シャドウ・トーク
矢吹は腕時計に一瞥をくれ、手元の資料を静かに閉じた。
マティアスは、その動作を目の端で捉えると、わずかに笑みを浮かべる。
「時間を気にしているようだが……急ぐ用でも?」
「逆です。あなたの口ぶりがようやく“本題に入る気になった”と感じただけです」
矢吹は低く返す。英語でのやり取りではあるが、緊張と皮肉がどちらの言葉にも絶妙に混じっていた。
「では訊きます。あなたがこの国に亡命を希望した理由を、改めてお聞かせ願えますか。政治的迫害ですか?それとも――」
「――取引です」
マティアスは、迷いなく言った。
「私は自分の命と引き換えに、“ある情報”を売りに来た。あなた方にとって、十分に価値のある情報です」
「たとえば?」
「“プロジェクト・ヤグリェン”の全構造」
矢吹の指先がわずかに止まった。マティアスは続ける。
「我が国の軍事諜報部門が開発中の、人工知能型戦術予測システム。情報収集だけでなく、対外工作、世論操作、暗殺のオペレーションプランまでを自動生成する……あなた方が最も嫌うタイプの“静かな兵器”です」
「開発中に過ぎないのなら、脅威ではない」
「それを完成間近と呼ぶ国もある。実地試験も行われた。十七ヶ月前、南部戦線で――五百名の兵士の命を使ってね」
矢吹の表情が動いた。眉がわずかに寄る。
「その詳細を?」
「暗号化された設計図の断片と、使用ログの一部を携行しています。手元の端末にある。機密レベルを考慮して、あなた方の施設で解読した方がいいだろう」
矢吹は数秒黙った。
マティアスが椅子の背に体を預ける。
「なぜ、今、その情報を持ち出した?」
「ヤグリェンは自律進化する構造を持っている。つまり、私の手を離れても、学習と最適化を繰り返しながら“効率の良い破壊”を設計するんだ。今止めなければ、取り返しのつかない状況になる」
「開発に関わった人間が、それに“今さら”気づいたと?」
「だからこそ、私はもう軍にいない。おかしいとは思いながら目をつむっていたが、ある日を境に、そのツケがやってきた。私の友人――マカロフ将軍が粛清された日だ」
矢吹は目を伏せ、再び資料を開きながら言った。
「……正義感というには、動機が弱い。死の恐怖が動かした、というのが本音では?」
「その通りだ。私は生き延びたい。そのために日本を選んだ」
「なぜ日本なのか」
「西側諸国の中でも、政治的影響力が限定的で、かつ高度な技術分析力を持つ。私が持つ情報を過剰に政治利用することもなく、埋もれさせることもないだろう。……それに、ある人物に言われた。“東の島国なら、まだ真っ当な判断ができる”と」
矢吹は小さく息を吐いた。
「その“人物”の名前は?」
マティアスは一瞬だけ逡巡した。だが、すぐに微笑する。
「それは……取引成立の後に教えよう」
「あなたの素性が本物である保証は、まだこちらには何一つない。あなたが“ネメチュク中佐”だという確証すら」
「だからこそ、ここに来た。身体検査でも、声紋照合でも何でもすればいい。ただ――情報を扱うのは、慎重にしてほしい」
矢吹は無言で立ち上がった。
机に置かれたファイルをひとつ叩くように指で示し、言う。
「我々が得たいのは、“断片”ではなく、“全体像”です。あなたが持ち込んだ情報が本物であれば、保護も交渉も現実になる。しかし、少しでも虚偽が含まれていれば――」
「私は、裏切り者です。わかっています」
マティアスの声は低かったが、動揺は見せなかった。
「しかし、裏切る相手は選んだつもりだ。今さら正義を語る気はないが、後悔を最小限にしたいだけです」
矢吹は目を細めた。
言葉ではない何か――この男が持ち込んだ“闇”の匂いを嗅ぎ取るように。
「――あなたを信じる理由は、まだ見つかっていません」
マティアスはゆっくりと頷いた。
「それでも、あなたが来てくれたことが、私にとっての“第一手”だった」
沈黙が落ちる。
コンクリートの壁が、無言のまま二人の言葉を吸い込んでいった。
(続く)




