幽微グッドナイトメア
幽微グッドナイトメア
かつて、贅の限りを尽くして作られたであろう部屋にそれはいた。朽ちた暖炉の前の生地の敗れた椅子に座り、優雅に脚を組む。扉に背を向けて座るそれのかぶるシルクハットが訪問者の目に映った。部屋には蜘蛛の巣は無数にあったが、それの主は一匹たりともいなかい。
埃でくすんだ絨毯が訪問者の足の形にへこむと同時に、それは手を挙げた。
「やあ」
「…………」
「客は久しぶりだよ。だれも来なくなってしまったから」
口上など無用といわんばかりに、訪問者は絨毯を蹴り一気に間合いをつめ椅子の背に剣をつきたてる。絨毯から舞い上がった埃が空中に広がる前に剣は椅子に座るそれを貫いていた。それが一瞬びくりと痙攣するが、何事もなかったかのようにゆっくりと、抵抗する椅子の生地を刃で切り裂きながら立ち上がった。
「痛いなあ」
「……化け物め」
一歩飛び退き、思わず毒づいた訪問者の声は女のそれだ。
「ふふ……」
それは重力などまるで感じさせない身軽さで跳びあがり、彼女の後ろをとった。遅れることなく振り返った女は、それの胸から飛び出た剣の切っ先を正確に蹴りつける。それは衝撃に数歩よろめき、着ていた礼服は暴れた剣によって乱された。
「こんなものは要らない。返すよ」
追撃よりも早く、それは背に手をまわし突き立てられた剣を抜く。人では不可能な動きだ。ぞんざいな手つきで放り投げられた剣は、矢のような速度で女に迫った。反転し、背に衝突した剣は硬質な音をたててはじかれ、女はそのまま振り向きざまに背に隠されていた大斧を振るう。
唸り声をあげて振るわれた大斧に、それは舌打ちをして後ろへと距離をとった。
「女の子がそんな怖いもの持ってちゃダメだよ」
女は得物の間合いを生かして、部屋にある豪奢な調度品を叩き壊しながらそれに迫る。命中してもそれを殺すことができるかはわからないが、少なくとも動きを止めることはできるだろう。
「ははっ」
それは唐突に、落ちていた瓶を蹴り上げる。それは女の頭を狙う矢へと変わり、彼女はすんでのところでそれをかわした。
「これはいい。矢ならいくらでもある」
両断された机、大皿の欠片、引き裂かれた椅子、燭台。破壊された調度品は弾丸となり次々と女を襲った。そのすべてを避け、あるいは斧で捌く。それは遊戯に耽る童子のように笑っていた。
「ほらっ!」
「なっ……」
蹴りだされた薪が斧の柄で叩かれ、その瞬間灰が炸裂する。視界が奪われ吸い込んでしまった灰に女は激しく咳き込んだ。
「終わりかい?」
「なめるな!」
休みなく続く弾丸に、女は斧を投げつける。回転するそれは迫った調度品をすべて吹き飛ばしそれに迫った。
「うわあ」
間延びした声をあげ、それは大仰な動作で斧を避けた。斧は暖炉の上に突き刺さり、衝撃で震える。
「残念でし……」
「はァ!」
嘲うとしたそれの胸を、女が再び手にした剣が貫いた。
「……やられたなあ」
見上げたそれの顔は、凝り固められた美のようだった。シルクハットの目元から覗く千々に乱れた髪は気だるげな目元を妖美に彩り、蛇のような舌がよく似合う薄い唇は息を吐くたびに脳を蕩かすような甘く濃い香りを振りまいている。あたかも人であるが如くまとった礼服の胸に剣を突き立てられても平然としていなければ、彼は人そのものに見えただろう。
女は柄を握りなおし、さらに深々と剣を突き立てる。刃は新雪を踏み抜くように易々と体に埋まっていき、ついに彼の背後の壁に突き刺さった。
「ふ、はははは! 強い! 君は強いよ!」
「わたし、死に際に何かいう男は嫌いなの」
大声で笑う彼に、女は眉をひそめた。間違えなく急所を貫いたはずなのに、口元に薄笑いを浮かべている。女は腰に差したナイフに手を伸ばし、彼の胸に突き立てる。しかし彼は意にも介した様子もなく笑っていた。
「やあ、手を止めてお聞きなよ」
女は無視してナイフで彼の体をいたぶる。優雅な礼服があっという間に襤褸切れへと姿を変えた。
「君は強いさ。でも君みたいな美しくない女がそれほど強いことに、何の意味があるっていうんだい?」
肉を抉る音に混じって彼のことばが女に届いた。女は怒涛のような攻撃をピタリとやめ、突き刺さった斧を抜いた。
「刃に映った君の顔を見たことがあるかい? 美しさを伴なわない強さなんて……」
「さよなら」
