知らないのに、知っている
どこか、安心する。
知っている匂いがした。
目を覚ますと、そこに広がるのは大きすぎる毛布。
終わりの見えない、白いシーツ。
上に視線を持っていくと、
そこには分厚いカーテンの隙間から、光が僅かに差していた。
知らない机。知らない扉。
だけど――匂いだけは、知っている気がした。
辺りをぼんやり眺めていると、
部屋の外から足音が近づいてくる。
音は静かに響いていた。
――コンコン
「……リグ、起きた?」
「……まま?」
「いいえ、ママじゃない。ごめんね?」
反射で、身体に残る毛布を握りしめた。
けれど、声は嫌ではない。むしろ安心した。
部屋にやってきた彼女の元へ近づきたくて、
広がるシーツの上を這い、側へ寄る。
「……まま、ぱぱ、にぃに…」
彼女、アンニカはそのたどたどしい声に、
胸が少し締め付けられた。
だけど、何も言わない。
代わりに、「寒くない?」と心配の言葉を添えた。
小さい彼は、小さく、「だいじょぶ」と一言だけ返すと、
ベッドの縁へなじり寄り、ベッドから降りようとした。
「降りる?手伝おうか?」
「いやだ……やる」
リグノは、そのまま足を下ろした。
足が床に触れると、ひやっとする。
けれど、構わず彼はよたよたと部屋を歩く。
気になるのは、部屋の隅に置かれたひとつの机。
椅子の座面にうっすらと被るホコリ、背もたれの一部が色褪せ、何度も手をかけたであろう跡が残る。
彼はたどり着くと、
ちょうど目線の高さの天板を眺め、一点を見つめた。
インクの匂いがする。
知っている。それは、記憶に残る父の匂いに似ていた。
机の端に積み上げてある紙の山に手を伸ばし、触る。
静かに見守っていたアンニカは近づき、ふと、
紙の山へと視線を移した。
そこには彼の両親、兄が残る、
“ノルディア領ルミナス国”の街の地図と、
政策の案の殴り書き。
幼いリグノには全くわからない内容だ。
安心できるかなと思い、そばに置いたぬいぐるみ。
遊ぶかなと思い、部屋に置いた複数のおもちゃ。
それには目を向けず、彼は机に興味が向かっていた。
その様子に、アンニカは、少し驚いた。
同時に、違和感も覚えた。
廊下から規則正しい足音が聞こえる。
音は静かに止まり、扉をノックする音が響いた。
「……坊っちゃま、アンニカ様。おはようございます。
お食事の支度が整いました――坊っちゃま?」
少し高さの残る声で、彼は言う。
抑えられているが、まだ若さを隠しきれていない響きだった。
そしてその姿は、
朝陽の差す時間でもきっちりと整えられていた。
「……フリーゼル、ありがとう。
なんだか、お義父様の机に興味あるみたいで。」
「では……お食事の時間、遅らせましょうか?」
「うーん……そうね、もう少し、自由にさせてもいいかしらね」
そういうと、フリーゼルは一礼し、その場を後にした。
紙をめくる音。何が書かれているかわからない図や文字。
だけど全てに興味が湧いた。
理由は自分でも、わからない。
先のやり取りの声に、リグノは遅れて気がついた。
誰かがいた。知っている声。
「……ふねの、おに…さん?」
「そう。一緒にいてくれたおにいさん。」
「……ごはん?」
「うん……食べに行こっか?」
「……うん、たべる!」
彼は、小さな手で持つ紙を机にそっと置き、
アンニカの元へ駆け寄ると、彼女はしゃがみ、
視線を合わせ微笑んだ。
静かに手を取り、二人で広すぎるその部屋を出た。
窓は高く、外は見えない。
けれど、朝の気配だけは、まだ確かにあった。
長い廊下を抜ける。そこは音がしない。
手を繋ぐ、温度だけはある。
一人だったら、少しそこは怖かったかもしれない。
時折、彼女が目を合わせ、小さい彼に笑顔を向けていた。
「ごはん。なにかな?」
「昨日より食べられるといいね」とか、
そんな話をしながら、段々と暖かさが近づいてきていた。
パンの焼けた匂いがする。
器のカチャリと鳴る音。カトラリーを掴む高い音。
部屋に入ると、匂い、音、
全てが同時に鼻をぬけ、耳に入ってきた。
「坊っちゃま、おはようございます。」
「……おはよ、ざます……」
みんなが頭を下げた。
なんでかは、今の小さい彼にはよくわからなかった。
だけど、この部屋はとてもあたたかかった。
部屋の奥から、大きな人影が一つ迫る。
足元から上へ視線を移すと、目が合った。
そのまま、声をかけられるかと思った。
しかし、影の主は、静かにしゃがみ、
表情を少しばかり柔らかく緩めたのだった。
「リグノ、おはよう。
昨日は船と知らないこの家と、疲れただろう。
………よく眠れたか?」
その声は低く、落ち着いた声だった。
同時に、どこか父の音と似ていて、
繋いでいたアンニカの手を離し、
声の主の元へよたよたと近づいてみる。
その姿に、男はそっと腕を開き、
近づいて来る小さな彼を受け止めた。
ふわりと、足が浮く。視点が、高く上がった。
「……ぱーぱ?」
この一言で、男は、少し心が痛む。
数日前まで、この子は父とも母とも朝を過ごしていたのだ。
離さざるを得ないこの状況が、少し憎い。
そう思うと、小さな体を受け止めていた腕に、力が入る。
僅かな力の変化に、
腕の中の彼は気づき男の顔をじっと見つめた。
「……パパに、似ているだろう?」
きょとんとしたリグノに、男の代わりにアンニカが続けた。
「リグ、この人はね……パパの弟。ヴィクトルおじ様」
「おじさ、ま?」
「ああ。リグノ、この家は自由にしていいからな」
その一言に、リグノは、叔父の襟をギュッと掴んだ。
少し高くなった景色が動く。
それでも上は、まだまだ高かった。
朝日に照らされたシャンデリアがキラキラと反射していた。
ふわりと身体が浮き、次に目に入ったのは湯気とパンと果物。
テーブルには白い食器やキャンドル、淡い色彩の花々。
知らないところなのに、そこに広がる装飾は家と同じだった。
「リグ、好きなの食べてね」
アンニカに言われ、大きな丸いパンに手を伸ばし、
一口かじる。
口をもぐもぐ動かすが、なかなかに食べづらく、
自然と、眉が寄る。
「……かたい。」
リグノの一言、表情に、アンニカとヴィクトルは目を合わせ、
自然と笑みがこぼれた。
「……すまない。リグノにはまだ早すぎたかもしれない。」
少し、リグノはムスッとした。




