プロローグ 七月十九日
リビングへ行くと、瑠衣姉さんがテレビに向かって黙祷を捧げていた。
今年はいつになく静かだったので半ば忘れかけていたが、今日は七月十九日だ。
俺はパジャマをはだけると、右肩に深々と刻まれた紅い歯型に眼をやる。今なお消える気配が全くないこの傷は、あの日の俺の罪を象徴していた。
あれから八年。
当時八歳だった俺は十六歳になり、今年の春に無事に高校へ進学した。標準よりもやや偏差値の高い、名門とまではいかないまでもそれなりの進学校にだ。内面はどうあれ、今の俺は非行に走ることも引きこもることもなく平穏無事に暮らしている。世間も当時は上へ下への大騒ぎだったが、さすがに八年もたつとすっかり落ち着きを取り戻し、人々は何事もなく暮らしていた。時折、一部の自称良識者があの日のことを風化させるなと騒いだりするが、大多数の人間はきっと忘れてしまっているだろう。むしろ、もう忘れてしまってくれていた方がありがたい。
「おはよ! 今日は早起きしたから、おいしいものいっぱい作ったわよ」
俺がリビングに来たことに気づくと、瑠衣姉さんはテレビを消して素早くこちらに振り返った。その顔ははつらつとした笑みを浮かべていて、人懐っこい印象の大きな瞳が輝いている。どうやら、あの日の話題を避けてくれるらしい。瑠衣姉さんの配慮にこっそり感謝しつつ、俺はダイニングテーブルにつく。
香ばしいバターの香りを漂わせるトースト。ほこほこと湯気を立てるミルク多めのココア。それらに彩りを加える温野菜のサラダボウルに、カリッカリに焼かれたベーコンの乗ったハムエッグ。理想的なメニューの揃った朝食に、夜の間にスッカラカンになった腹が大きく鳴る。
「さすが瑠衣姉さん! 相変わらず料理上手だなぁ。伊達に独身を十年も続けてないね」
「一言多い! つか、あんたが居るから独身じゃないでしょ」
「じゃ、夫いない暦30年で」
「な、私はまだ二十九よ二十九! 三十路までにはあと十カ月も猶予があるんだから。そんなことばっかり言ってると、これあげないわよ!」
瑠衣姉さんはニッと笑うと、テーブルの下から小包を取り出した。バスケットボールがすっぽり入るほどのそれに「Caelestis Online」の文字が書かれているのを見た俺は、思わずあっと声を上げる。今、世界を何よりも騒がせている話題のゲームソフトにして、もっとも入手困難と言われるソフト。それの名がCaelestis Onlineなのだ。
俺は手にしていた箸を一旦置くと、その小包を自身の方へと引き寄せた。小包の品欄には間違いなく「Caelestis Online及びソリッドセットパック」の文字が書かれている。改めてそれを確認した俺は、すっと息を呑んだ。
「凄い! それどこで手に入れたんだよ!」
「ちょっと伝手があってさ。結構高かったんだから、大事にしなさいよ」
「もちろん! するする!」
皿に残っていたハムエッグとトーストの一かけを口に放り込み、ココアで流し込んだ。こうして横着にも食事を終えると、皿をどかし、箱を包んでいる無機質な白い包み紙を破る。すると中から深い青色をした段ボール箱が出てきた。そのつるりとした表面には、白いシルエットでゲームを象徴する七つの重なり合った大陸が描かれている。宙に浮かぶ大陸を古代遺跡を思わせる壮麗な塔で繋げたそのフォルムは印象的で、嫌が上にも気分を盛り立てた。
神経接続型仮想現実システム、通称DNPの第一号機が誕生したのは今から五年前のことだった。日本の某大学と企業の合同研究チームによって開発されたそれは、これまでの常識を打ち破る画期的に過ぎるもので、3Dテレビや立体映像の開発に躍起となっていたメーカーや業界を文字通りひっくり返した。しかしその後、数多の企業がその技術を利用したAV機器の開発に挑戦したが挫折。世界最大手と言われたシリコンバレーの雄ですら手に負えないと匙を投げた。こうしてDNPは、数十年後になってNHKの特番で語られるような類の夢の技術になってしまったか――と思われたニ年前。ある企業が革命的な成果を発表した。
その企業の名はレギオン。新進気鋭のIT系ベンチャー企業で、当時は会社の設立からたった七年しか経過していないという非常に若い組織だった。その歴史と実績のなさから当初は彼らがした衝撃的な発表――世界初となるDNP利用のコンシューマゲーム機の完成、およびそれを利用した大規模なネットワークゲーム、いわゆるMMORPGのサービスリリース――は疑いの目を持って迎えられた。しかし、度重なるプレス発表などにより徐々にその評価は変わっていき、去年の十一月に開始されたクローズドβテストによって決定的となった。
βテスター曰く――究極のゲーム。
ネットを中心として瞬く間に情報は全世界へと広がり、ゲーマーたちは熱狂した。ゲームの世界に入り込んで身体を動かすと言うのは彼らの前世紀からの夢であり、それが実現したとあれば飛びつかないわけがなかった。七万五千円という高額にもかかわらず、正式サービス版のソフトとゲーム機<ソリッドセット>の同梱パックには、販売数一万に対して三百万近い予約が殺到。予約の抽選がされた七月十七日のニュースでは、全国各地の神社が予約当選を祈願するゲーマーたちでいっぱいになったと言う珍事が報道された。
こうして生み出されたゲームこそがCaelestis Onlineこと、通称CO。
俺も少ない小遣いをやりくりして貯めた金で予約を入れたが、見事抽選に外れてしまった代物である。それがまさかこのような形で手に入るとは――瑠衣姉さん、マジでグッジョブ。どうやって手に入れたかは知らないけど、ほんとによくやってくれた。これから一生感謝するぜ!
段ボールを後生大事に抱え、頬ずりする俺。その様子に瑠衣姉さんは苦笑しながら、テレビの上に置かれたデジタル時計をぽんぽんと叩いた。それが指し示す時刻は午前八時十分。始業時間まであと……ニ十分しかない!
「い、行ってきます!」
「いってらっしゃい。車には気をつけるのよ?」
「わかってる!」
通学用のカバンを肩にかけ、取るものもとりあえず外に飛び出す。マンション十階の廊下から見える空はどこまでも青く、その下に広がる灰色の街並みはいつもと違って輝いて見えた。今年の夏休みはいつもと違う――俺はこの時、八年ぶりに長期休暇前独特の開放感と期待感を味わっていたのであった。