話し続ける男の首を、斧が容赦なく刎ね飛ばした。
ふっと一息はいて、女は大斧を背負う。
胴体に背を向けて歩き出した女の正面に、くるくると空を舞った首が落ちた。シルクハットはどこかに落ちて、露になった赤い眼だけがなおもぬらりと輝いていた。
「邪魔よ」
蹴り飛ばそうとした彼女の脚が触れる前に、頭はとけるように消える。
女が舌打ちをして歩を進め、入ってきた扉の前に立った。そのときだった。
「終わったとおもっているかい?」
「っ!」
女が背の大斧に手をかけるよりもはやく、彼の手がそれを投げ飛ばした。身の丈ほどもある斧は細腕からは考えられないほどの力で放られ、天井に突き刺さる。
「君は本当に強いね」
即座にナイフで再び首を狙うも、上体をそらした彼にその刃は届かない。
「ぐっ……」
同時に繰り出された蹴りを避けきれず、わき腹をかばった右腕がいやな音を立ててへし折れた。斧と同じように女は吹き飛ばされ、木製の壁に穴をあけて隣室まで転がった。
立ち上がろうとするも視界がぐらつき、膝を突いてしまう。頭に手をやると、どろりと手に血がついた。
「惜しかったね」
「くそが……」
何もない大部屋のようだった。捻じ曲がった視界に彼の姿が映る。
「ここは舞踏会で使われていた部屋だよ。もっとも僕はそんなことしたことないけどね……おっと」
手にしていたナイフが投げつけられ、しかし彼はあっさりと刃を指でつまんで止めた。
「おとなしくしなよ。悪い子にはお仕置きだよ?」
顎を蹴られて地面に打ち倒され、さらに頭を踏みつけられる。声が漏れそうになるも、歯をかみ締めてこらえた。
「耐えるなあ」
踏みつけた足を抉るように動かすが、女はじっとこらえた。
「さっき、美しくないっていったとき、怒ってたよね? 自覚してたの?」
顔を近づけ耳打ちする彼に、女は左腕を振るう。あっさりと掴み取られ、そのまま捻りあげられた。
「やっぱりそうかあ」
うつぶせに転がされ、今度は背中を踏み抜かれた。息を切らせながらもぎろりとこちらを睨みつける女に、彼は微笑んだ。
「いいね。夢の世界にご招待」
彼が指を鳴らしたとたん、女の意識は闇に閉ざされた。
■
意識が戻った女はまず、武器を取り出そうとして自分の着ているものがいつものローブではなく質素な寝間着であるということに気づいた。腕もか細く繊細なものに変わっていて、座り込んでいた。あたりは目を閉じているようにさまざまな暗色が飛び交い、具体的な物質は存在しないかのように見える。
「やあ」
「おまえ!」
女がぐちゃぐちゃにした礼服は完全に修復され、いまや埃一つほつれ一つなかった。シルクハットをとり、芝居がかった動きで一礼する。
「ああ、無駄なことはやめなよ」
素手でも果敢に挑みかかろうとする女だったが、彼が指を鳴らしたとたん石で固められたように体が動かなくなった。
「なにをしたの! 服を返して! 元に戻して!」
「口もきけなくしてあげようか?」
女は唇を噛んで黙り込む。彼は満足気にうなずいた。
「ここはね、僕の世界だよ」
視線だけで殺そうとするように、女は目の前の男を睨みつける。彼はますますうれしそうに表情を崩した。
「ねえ、名前教えてよ」
「死ね」
「あはは。殺してみてよ」
「じゃあ解放してよ」
「お膳立てが必要なの?」
苛立ちだけが募った。暖簾に腕押しだ。まず、必要なのは情報だ。女は作戦を変える。
「ここはどこ?」
「さっきも言ったけど、僕の世界」
「どういうこと? わかるようにいって」
「教えてくださいっていわないと教えない」
「死ね」
「……必死さが足りないなあ」
彼は肩を竦めた。
どうしようかなあ。と呟いて、どこからともなく杖を取り出す。衣装とあわせて、どこかの奇術師のようだった。くるくると何もない空間を歩き、女の顔を見る。
「似合う?」
「……」
「なんかいってよ」
「……」
「あーあ。もういいや。またね」
体に力を込めなんとか動こうとする女を尻目に、彼は煙のように消えた。
何もない空間で、疲労も眠気も、それどころか空腹すら感じないまま時間が過ぎた。いくらもがこうが呪縛は一切の動作を許さず、出来ることといえば口を開いて一人自分に話かけることくらいだ。
「負けるな。ぜったいにやつを倒すんだ」
「ぜったいに殺す。のほうがいいか……うん」
「とりあえず、いまは耐えるの」
