第八章
季節はどんどん移り変わり、すっかり初夏となった。
翔太や沙奈とは別のクラスになった。
当然、雅ともだ。
俺は毎日のように雅の病室に通っているが、雅の死期は近づいている。
間に合うだろうか。
花火大会に。
俺はいつも通り、学校が終わってから、病院に向かった。
そこには、一緒に自撮りを撮った時よりもやつれた雅がいた。
死期が近いのは一目瞭然だ。
「雅」
「……お兄ちゃん……?今日も来てくれたんだ〜」
「俺はお前の兄……なんだろ?」
そういうと、雅は力なく笑った。
その様子に、胸が痛むような気がするのは気のせいだ。
父親のときでさえ泣かなかったのに、血も繋がってない義妹に泣くなんて、父さんに怒られてしまう。
「すっかり夏だね。蝉の声がよく聞こえる」
雅が顔を窓に向けて言った。
起き上がる力もないんだ。
「夏は嫌いだ」
「どうして?暑いから?」
「いや、なんとなく」
「……分からないんだね。なにも……」
何が言いたいのか全くもって分からん。
「私のお母さんね、私と同じ病気で死んじゃったの」
「遺伝ってことか?」
「うん。お母さんは奇跡的に25歳まで生きれた。お母さんの出産にはリスクがあったんだ。それでもお母さんはいつ死んでもお父さんが寂しくないように、そのリスクを負って私を産んだ。お母さんは産後大出血で死んじゃった。残された私にも病気があることが発覚して、しかも私のはお母さんよりも進行が早かった」
なんともドラマのような家族構成だ。
義父が気の毒でならない。
雅は悲しそうに目を細めて俺を見た。
そして、搾り出したようなか弱い声で言った。
「もう来なくていいよ」
「は?」
思いもよらぬ言葉に、俺は声を上げた。
来なくていい?
意味が分からない。
こいつは俺に兄になって欲しくて、俺は傷つけた詫びに毎日兄として、ここに通ってた。
でも、ここに来なくていいと言われたってことは、兄の責務から解放されるということだ。
「お兄ちゃん――光輝くんの役割は今日で終わり。もう、私の我儘に無理矢理付き合わなくていいよ」
諦めたように笑う雅の笑みは、言葉とはかけ離れた、諦めを含んでいた。
雅は前から分かっていたのだ。
自分がもう助からないこと、本当に近いうちに死んでしまうこと、何をしても無駄だということに。
「光輝くんは私のことなんて忘れて、友達とパーと遊びなよ。私の葬式で泣かなくてもいいからさ」
「…………」
「言ったでしょ?泣くことだけが感情表現じゃないって。私はその辛そうな顔で十分だよ」
辛そうな顔……?
そんな顔してるんだろうか。
分からない。
分からないけど、胸が痛い気がする。
「私はこれ以上光輝くんを傷つけたくないの。だって、光輝くんはお父さんが死んだことで、十分心に傷を負っているから」
父さんが死んで、俺が悲しんだ?
傷ついた?
決めつけるなよ。
俺は傷ついてもないし、悲しんでもない。
なのに、どうして胸が張り裂けそうな思いになるんだよ。
分からない。
分からない。
こんな感情、知らない。
教えられてない。
「なんで、こんなに胸が痛いんだ……?悲しくないのに……」
「光輝くん」
俺が呟くと、雅が俺の目をまっすぐに見て言った。
「それはね、悲しいって言うんだよ。光輝くん」
◇◆◇
病院を出てから、何をしたのか覚えていない。
何も分からない。
何も知らない。
自分が何を感じているのか。
何を求めているのか。
何が正解なのか。
幼い頃、父に言った気がする。
目の前に父と幼い俺が現れた。
これは夢か……。
「僕ね、大きくなったらお父さんみたいな人になりたい!お父さんみたいに立派な学校の先生になるんだ!」
「光輝は先生になりたいのか?」
「うん!」
父は嬉しそうに笑った。
なぜだろう。
息子が自分の職業に憧れたからだろうか。
「お前ならなれるさ。優しくて賢いお前なら、誰もが憧れる先生になれる」
父は俺を撫でてくれた。
父さん、俺は優しくないよ。
賢くもない。
ただ、自分に都合がよくて、傷つかない道を選んでいるだけ。
ずっと息苦しいんだよ。
父さんが死んでからずっと。
母さんは葬式で泣かなかった俺を、ずっと避けてる。
新しくできた家族とすら向き合えない。
学校でも孤立してて、何もできない。
「それは、お前が誰かを傷つけまいと取っている行動じゃないのか?」
父がこちらを見ている。
間違いなく、俺を見ている。
幼い俺はどこかへ消えていて、俺以外に目を向ける対象がない。
「違う。俺は自分を守るために逃げてる弱虫だ」
「……お前はいつだって自分を後回しにするよな」
父がまっすぐな目で言った。
その目は優しく穏やかだ。
「逃げて何が悪い。弱虫で何が悪い。泣かないことの何が悪い」
「でも、泣くのは悲しいからだろ?俺は悲しんでなんかいなかった。周りが泣いている意味が分からなかかった」
「だから何が悪いんだ?じゃあ訊くが、母さんや周りの人は悲しかったら絶対に泣くのか?」
「…………」
「絶対に成功すると思った実験が失敗して悲しかったら、絶対に泣くのか?」
父さんの視線は、俺から外れない。
そのまっすぐすぎる視線から、俺は目を逸らせなかった。
「お前は泣かなかったんじゃない。泣けなかったんだ。幼いお前は、俺が死んだと言う事実を受け止められなくて、自分の気持ちに蓋をした。周りが泣いていると、俺が死んだんだと分かってしまうから。だから、周りが泣いている理由が分からないふりをした」
父さんは俺の頭に、大きくて懐かしい手を置いた。
「お前は人でなしなんかじゃない。自慢の優しい息子だ」
俺の目から大粒の涙が溢れた。
ずっと、誰かにそう言って欲しかった。
父さんにそう言って欲しかった。
俺に母さんの息子でいていいって言って欲しかった。
人でなしじゃないって言って欲しかった。
ぽっかりと穴が空いて、なくなってしまっていたものが、埋まっていく。
今まで感じられなかった感情が溢れてくる。
俺は父さんに抱きついた。
父さんはそれに応えるように、俺を抱きしめ返した。
「父さん……。父さん……」
父さんの顔は見えないが、肩に温かい水が落ちてきた。
「……おかえり、光輝」
◇◆◇
「光輝!光輝!!起きて!」
母の声が聞こえて目を開けると、そこは自室だった。
父さん、俺に会いに来てくれたのかな。
「光輝!病院に行くわよ!」
母は血相を変えて、俺を起こした。
何があったんだろう。
嫌な予感がする。
「雅ちゃんが……!雅ちゃんが……!」
その名前を聞いて、嫌な予感が的中した気がした。
「雅ちゃんの病状が急激に悪化して、危篤だって……」