プロローグ2 輪廻の大地へ
七月二十日、午前八時。
今日から仕事が忙しくなるということで、瑠衣姉さんはいつもよりも早めに会社へと出かけて行った。守秘義務があるとかで仕事の内容については詳しく教えてくれなかったが、今日からが正念場なのだとか。当然、帰りもかなり遅くなるそうで、しばらくは夕食も自分で用意するようにとのこと。料理上手な姉さんの作る夕飯が食べられないのは少し残念だが、家を空けてくれるのは好都合だ。これで文句を言われることなく、堂々と丸一日ゲームを楽しむことができる。
俺は朝からPCを立ち上げて、ネットサーフィンをしていた。COのサービス開始時刻は正午ピッタリだが、すでにネットの世界はお祭り騒ぎだ。ゲーム関連のあらゆる掲示板にCO関連のスレッドが乱立し、秒単位で発言が繰り返されている。個人のブログなどでもCO絡みの話題が頻出し、さながらネット全体が熱に浮かされたようになっていた。気の早い連中に至っては、カウントダウンスレなどという物まで準備してサービス開始を待つ始末だ。
こうして発信される情報の洪水に圧倒されつつも、俺はCO関連の有用な情報を徹底的に掻き集めていた。攻略wikiに始まり、個人運営の攻略サイトやβテスターのブログまで幅広い情報をできるだけ大量に読みこんでいく。MMOというのは、基本的に先行者が優位になるように設計されている。経験値稼ぎもそうであるし、生産に関してもそうだ。スタートダッシュをいかに掛けるかによって、今後の流れというのが相当程度決まってきてしまう。せっかく夏休みで時間があるのだから、最初ぐらいは上位を狙っていきたい。そう考えた俺はPCのエアディスプレイを食い入るように見つめていた。
「ふう、飯食うか」
午前十一時。
一通りの情報収集を終えた俺は、十二時のサービス開始に備えて食事をとることにした。PCの電源を落とすと、冷凍食品のチャーハンを引っ張り出して電子レンジに放り込む。三分ほどたってチンッという音がすると、微かにゴマ油の匂いがするパラパラチャーハンの出来上がりだ。最近の冷凍食品は良くできていて、下手な中華飯店のものよりおいしい。富士山型に盛られたそれをハフハフと息をしながら蓮華で掻き込んでいく。
皿がすっかり空になる頃には、ログインするのにちょうどいい時刻となっていた。俺は皿を流し台に片づけると、ソリッドセットの入った箱を戸棚の上から降ろす。封を開けると新品の機械製品独特の、焼けたゴムを思わせるような匂いが微かに鼻をついた。たっぷりと詰め込まれた梱包材を抜き取ると、いよいよ夢の機械がその姿を現す。
「かっこいい……!」
流れるような漆黒のライン。頭だけでなく延髄部までしっかりと覆い隠すそれは、フルフェースのヘルメットを思わせた。とてもスポーティーでスタイリッシュなデザインをしていて、特殊部隊の隊員などが被っていそうな雰囲気である。その滑らかなカーブを描く側面部分には、角張ったフォントで『SOLID TYPE-01』と記されている。
ベッドに腰掛けると、ゆっくりとそれを持ち上げてみる。すると、重厚感のある見た目に反して予想外に軽かった。金属部品が多用されていると思ったが、そういうわけではないらしい。俺は手を滑らせないように注意しつつも、ソリッドセットを頭の上まで持ち上げた。そして重力に任せて一気に首元まで下ろす。大きさは調度ぴったりだったようで、クッションのボフッという音とともに、俺の頭はすっかり黒い曲線に覆われた。低反発のパッドが何とも心地よく、早くも眠気を誘う。
「ソフトはもう入ってるのか。えーっと、あとはコンセントだけっと」
同梱版だけあって、COのソフトはすでにソリッドセットにダウンロード済みだった。ネット回線についても無線で専用の物を使うので、こちらで改めて細かい設定をする必要はない。最新のネット回線は通常の物でも1ペタ以上の速度が平気で出るが、さすがVRMMOだけあってそれでも通信量が足りないようだ。わざわざそれ専用の高速回線がきちんと用意されている。
ヘッドセットの首元に当たる部分に、電源プラグがあった。箱からかなり太めの電源ケーブルを取り出すと、片方をコンセントに差し込み、もう片方をプラグへと挿入する。すぐさま眼を覆う透明なシールドに光が灯り、『Set Up』の文字が現れた。最新機器だけあって非常に静かで、ファンの回転音など機械を立ち上げる時に特有の雑音は一切ない。
固定用のバンドを締めると、ヘッドセットがずれないように注意しながら横になる。シールド上を次々と文字が走り抜けて行った。やがて縦半分に割られた仮面とゴシック体のアナグラムからなるレギオン社のロゴがはじけて、紅い光のスペクトルへと還る。
『動作正常。続いてソフトウェアの起動に移ります。眼を閉じて起動するソフトウェアを選択してください』
