第3話 「味噌汁の温度」(拡張版)
第3話 「味噌汁の温度」(拡張版)
午後二時過ぎ。薄曇りの空の下、澪は灯台荘の縁側に座り、膝を抱えていた。
波の音が規則正しく寄せては返している。昨夜から今朝にかけての出来事が、まだ夢のように胸に残っていた。
海人は台所で、静かに昆布を水に漬けていた。
今日は出汁を丁寧に取る日だった。亡き妻・遥がよく作っていた「特別な味噌汁」の味を、ふと思い出したからだ。
遥は料理をするとき、いつも小さな鼻歌を歌っていた。
「急がないこと。味は待つ時間で決まるのよ」と笑いながら言うのが口癖だった。
海人はその言葉を胸に、昆布をゆっくり沈めていく。
「……少し、お話してもいいですか」
澪が台所に入ってきた。
海人は振り返らず、ゆっくり頷いた。
澪は古い木の椅子に腰を下ろし、指を絡めながら、途切れがちに話し始めた。
「……私は児童福祉施設で働いていました。
担当していた12歳の少年が、3ヶ月前に自ら命を絶って……
私がもっと話を聞いていれば、気づいていればって、毎日考えてしまって。
夜も眠れなくて、薬を飲んでも駄目で……
ただ、海が見たくなって、夜行バスに乗ったんです。
どこでもよかった。ただ、波の音に飲み込まれたかった。」
海人は味噌を溶きながら、静かに聞いていた。
言葉を返さなかった。
代わりに、熱い出汁を椀に注ぎ、味噌を丁寧に溶いていく。
その動作自体が、答えであるかのように。
「無理に話さなくていい」
海人はようやく、そう言った。
「ここでは、話したくなったら話せばいい。
話したくなかったら、黙っていてもいい。」
澪の目頭が熱くなった。
でも今度は、涙を堪えようとはしなかった。
一粒、ぽろりと落ちて、テーブルの木目に染み込んだ。
海人は焼き茄子を素揚げにし、生姜を刻み、今日の主役である味噌汁を二つの椀に静かに置いた。
出汁の香りが、部屋全体に優しく広がる。
二人はまた、ほとんど会話をせずに食卓を囲んだ。
澪は椀を両手で包み、一口含んだ。
……出汁の優しい旨味と、味噌の丸いコク。
どこか懐かしい、母親のような温度だった。
喉の奥が熱くなり、胸の固い塊が、また少し溶けた気がした。
海人は自分の椀を静かに傾けながら、ふと思い出した。
遥が最後に作った味噌汁も、こんな味だった。
娘が「今日のも一番おいしい!」と言って笑った顔。
あの日の朝の光が、脳裏に淡く浮かんで消えた。
食後、澪は海人に尋ねた。
「あの……この味噌汁の出汁、どうやって取ってるんですか?」
海人は珍しく、少しだけ言葉を増やした。
「昆布は一晩、水にゆっくり。
かつおは火を止めてから入れる。
急がないことだ。
味は、待つ時間で決まる……遥が、そう教えてくれた。」
澪は小さく微笑んだ。
初めて、この灯台荘で浮かんだ本物の微笑みだった。
夕方近く、もう一人の漂着者が来た。
若い女性・鈴木彩(28)。
疲れ果てた顔で、ほとんど言葉も出せずに震えていた。
海人はいつものように、無言でタオルと熱いほうじ茶を差し出した。
澪はその女性の震える肩を見ながら、独り言のように呟いた。
「ここは、潮が運んできた人を、ただ受け入れるだけ……なんだ。」
部屋に戻った澪は、海人が選んでくれた曲を流した。
Hammock - 「(Tonight) We Are The Ocean」
低く、包み込むような音が部屋に広がった。
窓の外では、灯台の回転光がゆっくりと海を照らし始めていた。
もうすぐ夜が来る。
また誰かが、雨に濡れてこの扉を叩くのかもしれない。
灯台荘の微かな光は、今日も静かに、変わらず灯り続けていた。
(第3話 完)