目を開いても閉じても変わらなかった空間に、ポンと空気が抜けるような音と共に彼が現れる。以前見たのと同じ服だ。
「やあ」
「……」
「前は言いそびれちゃってけど、ここは僕が作った、僕の空間だよ。分かりやすくいうと、僕の夢の中に君がいるんだ」
「わかりにくいわ」
「つまり、ここのものは君以外全部僕の思い通りってこと」
「そう」
「ねえ、今日は帽子を変えてみたんだけど、どう?」
「……」
彼の指先を目で追うと、変わらないと思っていたシルクハットは、たしかにピアノの鍵盤のようにところどころ白地が混じっていた。
「無視? でもちゃんと見てくれたよね。ありがとう」
「礼をいうくらいなら解放して」
「人になにか頼むときはなんていうの?」
「死ね」
「残念。じゃあね」
再びポンという音と共に彼の姿は消えた。
時間の感覚がない。指標となるものがないと、時の流れは永遠なんだということを強く自覚させる。二度目の登場から、彼はなかなか姿を見せなかった。自分のことが少しずつ思い出せなくなりそうな、すべてが消えてなくなってしまいそうな不安から、女は独り言が増えた。
「わたしはどうしてこうしてるんだっけ?」
「わたしは、あいつに捕らえられているの」
「どうしてあいつに捕らえられているの?」
「わからないけど、あいつのようなものを倒すのが仕事だった。つまり、魔物とかそういった類のことだけど」
「どうして今の仕事をしているんだっけ?」
「手っ取り早く稼げるから」
「そう。じゃあ帰ったらどうしたい?」
「……どうしようか」
「…………」
「家族はいたっけ?」
「いたわ。両親と妹。みんな死んじゃったけど」
「そうだったね」
「妹が死んだから、旅に出て、その先でこんな魔物に出会っちゃうなんてついてない」
「お墓までいって、妹に文句いわないとね」
「そうだね……」
「たまにはこういうのもいいわ」
「自分を見つめなおせるもの」
「武器は?」
「斧と剣と、ナイフがあったけど、今は丸腰」
「そういえば、あいつはどうして死ななかったんだろう」
「普段は首を取れば死ぬのに」
「なにが違うんだろう」
「どのくらいたったかしら?」
「さあ? たくさんじゃない?」
「どのくらいたくさん?」
「わからないわ」
「そう……」
「やあ」
「来たのね」
彼が現れた。女は視線をあげて彼の見つめた。目が覚めるような紅色だ。礼服は以前と変わらない。自分がまだ彼の礼服を記憶していたことに、女はほっとした。
彼は目の前まできた。地面のないこの場所で、どうして立っていられるか、女にはわからなかった。
「どうして?」
「うん?」
「わたしをここに留めて、どうしたいの?」
「ああ」
そのことか。と彼は手袋を嵌めた手を叩いた。
「魔物って、どういうものか知ってる?」
「悪意の集合体でしょ」
「うん、そうだね。もしくは未練でもいいかもしれない」
「……あなたの未練って?」
「お。僕に興味出てきた? 僕はね、下流貴族に生まれて、下流貴族に恋をして。でもほら、僕ってかっこいいでしょ? だから上流貴族の娘に目をつけられちゃって無理やり政略結婚。それでも好きだった子と隠れて会ってたら、彼女首をくくっちゃってさ。その後すぐに僕も病死」
昨日の晩御飯のメニューでも話すかのように、彼はいつもの軽い調子でいった。
「そう」
「うん、そうなんだよ」
「質問の答えに、なってないわ」
「あ、そうだったね。ごめんごめん。君はね、美しくないでしょ。僕って正確には僕と、僕の好きだった子の未練からできてるからさ、美しくない君に興味があるんだよね」
「ほかに、わたしみたいな子は来なかったの?」
「うん。ここにくるのは男ばっかりだったからね」
「そう……」
彼はうれしそうにステップを踏んだ。女は特に意識するわけでもなく、その動きを目で追った。
「君はどうして僕のところに来たの?」
「仕事よ」
「じゃあ、どうしてこの仕事をしているの?」
「お金が欲しかったの」
「なんで?」
「妹もね、貴族にもらわれていったの。だから、貴族から買い取ろうとおもってたの」
「ふうん。過去形? あきらめたの?」
「わたしがお金をためるよりはやく、妹が死んだの」
「そっか」
そうなんだ。なるほどね。彼はいくつか呟いてから、来たときと同じように唐突に消えた。
「話し込んでしまった」
「きっと自分に質問したせいね」
