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ラビット・ティル・ゴーン

 薄曇りの夕暮れがゼロ隊本部の窓を淡く染めていた。

 戦術分析室の静寂は、長く続いた緊張の名残をそのまま抱えている。

 矢吹蒼一は、無言で机の上の資料をじっと見つめていた。


 彼の手元には、マティアスの事情聴取記録。

 言葉少なに吐かれた「ミナト」の正体、そして不穏な声の痕跡。

 暗殺された亡命者の映像と、彼の無念が胸に重くのしかかる。


「──これが、結末か」

 矢吹の呟きは自分だけに届く声だった。


 かつて彼自身が練り上げた狙撃の計算。

 万全の警備網をかいくぐった一発。

 その瞬間を見つめた視線の重さと、裏切りの影。


「俺たちは、何を守れて何を失ったのか」


 戦場はいつも残酷だ。

 だが今回の標的は、同じ国に暮らす人間だった。

 それは単なる戦いではなく、倫理の境界線を揺るがす出来事だった。


 隊の幹部が口にした「解体論」は、表には出せぬ囁き。

 ゼロ隊の存在意義を問われる暗い噂。

 しかし矢吹は知っている。

 この組織がいかに重要で、いかに危うい綱渡りを続けているかを。


 だがそれでも──

「マティアスが掴んだ情報は、俺たちに未来へのヒントをくれた」


“ミナト”こと蓮見水奈。

 彼女の失踪、封印、そして再び動き始めた影。

 それらは未だ終わっていない。


 彼はそっと資料を閉じた。

 沈黙の中、窓外の空が茜色に染まり始めている。


 *


 ゼロ分隊本部。夜。

 警備フロアの一角で、スクリーンが淡く光を放っていた。検証班が次々と報告を上げてくる中、矢吹は壁にもたれたまま、その映像を黙って見つめていた。


「この“点検モード”。本来は外部から操作不能なはずだったんだ。だが今回は、警報信号に反応してシャッターが開いた。しかも……“例外設定”の解除が一時的に行われていた」


 沢渡が静かに言葉を繋ぐ。


「犯人は、リフトと排熱シャッターの“同軸スリット”を正確に把握していた。だが問題はそこじゃない。――誰かが、セキュリティそのものを“いじっていた”ってことだ」


 矢吹が顔を上げる。

 資料画面には、設計当初から存在した排熱ルートと、旧搬送シャフトの並列構造。そこにピンポイントで重なる射線。


「映像記録、入退室履歴、制御室の操作ログ――全部“跡形もなく”消されてる。復元試行も試したが、痕跡すらない。……まるで、最初から誰もいなかったようにね」


 篠原が声を落とす。


「これ、もはや内部の知識があるとかいう次元じゃない。セキュリティレベルそのものを熟知し、なおかつ痕跡を一切残さずに“帳尻を合わせて消す”。鮮やかよ。プロ中のプロだわ」


「単なる技術屋じゃないな」と真鍋が低く言う。


「必要な瞬間だけ情報を操作し、即座に消去して逃げ切る。電子上の“死角”を作って、ほんの2秒間だけ狙撃ルートを開通させた。つまりこれは……」


「狙撃手のために作られた“舞台装置”だ」と、矢吹が言った。


 室内が一瞬だけ静まる。


 誰もが口に出さずとも、その“協力者”の正体に思い至っていた。だが名は出さない。

 矢吹はじっと、スクリーンの上で開いたままの仮想構造図を見つめていた。

 閉じられたシャッター、取り外されていた遮蔽板、復元された射線。


 マティアスの死は、狙撃によるものだった。だが――彼が「なぜ撃たれたのか」。それは、彼の口から語られた“情報の内容”だけでなく、それを知り得た“何者か”の意志が作用していた。


 彼の遺した断片が、誰かを動かした。その事実が重くのしかかっていた。


           *


 その夜、東京湾近郊――荒天の予報が出ている海辺。

 誰もいない工業地帯の一隅、潮風に吹かれながら、一人の男が倉庫の壁にもたれていた。


 左足を少し引きずりながら歩き出す。

 濡れたアスファルトに、引き摺られた足跡が残る。

 深くかぶったフードの下から見える頬には、細く裂けたような切り傷の痕。夜風に当たると赤く浮き出て見える。


 無言のまま、彼は懐からスリムなパスポートケースを取り出し、中を一瞥する。

 その中に偽造IDと小額の通貨、そして折り畳まれた写真が一枚――くしゃくしゃになった、部隊の訓練風景。今は消えた“パープル・ラビッツ”のエンブレムが辛うじて判別できる。


 男はその写真を見つめる時間さえ惜しむように、再び足を引きずりながらコンテナ群の奥へと消えていく。

 冷たい風が彼の足跡をなぞる。


「……そっちはマニラだ。ここからは船便だが、途中で人は替える」


 闇の中から声がしたが、男はやはり何も返さなかった。

 荷台に跳ね上がり、彼は中に潜り込む。

 かすかに響くエンジン音。船の甲板がきしむ。無線も、通信もない。


 ただ静かに、影だけが国を離れていく。


 誰にも、その名を知られることなく。

 だが、その痕跡は確かに、ゼロ隊の“黒い履歴”として、深く刻まれたままだった。


(終わり)

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