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ファースト・ムーブ

 簡素な防音室に設えられた応接スペース。

 コンクリート剥き出しの壁に金属製の机と椅子が一組ずつ。壁際には監視カメラが一つ、無言で赤いランプを点滅させている。


 その部屋の中央に、マティアス・ネメチュク――元ヴェルカスタン陸軍中佐が静かに座っていた。軍人らしい背筋の通った姿勢。手は机の上で組まれているが、指先には落ち着きのなさが滲んでいた。


 扉が静かに開く。矢吹蒼一が入ってくる。


 灰色のスーツに身を包み、資料ファイルを一冊抱えた矢吹は、扉を閉めると無言のまま歩を進めた。

 二人の間に流れるのは、数秒間の張り詰めた沈黙。


 マティアスの鋭い視線が、まず矢吹の歩幅、肩の張り、目の動きを観察する。

 矢吹もまた、相手の筋肉の張りや肩の位置、顔の陰影に視線を走らせながら、机の対面に腰を下ろす。


 一言目を発したのは、矢吹だった。


「マティアス・ネメチュク中佐、ですね」


 流暢な発音と落ち着いた口調の英語で、そう語りかける。

 だが、その発話の直後――矢吹は改めて日本語で言い直した。


「――マティアス中佐、こちらに来ていただいて感謝します」


 英語は、相手への最低限の礼儀だった。異国で尋問に近い扱いを受ける者に対して、まず母語で安心させる。それが矢吹のやり方だ。

 一方、日本語での応対には、別の意味がある。

“ここは日本の主権下にある”という、言葉にならない宣言だ。


 マティアスは目を細め、少し首を傾げた。


「その英語……かなり鍛えていますね。軍の方ですか?」


「こちらが質問する側です」


 矢吹は淡々とした口調で返す。表情の揺れはない。


「あなたは、自国の防衛機密に関わる情報を保持していると申告しました。その内容について、これからいくつか確認させていただきます」


 マティアスは軽く肩をすくめた。


「もちろん。私は真実だけを語ります。嘘をついても仕方がない」


 その口調もまた、英語としては滑らかだったが――ほんの微かに、ある種の「舞台演技」に似た抑揚があった。


 矢吹は資料を開いたまま、相手の目を見据える。


「ではまず、あなたが最後にヴェルカスタン軍に接触したのは、いつですか?」


 応答の間合いが、わずかに長い。マティアスは表情を変えずに口を開いた。


「三ヶ月前。旧友の葬儀で、かつての同僚数名と顔を合わせました。ただし、それ以降は一切の軍関係者と接触していません」


 矢吹の視線が、一瞬だけファイルからマティアスの手の動きへと逸れた。


「――その“旧友”とは、どなたですか?」


「……元少将のユーリ・マカロフです」


 矢吹の眉がわずかに動いた。


「粛清対象となった人物ですね」


「そうです。あの国では、正直者は長生きできない」


 マティアスは口元にわずかな皮肉を浮かべた。


 矢吹は黙したまま、次の質問に移る。ファイルを閉じ、まっすぐ相手の目を見る。


「ひとつ、はっきりさせておきましょう。あなたが提供する情報――それが、我々の国家安全保障にとって真に価値あるものであるか。その一点に尽きます」


 マティアスは瞬きを一度だけしてから、ゆっくりと頷いた。


「その覚悟で、来ていますよ」


 ふたりの視線が交錯する。

 その空間にあるのは、言葉以上に――互いの「裏」を読む静かな攻防だった。


(続く)

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