瞼を下ろすと、一面真っ白の世界に文字だけが浮いていた。眼を閉じているのにはっきりと物が見える。しかしまったくおかしな感覚ではない。それどころか、意識をしていないと眼を閉じているのを忘れてしまうほどだ。これはCOの方にも、かなり期待が持てそうである。俺は高まっていた期待感をさらに高めつつ、目の前にたった一つだけ現れているCOの文字に視線を合わせた。
『Caelestis Online 、起動します』
何とも奇妙な感覚が俺を襲った。眠りに落ちるのとは全く別物の、非常に独特な感覚である。見えない手で魂をがっしりと掴まれ、そのままどこかへ連れていかれるような気分だ。分けてはならないものを無理やりに分けて、その片方を持ち去られるようで心が冷え冷えとする。体中をぞわぞわと戦慄が走り、非常に頼りなく恐ろしい気持ちになった。いったい何なんだろうか、この不快感は。この何とも形容しがたい虚無感は。
一瞬、このままゲームをやめてしまおうかとも思った。
しかしすぐに、空っぽになっていたはずの身体に重量感が戻ってくる。精神が肉体とはまた別の何かと合体して、そこで安定したようだ。不快感が消えて、俺は荒くなっていた息をゆっくりと戻す。やがて暗転していた世界が再び白に染まり、目の前に黄金色に輝く光の群れが現れる。粒子状の光は人型へ集合していき、その中から一人の女性が現れた。ゆったりとしたローブに身を包んだ、ギリシアの女神を思わせる金髪の美女だ。
「私は導く者。まずは輪廻の大陸におけるあなたの名前を教えてください」
どうやらゲームのチュートリアルが始まったらしい。俺は目の前に現れた半透明のキーボードでシュートと入力すると、ENTERを押す。
「シュートですね、了解しました。次はあなたの姿を教えてください」
顔をアップにした、3Dのマネキンのようなエディットが表示された。デフォルトとして現実の顔が既に反映されていて、さながら鏡でも見ているようである。俺はやや丸い顔の輪郭を少し細くして、インテリ然とした渋みのある顔を形作っていく。別にイケメンになりたかったというわけではないが、顔はある程度変えておいた方がいい。どうせ変えるのであれば、ブサイクよりはイケメンということだ。身体の方も筋肉量を増やし、現実より締まった肉体へと仕上げる。ちなみに、男性から女性への変更――いわゆるネカマということもできたが、さすがにそれはやらなかった。
「この姿でよろしいですね?」
「OK、問題ない」
「では最後に、あなたが進む二つの道を教えてください」
二つの道というのは、メインジョブとサブジョブのことのようだ。
COはレベル制とスキル制とジョブ制の三つをキャラクターの成長要素として採用している。レベル制はレベルアップを繰り返すことによってステータスが上昇し強くなると言うシステムで、ジョブ制は特定のジョブに就くことにより、それに合ったステータスやスキルを身につけられると言うシステムだ。スキル制は特定の条件を満たすと強力な技、つまりスキルを習得することができるというもので、その種類は無数にあると言われている。
メインジョブとサブジョブというのはジョブ制に関わるもので、メインとサブの二つのジョブを設定できるというものだ。基本的にはメインに戦闘系のジョブ、サブに生産系のジョブをつけることになっている。逆にメインに生産系のジョブをつけることも可能で、これをした場合そのプレイヤーはいわゆる職人と呼ばれる。俺は職人になるつもりはないので、メインはもちろん戦闘ジョブだ。
最初に選択できるジョブ、いわゆる初期ジョブは全部で十六。内訳は戦闘ジョブが八、生産ジョブが八だ。最近のMMOにしては少ないように思われるが、ここからスキルや職業の組み合わせなどによってドンドンと上位職が派生していくため、最終的には戦闘ジョブも生産ジョブも覚えきれないほどの数になるらしい。
ログインする以前から、俺は何のジョブに就くか決めていた。
攻略wikiを見た時にピンとくるジョブ編成があったのだ。
それはサムライと鍛冶職人。言わずもがな、サムライがメインの戦闘ジョブであり、鍛冶職人がサブの生産ジョブである。ようは『自分で鍛えた刀を使ってモンスターをバッサバッサ斬り倒す』というプレイがしたいと思ったのだ。まあ、よくありがちなプレイスタイルであるとは自分でも思うが、そこは自由度満点のスキル次第でどうにかなるだろう。それに、個々人がすべて違うプレイスタイルでなければならないということもあるまい。
「サムライと鍛冶職人ですね?」
「ああ」
「わかりました。では、いよいよ旅立ちです。あなたにシードの導きがあらんことを」
白い光が俺の視界を埋め尽くしていき、世界が反転した。こうして俺は輪廻の大地、すなわちCOの世界へと飛び立っていったのであった。