「これからはそういうの、やめなきゃ」
「……やめなきゃ」
「でもそうすると、どうやって話たらいいのかしら」
「どうしよう」
「わからない」
「…………」
「…………」
「…………」
「……もう、いや」
■
ポンと音をたてて、彼が現れた。
「ねえ」
「うん?」
彼がなにか言う前に、女は顔をあげないまま呼びかけた。
「もしかして今のわたしって、あなたの好きだった子の姿をしてるの?」
「そだよ。見てみる?」
女はこくりとうなずいた。女の体はもうすでに自由に動かすことができたが、あまりにも長く過ぎた時間はそのことを意識させることすら許さなかった。
「ほら」
女の視線の先に、目の前にいるはずの彼と、そして女とは比べ物にならないほど華奢で、どこにでもいそうな少女の姿が浮かび上がった。彼女と彼は手を取り合い、優雅に踊る。
「彼女は僕と会うたび複雑な表情だったよ。つりあわないってね。僕の結婚も祝福してくれた」
「どこが好きだったの?」
「さあ。逆に質問するけど、君は妹さんのどこが好きだったの?」
「さあ」
しばらく二人は口を閉じた。
「美しかったなら」
唐突に彼がいった。
「美しかったなら、彼女は僕とつりあった。つりあっていれば、命を絶つこともなかったんだ」
彼は両手をかかげ堂々と闊歩しながら、歌うように朗々といった。普段の軽薄さが嘘のように。女は思わず魅入られる。
「そして君も、美しければ自分が貴族に召し取られたのに。そうおもっているんだろう?」
「……ええ」
くるりと回転し、女の目線までしゃがみこむ。素直な返事がこぼれ出た。
「ほら、僕たち似てた」
うれしそうに、本当にうれしそうに彼はいった。まるで少年のように純粋に。
「そうね」
女もそれに同意した。特に意識することもなく足を崩した。
「そうかもしれない」
女は自分に聞かせるように反芻する。
「でも」
「うん」
しばらくぶりに、考えて話したかもしれない。女はおもった。
「ここでいることはなんにもならないわ」
「二人でいるだけで、しあわせになれるって、そうおもわない?」
「うん。ごめんなさい。わたしそうはおもわない」
「……彼女も、そういってた。二人で隠れて会うなんて、しあわせになれないって」
「そうなの」
彼はすっかり少年のようだった。なにもわからないように、女の言葉に首をかしげ頭をひねる。目を白黒させたまま、彼はいった。
「じゃあ、さよならしようか」
「うん。さようなら」
「さようなら」
女の意識が、ぷつりと途絶える。
■
「やあ、目が覚めた?」
「ええ」
女が身を起こすと、彼が声をかけた。見下ろした腕はもう夢で見た華奢なものではなく、鍛え上げられた武人のそれだった。指を曲げ伸ばしする。折られた右腕がジクジクと痛む。。
「怪我、治したけどまだ痛みはあるとおもう」
「そう」
ほら。と彼が天井に突き刺さっていたはずの斧を彼女に手渡した。彼の姿は、夢で見たときのように完璧なものだ。ずしりとした重みに安堵を覚える。
「どうもありがとう。でも、わたしがあなたを殺すとは考えないの?」
「君には殺されないよ」
「どうして?」
看破されていたことはとくに悔しいとも感じなかった。しかし理由は気になる。
「だって、僕の夢に入れたってことは、そういうことなんだよ」
「あなたの話って、わからないことばっかりね」
「君も魔物になってみればわかるさ」
肩をすくめた女に、彼は大きな声で笑った。彼女もつられて笑みをこぼした。
「そうかもしれない。でもわたし、もう魔物にはならないわ」
「もうってことは、やっぱりなりかけてたんだね」
「そうね。そうだとおもう」
「そうだよ。君は僕の世界に入ってきたんだから」
女のからだと同じ形にあいた壁の穴を通り抜け、彼がいた部屋にはいる。埃が舞い上がり、そして彼女によってめちゃくちゃに叩き壊されゴミになった調度品が目に入った。
「ねえ」
部屋の扉の前にたち、振り返らないで背後に立つ彼に聞いた。
「なんだい?」
「出してくれてよかったの?」
「ああ、うん。なんでだろうね。すごく満足なんだ」
「そうなの」
「うん」
「じゃあ、さよならだね」
「うん、さようなら」
女は部屋を出て歩く。
きっと、私は私を助けたんだよ。
廊下の突き当たりで、女は知らない少女の声を聞いた。振り返ると、開いたままの扉がある。そこにはもう、だれもいなかった。