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第六章

あれから俺は、毎日のように雅の病室に通った。

受付の人と顔見知りになるほどに。

雅の顔色が良くなることはなく、少しずつ悪くなっているような気もした。


「お兄ちゃん!!」


いつも通り病室に入ると、雅が笑顔で俺の方を見た。

元気そうで何よりだけど、相変わらず顔色は悪い。

笑顔だけが浮いて見えるくらい、肌は青白い。


「……そんな大きい声出すなよ。病人だろ」


俺はいつもの調子でぶっきらぼうに言った。


「だって、嬉しいんだもん。毎日来てくれるなんて思わなかった」

「……暇なだけ」

「ふふ、それでもいいよ」


ベッドの横の椅子に腰掛ける。

窓から冬の光が差し込んで、部屋の中はやけに静かだった。

時計の秒針が進む音だけが響く。


「ねえ、お兄ちゃん。今日ね、夢を見たんだ」

「夢?」

「うん。制服着て、お兄ちゃんと並んで登校してる夢」

「……くだらねえ」


そう言ったけど、胸の奥が痛くなった。

それは、もう叶わない当たり前の光景だと分かってしまったから。

雅は少し息を整えてから笑った。

雅の笑顔が、病室の静けさを少しだけ和らげる。

青白い肌に浮かぶその笑顔は、どこか儚くて、でも力強くて胸の奥を締め付ける。


――制服を着て、お兄ちゃんと並んで登校してる夢。


その言葉が頭の中で反響する。

叶わない夢。

普通の日常。

俺にはそんな当たり前のことが、雅にとっては遠い光景なんだ。


「ふふ、くだらないよね」


雅は少し照れたように笑い、ベッドの上で体を起こそうとする。

点滴のチューブが揺れた。


「でも、なんか楽しかったんだ。学校の坂道を登って、途中でお兄ちゃんが『遅えよ』って文句言ってさ」

「俺、そんなこと言うか?」

「言うよ〜!だって容赦ないもん」

「まぁ、いいけどさ」


俺は目を逸らして窓の外を見た。

いつもと同じ、ぼんやりした景色だ。


「で、夢の続きは? 学校着いたら何してたんだ?」

「んー、教室で沙奈ちゃんと翔太くんとバカ話してた。沙奈ちゃん、めっちゃ笑ってて、翔太くんはなんか変なモノマネしてたよ」


雅は目を細めて楽しそうに話す。

同じクラスの設定なんだな。

そして、沙奈と翔太が普通にしてそうなことをしている。


「で、お兄ちゃんは窓際でボーッとしてるの。いつもの感じ」

「いつもの感じってなんだよ。いつもボーッとしてねぇよ」

「嘘だー! いつも窓の外見て、なんか考え込んでるじゃん!」


そう見えていたのか。

雅は笑った。


「でもさ、そういうお兄ちゃん嫌いじゃないよ。なんか落ち着くんだ」

「落ち着く……ね」


俺は呟きながら、胸の奥で何か熱いものが込み上げる。

落ち着くか。


――落ち着く。


その言葉は一瞬頭に引っかかるが、俺はすぐにそれを整理する。

感情的な評価は無意味だ。

雅の青白い顔に浮かぶ笑顔は確かに力強いが、データとして見れば彼女の状態は悪化している。


「雅」


俺は冷静に雅を見た。


「いつも笑ってるけど、無理してるだろ。お前の体調が悪いのは明らかだ」


雅の笑顔が一瞬消えた。

彼女は点滴のチューブを指で軽く撫でながら、静かに答えた。


「うん、辛いときもある。体が思い通りに動かなくて悔しい。でも、お兄ちゃんが来てくれるから、少し楽になる。本当だよ」


楽になる、か。

俺の訪問が雅の精神的な負担を軽減しているということか。


「そうか。それなら、来る価値はあるな」


俺は淡々と呟き、コンビニの袋を手に持った。


「ゼリー持ってきた。食べるか?」

「やった! さすがお兄ちゃん!」


雅の顔がパッと明るくなる。


「今日のは何味?」

「自分で確認しろ」


俺は袋からゼリーを取り出して渡した。

雅がスプーンを手に持つ姿を見て思う。

あと半年。


「ねぇ、お兄ちゃん」


雅がプリンを一口食べて、ニコッと笑う。


「一緒に食べない? 半分こ!」

「お前が食べろ」

「えー、いいじゃん! お兄ちゃんなんだから!ちょっと付き合ってよ!」


雅がスプーンを差し出してくる。

あんまり動くと点滴取れるぞ。

俺は小さく息を吐き、渋々スプーンを受け取った。

一口食べる。

いちご味。

甘すぎる。

栄養価はほぼゼロだが、雅が満足そうに笑ってるならそれでいいか。


「これで気分が上がるなら、まあ、悪くない」

「ふふ、美味しいよね!」


雅が目を細めて言う。


「お兄ちゃんってほんとクールだね。でも、嫌いじゃないよ。」


