第1話 「潮の音が運んできた人」
第1話 「潮の音が運んできた人」
第1話 「潮の音が運んできた人」(全文リライト版)
雨が、まるで世界の終わりを告げるように叩きつけていた。
高橋澪(31)は、夜行バスの最後の停留所で降りた瞬間、すでに限界だった。
所持金は二万円ちょっと。スマホの充電は切れかけ、靴の中はびしょ濡れ。
三ヶ月前、担当していた12歳の少年が施設の屋上から飛び降りた夜以来、彼女の心は完全に凍りついていた。
「私がもっと気づいていれば——」
その言葉が、毎晩のように喉を締め上げる。
薬を飲んでも眠れず、朝が来るのが怖かった。
もう、どこでもいい。ただ海が見たかった。波の音に飲み込まれて、全部消えてしまいたかった。
震える足で岬の急な道を上る。冷たい雨が頰を打ち、視界を歪める。
そのとき——
暗闇の先に、白い光がゆっくりと回転していた。
古びた灯台の回転光。
5秒ごとに、世界を一瞬だけ白く染め、闇に戻す。
その光が、廃れかけた灯台を改装した小さな宿の壁を、優しく撫でていた。
灯台荘。
澪は息を詰め、よろよろとその灯りへと向かった。
指先はすでに感覚を失いかけていた。
「ここで……死んでも、誰も困らない……」
そんな自棄の思いが、胸の奥で渦巻いていた。
重い木の扉を、震える拳で叩く。
一度。
二度。
「……一泊だけ……できますか」
声は、雨音にかき消されそうだった。
ドアがゆっくり開いた。
そこに立っていたのは、無口で寡黙な男——佐藤海人(54)。
彼は一言も発さず、奥から清潔なタオルを取り、湯気の立つほうじ茶のマグを差し出した。
熱が、凍えた指先に染み渡る。
澪の目尻が、熱くなった。
海人は静かに、けれどはっきりと告げた。
「飯はまだある。食ったら寝ろ。」
その瞬間、澪の胸の奥で——
長く固く閉ざされていた何かが、わずかに、軋む音を立てた。
海人は無言で台所へ戻り、残っていた炊き込みご飯を温め直した。
味噌汁は出汁を丁寧に。焼き魚は皮がカリッとするまで焼く。
特別なことは何もない、ただの日常の食事だった。
澪はテーブルに座り、湯気の立つ椀を両手で包んだ。
熱が、指の震えを少しだけ止めてくれる。
二人はほとんど言葉を交わさなかった。
箸の音と、遠くの波の音だけが響く。
澪の箸が、ふと止まった。
胸の奥で、何かが軋んだ。
少年の最後の言葉——「先生……僕、明日もここにいていい?」——が、脳裏に蘇る。
目頭が熱くなり、視界がぼやけた。
一粒の涙が、味噌汁の表面に落ちて、小さな波紋を広げた。
その瞬間、海人が静かに言った。
「無理に食わなくていい。残してもいい。」
その一言は、ただの気遣いではなかった。
澪の胸の奥深く、長い間固く閉ざされていた扉に、そっと指をかけ、わずかに開いたような気がした。
降り積もった雪が、初めて春の陽射しに触れて溶け出すような——
そんな、静かで、しかし確かな解放の感覚だった。
澪は唇を強く噛み、涙を堪えた。
海人はそれ以上何も言わず、自分の分を静かに食べ続けた。
ただ、その背中は、まるで「ここにいてもいい」と、静かに語りかけているようだった。
夜が更けた。
客室「波の間」に案内された澪は、古い木のドアをそっと閉めた。
部屋には柔らかい間接照明と、古びたスピーカーがあった。
海人が選んで流してくれた曲が、低く流れ始めていた。
Hammock - 「We Watched Our Houses Burn」
低く、包み込むような音が、部屋全体を優しく満たす。
窓の外では、灯台の回転光がゆっくりと部屋の壁を横切っていく。
5秒ごとに、白い光が天井を、ベッドを、澪の顔を、優しく撫でては消える。
澪は服も着替える気力がなく、そのままベッドに横になった。
湿った髪が枕を濡らすのも構わず、目を閉じた。
数ヶ月ぶりに、
「ここにいてもいい」
という感覚が、胸の奥に静かに灯った。
波の音が、遠くで繰り返し寄せては返す。
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音楽は、ゆっくりと上昇するような旋律を奏で始めていた。
まるで、暗い海の底から、ほのかに光が昇ってくるように。
深夜二時過ぎ。
機械室に戻った海人は、窓の外を眺めていた。
澪の部屋の灯りが、まだ小さくついている。
彼は小さく息を吐き、独り言のように呟いた。
「……また一人、潮が運んできたな。」
灯台の光は、静かに、
変わることなく、海を照らし続けていた。
(第1話 完)
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