが多く住み、立場が弱い者同士で肩を寄せ手を取り合うそんな場所。
必死に生きなければならない環境下ではそうやって人は力を合わせる。
一方で平和がある程度約束された場所では人というものは体のいい仮面を被り、騙しあいながら仮初の絆を作ってしまう。
全てが全てそうであると言う訳ではないが、円滑なコミュニケーションをとろうとすれば自ずと本音というものは隠されてしまう。
そんな人々と比べて、果たして意地汚くも懸命に生きようとする彼らは劣っているのだろうか。
その逆もまた然り。
優劣という名の壁は両者に確かに存在する。
それは大人から子供までに浸透しているある種の常識。少なくともスラムの住人にとっては。
「テト、何をそんなに悩んでいるんだ」
「……」
テト、と呼ばれた子供はその声に顔を上げることなく、木箱に座ったまま肩膝をついて思案顔を崩すことはなかった。
声を掛けた少年は反応がないことを確かめると、一つ嘆息をして奥の部屋の方へと歩いていってしまう。
スラムの住居というものは大抵が一言で言うならばぼろいが、少年たちがいる建物も例外ではない。
かろうじて椅子や机といった最低限のものはあるが、生活感という点から見ればこの部屋は乏しすぎるといっていいだろう。
雑多に散らかるゴミや、鼠が食い散らかしたような食べかすが点々とし、不衛生極まりない。
だがそれを気にする者はここにはいなかった。
掃除などという上品なことをしている暇があったら、一欠けらのパンくずでも探した方がまだ意義があるという輩ばかりである。
あいにく、食べ物探しでさえ今のテトという子供にとっては意識の埒外にあるようだったが。
「テト」
「……今度はルーイかよ」
うっとうしそうな色合い強めながらテトはようやく顔を上げることにしたようだ。
邪魔されたことに苛立ったのか端正な顔を歪めて睨み付けている。
そんな反応にルーイは苦笑するだけに留め、テトが座っている木箱に隣り合うようにして腰掛けた。
「俺の席だ、座るんじゃねぇよ」
「テト一人だけの物じゃないよ。だから関係ないね」
開口一番テトの口からは文句が飛び出したが、何処吹く風でスルーを決め込むルーイに大した効果は期待できない。
力尽くでどかせる気分でもなかったテトは、それ以上は何も言うことなく押し黙ることにした。
もう一人の少年には沈黙が武器となったが、果たしてこの飄々とした少年には通じるのだろうか。
テトがちらりと視線の片隅で盗み見れば、件の少年は足をぷらぷらさせて一人で楽しそうにしていた。
もう一人のいなくなった少年ラトリは直情的で単純な分かなり扱いやすい。
ルーイはその逆で普段からマイペースな気質がある。この少年に対し彼は苦手意識を覚えていた。
何を考えているのかいまいち読み取れない。
結局この時も沈黙にテトが耐えられなくなって自分から話をしてしまう形になってしまった。
「あいつらのこと、考えてた」
「あいつらって、あのお嬢様っぽい綺麗な子と口が悪い美少女さんのこと?」
「あぁ……そうだ」
「ふーん」
「……それだけか?」
「ん?何か続きがあるの?」
「……」
これだからルーイは……、とテトは誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
苦い顔をしながらも隣のルーイを見ると、本当に先の話が気にならないのか催促する気はないようだ。
テトはガシガシと乱暴に自分の頭を掻き毟ると、ため息を飲み込みつつ重くなっていた口を開く。
「あいつ、中部に一人で行っちまった。どんな所か知らない癖に突っ走りやがって」
「そうだねぇ」
「こことは比べ物にならないくらい危険なのに。貴族なんてもん助けにさ」
それなのに笑いながら行ってしまった。止める間もなく走り去ってしまった。
残されたスラムの子供たちは一歩もそこを動くことはできなかった。
あの子が向かった先がどれだけ危険な所かわかっていたから。
やがて金縛りが解けたかのように一人、二人と帰る中、テトは最後までミコトが消えていった先を見据えていた。
「格好からしてあの子は平民っぽかったよね、あの子。お付の人かな」
「俺たちが思っていたのとは違うってんならそうかもな」
「責任感じてるの?僕たちが余計なことしたからあの二人が危険に飛び込んでしまったって」
「……」
「義理は果たせたんじゃないかな。みんなで探したんだから」
「だが」
「それ以上は付き合う義理なんてないよ。命掛けてまで、ね」
