第4話 はじめての共鳴値《レゾ》
黒いノイズみたいな“あれ”は、まだ足もとにまとわりついていた。
教室の前の廊下。壁にもたれてプリントをじっと見つめている、地味めな女の子。
その足首のあたりだけ、空気がノイズ混じりに揺れている。
(……やっぱり、見間違いじゃないよな)
『見間違いならどれだけ楽か』
胸ポケットの中から、低い声がした。
スマホケースの下に押し込んでいる、あの狼のぬいぐるみ。
姿はただのマスコットなのに、声だけははっきり聞こえる。
『あれが“歪み”だ。放っておけば、向こう側の何かが顔を出す』
(いきなりボス戦はやめてくれって言わなかったっけ)
『だからだ。歪みをでかくする前に、元から断つ。原因の感情をほぐせ』
(……そのために、話しかけろって?)
『そうだ。クエストの達成条件を読み直してみろ』
視界の端に、薄いウィンドウがポップする。
【初級クエスト:共鳴値を1.0以上にせよ/期限:7日】
【ヒント:まずは一人、“話せる相手”を増やせ】
わかりやすいようで、全然わかりたくない条件だ。
(話せる相手って、そんな簡単に増えるなら苦労してないんだけど)
『おまえはな、生まれてから今まで「失敗したくない」でブレーキ踏みっぱなしだっただけだ。そろそろアクセルに触れろ』
(車持ってないけどな)
『比喩だ。行け』
強引に背中を押される形になり、俺は深呼吸をひとつした。
女の子はショートボブに地味めのカーディガン。
教室で何度か見たことはある。
同じゼミの――たしか、水谷さん。
今まで「同じ空間にいるだけの人」だった存在まで、急に輪郭が濃くなる。
「……あの、水谷さん」
声をかけた瞬間、足もとのノイズが、ぴくりと揺れた。
彼女が顔を上げる。大きめの黒縁メガネの奥で、目がかすかに驚いている。
「えっと、同じゼミの、斗真だけど。プリント、それ、次の課題の?」
「あ……うん。そう」
水谷さんは、慌ててプリントを胸の前でまとめた。
「なんか、難しそうだったから……見てただけ」
「だよな。俺もさっき、配られた瞬間に心折れかけた」
つい本音が出る。彼女の口元が、少しだけ緩んだ。
「……苦手?」
「レポート一本勝負より、まだテストのほうがましっていうか」
「わかる。それ、すごくわかる」
小さく笑った瞬間、足もとのノイズがほんの少し薄くなった気がした。
同時に、視界の端で数字がぴこっと跳ねる。
【共鳴値+0.1】
(……今の、で?)
『当たり前だろう。共鳴値は“いい感じの時間”から生まれる。今、おまえと彼女の会話に、小さな共鳴が走った。それだけだ』
(たった0.1で?)
『たった、じゃない。ゼロから0.1は、大きな一歩だ』
ウォルフの声に、少しだけ胸が軽くなる。
「レポート、やばいよね」
水谷さんが視線を落とした。
「前のもギリギリだったし……バイトもあるし、グループワークとか、うまく喋れないし」
言いながら、足もとのノイズがまたじわりと濃くなる。
『ほらな。ストレスの温床だ』
(だからって急に全部解決なんてできないぞ)
『全部じゃなくていい。“一個だけ”減らせ』
そんなことを言われても、俺はカウンセラーでも何でもない。ただの非モテ大学生だ。
それでも、口は勝手に動いた。
「よかったらさ、図書館で一緒にやらない?」
「え?」
「レポート。俺も一人で悩んでると余計に進まなそうだから。参考文献とか共有できたほうが楽だしさ」
自分でも驚くくらい、スムーズに言葉が出た。
水谷さんは目を瞬かせて、それから、もじもじと指先をいじる。
「……迷惑じゃない?」
「むしろ俺が助けてほしいレベルなんだけど」
正直な気持ちをそのまま添える。彼女の表情が、ようやくふっと和らいだ。
「じゃあ……今日の四限終わりとか、どう?」
「大丈夫。図書館の二階の、窓側の席、空いてると思う」
「わかった。行く」
その瞬間、足もとのノイズが、目に見えて薄くなった。
【共鳴値+0.2】
【歪みレベル:低下】
小さなウィンドウが、俺だけに見える位置に浮かぶ。
(……ほんとに、ちょっと軽くなってる)
水谷さんの肩の力も、さっきより抜けているように見えた。
「じゃあ、あとで」
「うん。斗真くん、ありがと」
名前を呼ばれて、心臓が一段だけ跳ねる。
彼女が教室に入っていくと、そこに残っていたノイズはほとんど消えていた。
床も壁も、さっきまでと同じはずなのに、空気だけ少し澄んだ気がする。
『……上出来だな』
ウォルフの声が、いつもよりほんの少しだけ柔らかかった。
『歪みは、感情の行き場がなくなったときに出る。今みたいに、誰かと繋がることで少しマシになるなら、それでいい』
(こんなので、本当に守れるのかよ)
『最初の一歩にしては上出来だと言っている』
視界の端を、さっきの数字がちらつく。
【共鳴値:0.3/必要量:1.0】
(……まだ、三割)
遠いような、でもゼロじゃないと思える距離。
「……よし」
小さく息を吐いて、俺も教室の扉に手をかけた。
好きな子を守るために、まず別の誰かとレポートをする。
やってることは地味だけど、さっきと同じ廊下が、ほんの少しだけ違って見えた。




