第三話 二人の一匹狼
月影に輝く紅い毛並み。
草原に佇むその怪物は、ワンボックスカーほどの巨躯を誇る狼であった。口元に生えそろった牙は剣を思わせるほど鋭く、人間などあっというまに八つ裂きにしてしまうだろう。逞しい四肢は力強く大地を踏みしめており、碌に鍛えられていない俺の細い手足など比べ物にならない。
狼の頭の上には『吸血狼』とネームが表示されていた。そのHPバーは今日一日で俺が見たどんなモンスターよりも長く、ゴブリンの軽く十倍はある。明らかに特殊な条件で出現するエリアボスか何かだ。名前からすると、条件は夜にモンスターを大量に狩ることあたりだろうか。いずれにしろ、とても今の俺に倒せるモンスターではない。
「クソッ!!」
とっさに後ろを振り返ると、街の明かりは遥か遠くにあった。ここから門までは距離にして、約三百メートルはあるだろうか。アバターである今の俺の身体能力ならば、一分もあれば走りきれる距離であるが、その一分を目の前の吸血狼は許してくれそうにない。せめて俺が魔法タイプのプレイヤーであれば、魔法を乱射することで時間を稼げたかもしれないが――遠距離スキルを持たないサムライの俺には到底無理なお話だ。
「らっせえェ!!」
逃げる方策がない以上、どうにか立ち向かうしかない。無理やりに気持ちを奮い立たせると、震える手で刀を握りしめる。この怪物を相手に、レベル5にも満たない俺の攻撃がどこまで通用するのか。いや、そもそもダメージを与えることができるのか。脳内は絶望的な予想でいっぱいだったが、俺が生き延びる可能性があるとすれば、こいつに有効なダメージを与え、動きが鈍った隙に逃げ出すことしかない。
「グアァ!!」
覚悟を決めた俺。そこに向かって、洗礼のごとく放たれる爪の一撃。大振りだが異様に動きの速いそれを、俺は間一髪で回避した。大地がえぐり取られ、草原に四本の溝が深々と刻まれる。こんなもん、当たったら体が裂けちまうぞ! 背中から血の気が引いて、ぞわりとした感触が全身を駆け巡る。
<窮鼠の意地・発動>
響く合成音声。
身体がわずかに軽くなった。良くはわからないが、ステータスアップ系スキルの発動条件を満たしたようだ。全身の感覚が研ぎ澄まされ、筋肉が限界以上の速度で躍動する。吸血狼の動きは非常に素早く研ぎ澄まされていたが、予備動作がかなり大きかった。それを見切り、攻撃を当たるギリギリで避けていく。
三十秒ほどが過ぎた。
なかなか攻撃が当たらないことに苛立ったのか、吸血狼がひときわ大きく爪を振り上げる。その刹那、狼の腹が見えた。白く柔らかそうに見えるその腹は、筋肉質であったが毛皮を纏ってはいなかった。今がチャンスだ。これを逃せば、終わる――!
「そりゃあァ!」
<居合切り・発動>
勢いよく踏みこむ。光を纏った切っ先は、吸い込まれるように狼の腹を切った。だが――
「ちいッ!!」
見た目からは想像できないほど、吸血狼の腹は堅かった。さながら分厚いゴムか何かでできているようだ。一本千Zのなまくらな刀は、それに小さな切り傷も付けることができずに、勢いよく弾き返されてしまう。その反動に押された俺は、仰け反るようにして狼から距離をとった。慌てて視線を上にあげると、やはりHPバーはほとんど減っていない。弱点をついても、駄目か!
――VRMMOと言えど、やっぱレベル制ゲームってことかよ……!!
レベル制のゲームにおいて、低レベルキャラが高レベルキャラに勝つことは当然ながら非常に難しい。中には、低レベルキャラでも高レベルキャラをプレイヤーの技量次第で倒せることを売りにしたタイトルもそれなりにはあるが、「好条件が整えば」と言う但し書きが付くものがほとんどだ。そうでなければ、そもそもレベル制の意味自体がないのだから。
後ろを振り返り、門までの距離を改めて確認する。先ほど見たときよりかなり接近していたが、依然としてそれなりに距離がある。ざっとみて、200メートルほどか。走って逃げるには依然として厳しすぎる距離だ。
「ウガァ!!」
「くッ!」
隠しパラメータにスタミナでもあるのだろうか。わずかずつだが、身体の動きが鈍ってくる。爪をかわすのがだんだんと厳しくなってきた。予備動作を見て身体を動かそうとしても、足が素早く上がってくれない。まずいな、このままだと……! 焦りが脳内を急速に埋め尽くしていく。倒せる可能性もゼロ。逃げ切れる可能性もほぼゼロ。くそっ……!
