降りてくる静寂
崩れかけた港。
目を向けるとところどころに
崩れたレンガや石、ガラスが散らばっていた。
異変から時は数日経っていた。
崩れた港には、深い蒼の旗が掲げられている
装飾の煌びやかな船が幾つも停泊していた。
帆が風に煽られ、バサリ、と荒々しくはためいている。
「……布告通り、こんなに輸送船がーー」
「子供だけ、ですか」
「妊婦も含めてだ」
「……それは」
「“次”がある前提で考えるな」
「今夜、出るーー」
「分かってます」
リグノの耳には、はっきりと大人たちの低い声と、
短い断片的な異質な会話が入ってきていた。
その中に紛れ、耳の遠くで、
低く規則的で一定すぎる音、
子供たちの泣き声、笑い声、はしゃぐ声。
全てが同時に混在し、鳴っていた。
リグノはその場にしゃがみ、耳を塞いだ。
しかしそれは、止むことなく響き続いている。
「……ッ……リグーー!」
「坊ちゃん……!!」
その声で、辺りは一瞬にして静けさを取り戻した。
石畳を蹴るヒールの音が近づき、
耳を塞ぎしゃがみ込むその幼児の前で
――音は、そこで止まった。
音が、戻らない。
さっきまで耳の奥で刺しいた低い振動も、
子供たちの泣き声も、
波と風がぶつかる荒いざわめきも――
すべて、遠くへ退いていた。
リグノは、まだしゃがんだまま、耳を塞いでいる。
その小さな肩に、影が落ちた。
冷たい風とは違う、
重くて、静かな気配。
石を踏む音が、ひとつ。
それは急がず、迷いもなく、
港の喧騒があったはずの場所を切り裂くように近づいてくる。
誰も、声を出さない。
誰も、動かない。
ただ、道が――
自然に、開いた。
「……ここにいたの」
低く、落ち着いた声。
その瞬間、
リグノの体から力が抜けた。
耳を塞ぐ指の隙間から、
知っている匂いがする。
冷たく、澄んでいて、
でも、どこかやさしい匂い。
「……坊ちゃん。」
別の声。
硬く、けれど確かに守るための声音。
リグノは、ゆっくりと顔を上げた。
視界の先に、
長い影と、黒い衣の裾。
そのさらに後ろに、
揃えられた足と、動かない視線。
大人たちは、皆、黙っている。
港は、沈黙していた。
リグノは理由を知らない。
ただ、
ーーもう大丈夫だ、とだけ思った。
小さく息を吸い、
耳から手を離す。
世界は、まだ呼吸を止めたようだった。
黒い衣の裾が、音もなく揺れた。
その人は、リグノの前で膝を折る。
高い位置から見下ろさない。
抱き上げもしない。
ただ、同じ高さまで、静かに降りてくる。
薄い氷色の瞳が、まっすぐにリグノを見る。
「……どうして、そんな所に一人でいたの」
声は低く、強くもない。
叱る調子でもない。
「心配したでしょう」
その一言だけで、
張りつめていたものが、すっとほどけた。
リグノは口を開こうとして、
でも、うまく声が出ない。
指先が、無意識にイゾルデの衣をつかむ。
それを見て、
イゾルデはほんの一瞬だけ、眉をゆるめた。
「……音が、嫌だったのね」
責めない。
否定しない。
答えを待たずに、理解する。
背後では、誰も動かない。
ヴィクトルも、アンニカも、近衛も、執事も。
この場で動いていいのは、
今は、彼女だけだと知っている。
イゾルデは、静かに腕を伸ばした。
「来なさい」
その言葉は命令ではなく、
帰る場所を示す合図だった。
リグノは、ためらいなく身を預ける。
抱き上げられた瞬間、世界の高さが変わる。
けれど、音は戻らない。
イゾルデがリグノを抱き上げたまま、動かない。
港に張りついた沈黙は、まだ解けない。
視線だけが、黒衣の一団と、その中心にいる幼子を彷徨っている。
その時だった。
ひとり、ゆっくりと前に出る影があった。
柔らかな色のドレス。
けれど足取りは迷いがなく、
立ち位置は自然と人々の視界に入る場所。
アンニカだった。
彼女はまず、微笑む。
それは誰かに向けたというより、場そのものに向けた微笑だった。
「……驚かせてしまって、ごめんなさいね」
声はよく通る。
けれど高くない。
港のざわめきに慣れた人間の耳に、ちょうどいい高さ。
「この子、少し音が苦手で」
イゾルデの腕の中で、
リグノはまだ静かに息をしている。
アンニカはそれを一瞥し、すぐに視線を港の人々へ戻した。
「もう大丈夫です」
そう言って、軽く頭を下げる。
それだけだった。
誰かを叱る言葉も、
命令も、理由の説明もない。
けれど——
張りつめていた肩が、いくつも落ちる。
誰かが咳払いをし、別の誰かが、そっと一歩下がる。
港は、ようやく息を取り戻す。
それは、静けさではなかった。
日常が、戻ってきただけだった。
小さな足音。
衣擦れ。
遠くの波。
アンニカは、それを確かめるように一度だけ周囲を見渡し、
何も言わずにイゾルデの隣へ戻った。
その背中を見送る庶民たちは、
ようやく理解する。
——この家は、
力で黙らせたのではない。
黙らせる必要がなかったのだと。