きっぱりそう言い放ったルーイは包み隠さず本音を吐露しているように見えた。淀みのないその言葉に確たる信念を潜ませている。
スラム、そこに住む人々にとって外にいる者たちのことなど、どうでもいいと考えている者は珍しくない。
無関心であればまだいい方で、憎しみや殺意を抱いている者もいる。
その点ルーイは前者であるようだ。すなわち、ミコトやプリムラが死のうが助かろうがどうでもいい。
ミコトの美貌にほだされていたこととは別らしい。
「お前ってやっぱりよくわかんないやつだよな」
「そう?割とはっきりしていると思うんだけど」
のほほんと優しそうな雰囲気をしているかと思えば、簡単に人を切り捨てようとする。
スラム思考と言えば至極当たり前である考え方ではあるが、テトはそう割り切れてはいないようだ。
最初に声を掛けてきたラトリも感情の面で言えばテトと同じかもしれなかったが、最終的にルーイと同じ側に立つだろう。
テトはそういう意味ではスラムの住人として珍しいタイプと言えるだろう。
溜め込んでいた感情を体から抜くようにテトは深く息を吐き出すと、部屋の入り口に向かって声を掛ける。
「ラトリ、盗み聞きは趣味が悪いぞ」
「……なんだよ、気づいていたのか」
罰が悪そうな顔を覗かせたのは先ほど出て行ったはずの少年だった。どうやら入り口の所で隠れて聞き耳を立てていたらしい。
片手で首の後ろあたりに手を当てながら部屋に入ってきたラトリは、テトの反対側の壁に背を預けた。
開き直って直に話を聞くらしいラトリに、彼はため息を押し殺すことに必死になっていた。
ため息ばかりつくと幸せがなくなっていくという。
自分自身でも辛気臭くなってしまうとわかっているから好きではないが、気づいたら出てしまっているのだから始末に終えない。
このラトリとルーイという少年二人が自分のことを心配しているということに、テトも気づいている。
チームの中でも取り分け仲がよく、昔からつるんでいてお互いのことを知り尽くしている二人のことだ。
きっと彼が何を悩んでいるのかもわかってはいるだろう。
テト自身が話してくれるのを待っているのか無理に聞き出そうとはしていないが、それが尚更心苦しかった。
しかしいつまでも話さずにいるわけにはいかないだろう。
なによりテトの中では半ば心は決まっていたのだから。
「俺、あいつらを助けに行くよ」
「やっぱりか……。本気、なんだな?」
「あぁ」
意志を確かめるラトリに、テトは決然たる瞳で返した。
段々と空気が緊張を帯びて重くなってくる。それほどこれから向かう先は危険なのだと知らしめるように。
案の定、といった所でラトリは軽く息をつくだけで特段驚いた様子はない。
苦い顔をするラトリとは対照に、ルーイは口を挟むことなく涼しい顔で二人が話す様子を見ていた。
彼は口に出したことで意志が固まったのか、続く言葉は強く決意に満ち溢れていた。
「後のことは頼む。戻ってこれるかもわからん。だから……」
「何言ってるの?僕らもついていくよ」
「……は?」
よっ、と声を上げルーイは反動をつけて木箱から飛び降りた。
着地の衝撃でぎしりと古い木の床が音を立てる。
思ったよりも勢いがあったのか、二、三歩とバランスを崩したたらを踏むルーイに駆け寄ったラトリが手を貸して転倒を防ぐ。
ありがとうとはにかんだルーイにラトリは一つ頷くだけ。
まるでそうなることがわかっていたようなラトリの動きに、付き合いの長さを感じさせた。
ぽかんとその光景を眺めていたテトだったが、何かを言う前に引き継ぐようにしてラトリが口を開いた。
「そうだな、俺たち三人で行く方がいいだろうな。残るやつらにはちゃんと話を通しておけよ、テト」
「ちょ、ちょっと待て!何でそういう話になる!!」
「何でって……」
「そりゃ、なぁ?」
ラトリ、ルーイの二人がなぁ?と仲良く頷くその光景はまさしく仲良しといった感じだった。
自分たちも危険が待ち構えている中部へ行こうと言い出したというのに、どこか場違いな印象を植え付ける。
テトにしてみればまさか、という話である。
自分一人で行くつもりだったのにどうしてついくるんだ、と思ってしまったのはあまり悩みすぎていて二人の性格を忘れてしまったからだろうか。
それからテトが留まるように説得しても二人は一向に頷くことはなかった。
ラトリ、ルーイにして見れば当たり前の話。
テト一人を危ない目に合わせるわけにはいかない。数々の修羅場を共にくぐってきた三人だ、今更の話だった。
最後に折れたのは当然の結果として、テトだったのは言うまでもない。