「イタッ……!」
爪が左肩を掠めた。革の鎧が裂けて、鮮血が飛び散る。それほど深い傷ではないが、肉を持っていかれた。肩が焼けつき、ほとばしる痛みに思考が染まる。HPバーも二割ほど減少した。
「しまっ……!」
痛みでわずかに動きが鈍ってしまった。そんな俺の上に、無慈悲にも爪は振り下ろされる。脳天を狙って振り下ろされるそれは、間違いなく直撃コース。万事休すだ……! 世に言う走馬灯というやつなのか時の流れが緩慢になっていく。俺の頭上に向かって、ゆっくりゆっくりと爪が落ちてくる。
「死んで……たまるかよ……!」
刀を逆手に持つと、頭上に高々と突き出した。爪と刃がぶつかり合い、激しい火花が散る。身体に圧し掛かってくる圧倒的な重量。キロどころかトン単位であろうその圧力に、たちまち全身の関節が軋みを上げる。俺の生命力を示すHPバーは勢いよく減少を始め、あっという間にイエローゾーンに達した。
その時だった。
吸血狼の顔面で光が弾け、轟音が辺りに轟く。狼はやおらに俺から手を引くと、光が飛んできた方角を忌々しげに睨みつけた。
「逃げて! ダメージはほとんど入ってへんから!」
「わかった!」
声の主がどのような人物なのか、どこに立っているのかすらとっさにはわからなかった。だが俺は声の主の指示に素直に従うと、門を目がけてわき目も振らずに突進していく。後ろからはドンドンと爆発音が連続して聞こえ、時たま狼の咆哮も聞こえた。しかし、気にしては居られない。痛む身体をがむしゃらに酷使して、夜の草原を全力で突っ走る。
そうして三十秒ほど走り、一気に門をくぐり抜けた。体力を使い果たした俺は、その場で崩れ落ちるように横になる。街の中はモンスターが進入できず、またプレイヤーたちによるPKもすることができない安全地帯だ。ここまで来てしまえば安心。心の底から安堵した俺は、仰向けになりながら大きく息をつく。
「ふぅ~! 死ぬかと思ったで!」
しばらくすると、俺の耳に甲高い声が届いた。振り向くと、門の向こうから一人の少女が現れる。たぶん、俺と同年代ぐらいの子だろうか。亜麻色の髪を肩のあたりで切り揃えていて、その隙間から覗いて見える涙滴型の大きな瞳が美しい。全体として丸い顔立ちをしていて、どことなく猫を思わせる少女だ。
俺は身体を起こすと、すぐさま門柱に寄り掛かった少女の方へ走り寄った。彼女は少し驚いたような顔をしたが、俺の顔を思い出したのかすぐに納得したような表情となる。そんな彼女に俺はすぐさま頭を下げた。
「ありがとう! おかげで命拾いした」
「そんなにかしこまらんでも、困った時はお互い様や。それより、なしてあんな無茶したん? 吸血狼になんて、このレベルで勝てるわけないってわかってたやろ」
「それが、気が付いたら湧いてたんだよ」
少女は目を丸くした。彼女は俺の目をじっと見つめると、あらまと声を上げる。
「もしかして自分、正式サービス組なん?」
「そうだけど……何か?」
「へえ……ちょっとびっくりやね。吸血狼ってのはな、夜の一時間の間にニ十匹以上リトルボアを狩ることが出現条件や。今のこのゲームでそんなことやるなんて……初心者の所業やあらへんで?」
尋問するような目でこちらを見てくる少女。声も最後の方はドスが聞いていて、見た目に合わない迫力があった。俺は慌てて首を横に振る。
「間違いなく初心者だよ。ただ……気が付いたら大量に狩ってた」
「気が付いたらて、どこの危ない人や! ……まあええ、せいぜい今度からは気をつけや」
少女はそういうと柱から身体を起こし、ポーションをグイッと飲み干した。そうしてHPバーが回復したのを確認すると、彼女は俺に手を振りながら再び門をくぐろうとする。一人で遠ざかっていくその背中に、俺は急いで声をかけた。
「待った!」
「……なんや?」
「……君は一人なのか?」
「そうや。これでもクリアを目指しとるからな。他の連中みたいに……ちんたらやってるわけにはいかないんや」
そう言い放った少女の顔には、昏い険しさがあった。何かある。俺は直感的にそう感じ取った。どこか生き急いでいるような危うさが、彼女にはある。
「だったらさ……俺と組まないか?」
「アホ、初対面の人間なんていきなり信用できるわけないやろ!」
「PTを組んでればPKはできない。リトルボアならMPKもまず無理だ。それでも……駄目か?」
少女の額に皺が寄った。彼女は顎に手を当てると、大きなため息をつく。そして数十秒の間沈黙したのち、ぼそりと唇を開いた。
「わかった、今夜だけやで――」