第11章 LaunchMeeting 彩り御膳
第11章:金融という名の公的インフラ
霞が関の財務省主計局、その深夜のフロアには、プリンターの静かな稼働音だけが響いていた。
若手の財政官僚は、目の前に積み上げられた分厚い「一般会計予算書」の束を眺めながら、深い息をついた。
「世間の人々はな……」
背後から、金融政策を担当するベテランの室長が、コーヒーカップを片手に静かに声を投げかけた。
「国債の発行で集められた資金や税金といった『一般財源』といえば、道路をアスファルトで固めたり、コンクリートの防波堤を築いたり、あるいは高齢者の医療費を穴埋めしたりするような、目に見える『フィジカルな公共事業や福祉』にしか使われていないと思い込んでいる。だが、それは大きな誤解だ」
室長はデスクに歩み寄り、予算書の特定のページを指し示した。
「現実の国家財政の胃袋は、それだけでは終わらない。国債の調達資金という名の一般財源は、日本という国家の血流をコントロールする『極めて高度な金融系の行政サービスや、政策的な金融インフラの維持コスト』そのものとしても、巨額に、そして不可欠なものとして投じられているのだ」
一、市場の番人たちを支える血流:金融庁と監視のコスト
室長が最初に指し示したのは、霞が関のもう一つの要、金融庁の運営予算だった。
金融行政と市場監視のインフラ費用
「日本の金融市場の健全性と信頼性を守るため、金融機関に対する日々の厳しい検査・監督、インサイダー取引や相場操縦を取り締まる『証券取引等監視委員会』の活動、さらにはフィンテックの推進や消費者保護の法整備――これらを行う金融庁の職員の人件費や、膨大なシステム運用費などの運営コストの大部分は、国債発行による借入金を含む一般会計予算から堂々と支出されている」
金融の安全網という「公共財」
「道路や警察と同じだ。もし国が一般財源を使って金融市場のルールを守る番人を置かなければ、日本市場は一瞬にして詐欺師と投機狂の野蛮な賭場に成り果てる。金融の健全性そのものが、国家の一般財源によって支えられた究極の『公的インフラ』なのだ」
二、政策金融の魔術:日本政策金融公庫と「利子補給」のカラクリ
ページをめくると、次なる巨額の財政出動の項目が現れた。それが「政府系金融機関」を巡る資金のダイナミズムだった。
民間の狭間を埋める公的融資
「一般の民間銀行では、どれほど将来性があっても『担保がない』『実績が足りない』という理由でお金を借りにくい中小企業や小規模事業者、地方の農林漁業者、あるいは学び舎を求める学生や個人の教育ローン。そうした民間が見捨ざるを得ない領域を血肉の通った融資で支えるのが、『日本政策金融公庫』や『商工組合中央金庫』などの政府系金融機関だ」
利子補給金という名の国家のクッション
「ここで国債の資金がどう使われるか? 国はこれらの政府系金融機関に対して、単なる『出資金』を出すだけではない。大災害の発生時や、今回の歴史的な経済危機の局面において、融資の金利を極限まで低く抑えるために、国が民間銀行や公庫に対して『利子補給金(金利の差額分を国が税金や国債のキャッシュで穴埋めする費用)』を毎年度払い続けている。つまり、個人の事業主が低い金利で借り入れを行えているその裏側には、国債発行による財政負担という名の『目に見えない強力なクッション』が完璧に敷かれているのだ」
三、危機の防壁:ゼロゼロ融資と巨額の信用保証補填
さらに、記憶に新しいパンデミックの混乱期を振り返り、室長の声のトーンが一段と重くなった。
コロナ禍の「ゼロゼロ融資」の裏側
「記憶にあるだろう。あの未曾有のコロナ禍において、日本中の無数の中小企業を救うために実行された『実質無利子・無担保融資(いわゆるゼロゼロ融資)』だ。あれは民間金融機関が単独の優しさで貸し出していたわけではない」
国家による最終防衛線(損失補償)
「『万が一、その企業が破綻して借入金が焦げ付いたときは、国が信用保証協会や各種の特別基金を通じて、その大半を税金と国債の財源で代わりに弁済する』という、国家による巨大な信用保証の約束があったからこそ、民間銀行は巨額の融資を次々と実行できた。あの時動いた数兆円単位の財政補填や基金の積み立てこそ、国債の一般財源が国家の金融システムを崩壊から守るために全力で投入された歴史的証拠に他ならない」
四、NISAのインフラ:国家がデザインする資産形成の舞台裏
そして、現在日本中を席巻している「資産形成支援」の領域にも、見えない一般財源が深く食い込んでいた。
NISA制度を支える行政とシステムの裏側
「国民の資産形成を後押しする『NISA』や『iDeCo』という名前を、国民は毎日のように耳にしている。だが、あの非課税の神殿が、何もない空中に勝手にそびえ立っているとでも思っているのか?」
「国税庁や金融庁が構築・維持する複雑な税務・口座管理システムのネットワーク、証券会社との間でデータをやり取りする行政インフラの整備、さらには国民に対する金融リテラシーの啓発活動――そのすべては、国と地方の行政コスト、すなわち一般財源からまかなわれている。国は直接現金を配る代わりに、この『国家の金融・税制プラットフォーム』そのものを維持するために、巨額の一般財源を静かに、しかし継続的に注ぎ込み続けているのだ」
五、一般財源の本当の使命と、次なる回路への架け橋
若手官僚は、予算書のデータから顔を上げ、深い納得の表情を浮かべた。
「……なるほど。国債の一般財源は、単に道路や学校を作るための消耗品なんかではない。金融庁の市場監視から、政府系金融機関の利子補給、危機の信用保証、そしてNISAの制度インフラに至るまで、日本という国家の『金融システムの神経網と防衛網』を維持するための生命線として、完全にフル活用されているわけですね」
「そうだ」
室長は予算書を閉じ、深夜の静まり返ったフロアの窓の外を見据えた。
「一般会計という胃袋は、ただ浪費のためにキャッシュを溶かしているわけではない。それは国家の金融秩序を保ち、国民の経済活動の足場を支えるための、極めて高度な『公的金融インフラの維持装置』なのだ」
男たちの胸の内で、すべてのピースがカチリと音を立てて噛み合った。
表向きの一般財源が支えるこの「公的金融の神経網」と、水面下で蠢く住宅金融支援機構やデリバティブの回路が一つに結びついたとき、日本経済の構造を根底から書き換える「真の財政・金融アーキテクチャ」が、ついにその全貌を現そうとしていた。




