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花束  作者: 辰井圭斗
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ハテナシ

この瞬間血の一滴、涙の一滴も流さない私の心情は分かってもらわなければならないのです。

夕暮れの電車の中人はいません。窓の外には大きな河が見えて、水面がオレンジの光を反射しています。河にかかる橋の鉄骨が電車の中にまで影を伸ばして横向きの赤い座席に座る私の身体を次々に横切っていきます。河の下流の方で太陽が最後の輝きを見せています。あれは沈みません。ずっと沈みません。この電車が河を渡り切ることが無いのと同様に。

所在なく、私は立ち上がって別の車両に移動しようと、そうすれば他に人がいるかもしれないと、車両同士を繋ぐ扉に手をかけて左から右へスライドさせて――

病院にいました。閉鎖病棟です。白い壁の続く長い廊下のその先に白い長机が置いてあって、そこには患者のマグカップがいくつも置いてありました。でも持ち主たちは一人もいませんでした。隣にナースステーションがあるので覗いてみましたが、その中にも誰もいませんでした。

白い長机と椅子と色とりどりのプラスチック製のマグカップを呆然と眺める私のズボンのポケットが振動しました。スマホにメッセージが届いていました。

『あなたのことずっと応援しています』

雪が降っていました。私の実家の近くの公園です。雪とその下の枯葉を踏みしめて線路を渡ります。そして広場に出て、誰もいないその雪原で私は立ち尽くしました。手がかじかんで、どうも生きているらしいことは分かりました。

手にナイフを持っていました。この私の日々を終わらせる一つの手段でした。けれど手が動きませんでした。血の一滴も涙の一滴も流れませんでした。

私はナイフをポケットにしまうとその場にしゃがんで、手で雪の塊を二つ作って上下に繋げ合わせました。目と口は雪を払いのけた下から出てきた小石で適当にどうにかしました。手の平サイズの雪だるまができました。

『そういうことだよ、君が生きていくって言うのはさ』

私はそう喋ってくる雪だるまを雪の上に置きました。手で持ったままでいて無闇に溶かしたくなかったのです。

「ずっと一緒にいてくれる?」

『残念ながら僕達はそういう性質のものではない』

夏でした。公園には葉が生い茂っていました。雪も雪だるまも欠片もありませんでした。蝉が遠くで鳴いていて汗が額から頬を伝って滴り落ちていきました。私は立ち上がって、また線路をまたいで公園から出て行きました。

私の故郷の町には誰もいませんでした。郵便局にもスーパーにも土産物売り場にも誰もいませんでした。実家に帰ると玄関の引き戸が開いていて廊下に出た扇風機が微かに音を立てて回っていました。居間に行くと封筒が一つ置いてありました。開くと紙が一枚入っていました。白紙でした。

「…………」

私はペンを探してきて、その紙に点を二つ打ってその下部に曲線を描いて一つ簡単な顔を作りました。その顔は次の瞬間つぶらな瞳で瞬きして曲線を更に上向きに曲げました。

『そういうことだよ、君が生きていくって言うのはさ』

私は泣けるものなら泣きたいと思いました。台所から火が回って来て私達を包みました。実家は今どき木造でしたからよく燃えました。畳のい草がチリチリと焦げて宙に舞っていきました。手の中で紙は黒く焦げて散っていきました。炎は私に傷一つつけませんでした。やがて煙が辺り一面に立ち込めました。

『生きていてくださいね……生きていてくださいね……生きていてくださいね』

屋上のコンクリに横たわる私の耳にささったイヤホンからずっとそんな音声が流れていました。雨が降って来てコンクリに次々と小さなシミをつくっていきました。やがて私の周りには水たまりができました。私は起き上がりませんでした。

『生きていてくださいね……生きていてくださいね……生きていてくださいね』

ポケットにはナイフが入ったままでした。布越しに肌に触れるその感触を頭の中で弄んでいると少しだけ落ち着きました。私は自分がこんな思いをする羽目になるだなんて思っていませんでした。いなくなるなら私が先だと思っていたのです。

しかし、私は私の体感ではほとんど不死者の如く生き残りました。私の周りの人間の方がよっぽどあっさりいなくなりました。雨がにわかに勢いを増しました。私の身体を水の粒が激しく打ちます。

『生き――……』

この瞬間血の一滴、涙の一滴も流さない私の心情は分かってもらわなければならないのです。


私は電車に乗っています。周りにはそれなりに人がいます。コロナの影響で満員とはいきませんが、外に出る人は段々増えているみたいでした。電車は次の駅で止まって私はそこで下りました。駅のホームでも人とすれ違います。改札を通り抜けると「ありがとうございましたー」と声を掛けられました。

駅の喫茶店は夕方の今も営業中です。郵便局とスーパーにも人が出入りしていました。土産物売り場にも観光客らしき人達がいました。その側を通り抜けているところでポケットのスマホが振動しました。メッセージが届いていました。

『あなたを一人にはしないですよ』

私はスマホを握り締めました。そう、私は決して一人ではなく、色んな人が一緒にいてくれるのです。――そのことを決して忘れまいと思いました。

私は今日精神科の閉鎖病棟から退院して実家へと帰って来ました。これから薬をきちんと飲んで病気を治すのです。小説も今はまだ書けないけれどもいつかまた書けるようになるでしょう。生きなければなりません。生きなければ。

実家に着きました。玄関の引き戸が開いていて廊下に出た扇風機が微かに音を立てて回っていました。居間に行くと封筒が一つ置いてありました。開くと紙が一枚入っていました。白紙でした。嫌な予感がしました。

台所から火が上がりました。炎は今どき木造の実家を瞬く間に包みました。光源ができて、私から影が伸びました。「なんでいつもこうなのかな」そう呟く私に影が答えました。『お前が悪いんだよ』同感でした。

満月の夜川へりに座っていました。遠くの橋の上では電車が走っていました。辺りには誰もいませんでした。多分あの電車の中にだって誰もいないのです。何度も必死に貰ったメッセージを頭に思い浮かべました。

応援してもらっているのです、生きていなければならないのです、一人ではないはずなのです。

波の音がしました。ふくらはぎまで海水につかっていました。当然のことながら人はいませんでした。ひときわ大きな波がやってきて私のお腹のあたりにうちつけました。よろけて手をつきました。その手も波が浸していきました。砂に描く顔はすぐさま消えていきました。馬鹿な話ですね。少し離れた場所に描けばいいのに。でも私にはもうそんなことも分からないのです。

『そういうことだよ』

『君が』

『生きていくって言うのはさ』

下宿にいました。鉄臭い匂いが鼻をつきました。私は玄関で靴を脱ぐと真直ぐその匂いが強く漂ってくる所まで行きました。行った先は浴室でした。空の浴槽に服を着たまま私が入っていました。浴室の壁には鮮血が飛び散っていました。私の首からは明らかに致死量の血が流れていて着ていたシャツはもとの色が分かりませんでした。

私はその首筋から指に血を取ると浴室の壁に顔を描きました。顔は何も喋りませんでした。私は私の指から魔法が去ったことを悟りました。ポケットの中にはナイフが入っていました。けれど私の手は動きませんでした。

この瞬間血の一滴、涙の一滴も流さない私の心情は分かってもらわなければならないのです。


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