第8話 ギャルと会話チートの初陣
翌日。 俺は「オープン・セサミ」という、鳴海こはるが所属するサークルの部室前に立っていた。
普段の俺なら、絶対に入らない空間だ。陽キャのオーラが、この廊下一帯に満ちている気がする。
『落ち着け、斗真。おまえはもう、昨日までのおまえではない』
胸ポケットの中で、ウォルフの声が静かに響く。
(わかってるけど、心臓が五月蠅い。なんでこんなとこで……)
『歪みを探せ。昨日より濃くなっているはずだ』
目を細めて部室の扉を見る。
わずかに開いた隙間から、楽しそうな笑い声と、彼女の明るいミルクティー色の髪がのぞいていた。
その扉の蝶番のあたり。空気が黒い“ノイズ”でざわついている。
昨日見たものより、明らかに濃い。
(まずい。相当ストレス溜まってるのか……?)
『会話をしろ。おまえには契約悪魔のスキル《インク・ブラッシュ》がある』
スキル名が、なんだかかっこいい。
しかし、そのチートが白木百合香限定で使えないことを思うと、胸の奥がチクリと痛む。
意を決して、ノックをする。
「あの、お邪魔します」
部室の中にいた数人の男女が、一斉にこちらを見た。視線が突き刺さる。
「あ、斗真じゃん。どうしたの?」
こはるが、手に持っていたチラシをまとめて立ち上がる。その顔に、一瞬だけ疲労の色が浮かんだのを見逃さなかった。
(どうする? 何を言えばいい? 「雄大に誘われて」? いや、それだと不自然だ。まずは……)
俺の頭の中は、いつもの非モテルーティン——「失敗回避」でフル回転している。
しかし、言葉は脳の指示とは関係なく、勝手に唇から滑り出した。
「明智から、部誌の印刷が間に合わないって聞いたんだ。俺、前にコンビニでバイトしてたから、データトラブルの解決とか印刷の効率化とか、ちょっと得意で。なんか手伝えることあるかなと思って」
あまりにもスムーズすぎる言葉だった。
情報ソース(雄大)を明確にしつつ、相手の抱える具体的な問題(部誌印刷)を指摘し、さらに自分の具体的なスキル(コンビニバイト経験)を提案する。
完璧な会話の導入だ。
俺自身が、一番驚いていた。
『……完璧だな』
ウォルフが満足げに笑う。
鳴海こはるも、一瞬だけ目を丸くした。
「え、マジ? やばい、超助かるんだけど! 今、マジでデータがグチャグチャでさー。手伝ってくれるの? ありがとー!」
彼女はパーッと表情を明るくして、俺の腕を掴んだ。
近い。
体温もテンションも、全部近い。
「ちょっと見てくれる? なんかさ、このファイルが、レイアウト崩れまくってて!」
「あー、それ、たぶんフォント埋め込みの問題だね。……ちょっと貸して」
俺は、自然な動作で彼女のスマホを受け取り、慣れた手つきで設定画面を開いた。
指先が動くたびに、脳裏に手順が浮かぶ。これも《インク・ブラッシュ》の補助か。
この一連の流れで、部室のドア周りのノイズが、目に見えて薄くなる。
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対象:鳴海こはる
歪みレベル:2 → 1.8(低下)
共鳴値+0.4 → 0.4
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(一気に0.4……地味子とは違うな、このスピード)
『当たり前だ。この娘は感情の起伏が大きい。そして、おまえのチートは「相手が助けを求めていること」に対して最適な解を出す。相性がいい』
「すごい、直った! 斗真、やるじゃん!」
こはるが感嘆の声を上げる。
「いや、まあ、慣れだから。こういう細かい作業は得意で」
再び、俺の口から出てくる言葉は、謙遜と自信が絶妙にブレンドされた「正解」の返事だ。
会話が弾み、彼女が部誌の企画について熱心に語り始めた、そのときだった。
部室の扉が、そっと開く。
「あの、ごめんなさい。これ、文学サークルに返し忘れてた本で……」
聞き慣れた、少し控えめな声。 白木百合香が、分厚い洋書を抱えて立っていた。
その瞬間、全身の血液が逆流するような、奇妙な感覚に襲われた。
頭の中に響いていたウォルフの声も、《インク・ブラッシュ》の滑らかな思考も、一瞬で凍結する。
俺は、今、白木さんのことを「推し」に似ている、大切な子だと思っている。
チート能力を使えない、元の非モテの状態で、彼女に何を言うべきか。
(白木さん。えっと、なんでここに? あ、本、返却?)
脳内で焦燥したメッセージが飛び交う。
いつもなら、水谷さんの時のように「あ、白木さん、お疲れ」くらいは言える。
だが、今は違う。
「あ、し、白木さ、い、る!?」
俺の口から出たのは、完全に意味不明な、情けない単語の羅列だった。「いる」ってなんだ。「いる」は。
白木さんは目を丸くし、こはるも怪訝な表情でこちらを見ている。
「え、斗真? どうしたの? 急に?」
「……えっと、斗真くん?」
白木さんが不安そうに尋ねる。
適切な言葉は、見つからない。 感情の機微を読む能力は、完全に凍結している。
俺はただ、顔を真っ赤にして、彼女に背を向けた。
「いや、ごめんなさい。俺、ちょっと、その、頭痛が……じゃ、また後で!」
文字通り、その場から逃げ出した。
部室の廊下を全力で走りながら、胸ポケットの中で、ウォルフが冷酷な声で囁いた。
『ようこそ、代償の地獄へ。このチートが有効な限り、おまえは白木百合香の前では永遠に“恋愛スキル:0”だ』
手に入れたのは、ギャルと会話できる最高の一手。
失ったのは、本命の前に立つための最低限の勇気と、会話の権利。
俺の契約したチート悪魔スキルは、想像を絶する形で、その矛盾を突きつけてきた。