雅がさらっと言う。

俺は返す言葉を失い、天井を見上げた。

嫌いじゃないなんて軽く言うなよ。

そんなふうに言われたら、俺はますます逃げ場がなくなる。


「……お前、本当に俺でいいのか?」


気づいたら口をついて出ていた。


「え?」

「俺なんかに、兄貴なんて頼んで」

「当たり前だよ」


雅は即答した。


「だって、光輝くんしかいないもん。知らない人にお兄ちゃんになってくれなんて頼めないし」


そう言って、また笑う。

その笑顔は相変わらず青白い顔に浮かんでいて、綺麗で痛々しい。


「……バカだな」


俺は視線を落とした。

少しの沈黙が流れる。

窓の外で、かすかな雪が舞っていた。


「ねえ、お兄ちゃん」


雅が小さく口を開く。


「お願いがあるんだ」

「……またかよ」

「ふふ、いいでしょ? もう時間ないんだから」

「……」


簡単にそう言ってのける。

覚悟ができているのか、雅は冷静だ。


「やりたいこと、まだ色々あるんだ。お兄ちゃんと一緒にやりたいの」


やりたいこと?

まるで、死ぬ前にやり残したことを整理するみたいに。

俺は息を呑んだ。


「リスト作ったんだよ」


雅は枕元から小さなノートを取り出して、ぱらぱらとめくる。

そこには丸っこい字で、いくつも願いが書いてあった。


「花火を一緒に見る」

「プリクラ撮る」

「一緒にカラオケ行く」


くだらない。

普通すぎてどうしようもない。

けど、その「普通」が雅には一番遠い。


「……アホか。ガキみたいなことばっかだな」

「そう? 私にとっては夢みたいなことなんだよ」

「もっと大きいことを書けばいいのに」

「そんなこと、できないから」


雅は微笑んで、ゼリーのカップを机に置いた。


「だから、できそうなやつを一緒に叶えてね。お兄ちゃん」


そんなこと言っても、お前は病院から出れないんだぞ。


◇◆◇


「こーうき!考え事か?」

「翔太……。病院でカラオケするにはどうすればいいと思う?」

「なに?迷惑行為でもするの?」

「迷惑行為じゃねえよ」


俺は翔太の軽口に軽く睨みをきかせながら答えた。


「雅がカラオケに行きたいって言ってんだよ。病院でどうやってそれを実現すりゃいいか、考えてんだ」


翔太は一瞬目を丸くして、それからニヤッと笑った。

腹立つなこいつ。


「雅ちゃんのお願いか。そりゃ本気で考えないとな! でも、病院でカラオケって、ナースステーションから即アウト食らうんじゃね?」

「だから悩んでんだよアホ。静かにかつ雅が楽しめる方法を考えないと」


あんな場所でカラオケなんて、どうやって再現すんだよ。

カラオケに連れ出したら怒られるだろうし。

機械を持っていったら怒られるし。


「じゃさ、ポータブルスピーカーとか持ってって、ちっちゃい声で歌うのはどうよ? 雅ちゃんの好きな曲流してさ。採点付けたいならヘッドホンでカラオケアプリとか? 最近のやつ、マイク繋げばそこそこ本格的だぞ」

「ヘッドホンか……」


それなら病室の静寂を壊さず、雅もノリノリで歌えるかもしれない。

悪くないアイデアだ。

個室だから人に迷惑はかからなさそうだ。


「で、お前、どんなアプリ知ってんだ?」

「俺? いや、適当にググれば出てくるだろ。ほら、ちょっと調べっか」


翔太はスマホを取り出して、検索し始めた。

こういうときに相談できるやつがいるのはいいな。

こころなしかいつもよりも嬉しそうにしているような。


◇◆◇


俺は帰り、コンビニで買ったゼリーと一緒に、100均で買った安物のマイク付きイヤホンを手に病室に入った。


「お兄ちゃん! 今日も来てくれた!」


雅はベッドの上で体を起こして、いつもの笑顔を見せる。

青白い顔に浮かぶその笑顔は、いつも通りどこか痛々しいけど、今日はなんかいつもより力がこもってる気がした。


「ほら、ゼリー」

「わーい! 今日もいちご?」

「グレープだ。文句言うな」

「ありがとー!」


雅はゼリーのカップを手に持つと、スプーンでちまちま食べ始めた。


「でさ、雅」


俺はバッグからスマホとイヤホンを取り出して、ベッドの横のテーブルに置いた。


「カラオケ、やりたいって言ってたよな」


雅の目がキラッと光った。


「嘘、本当? ここで? どうやって?」

「まあ、ちょっとした仕掛けだ。ほら、これ」


俺はスマホにインストールしたカラオケアプリを起動して、イヤホンを雅に渡した。


「これで小さい声で歌えば採点もしてくれる。マイク付きだから、ちゃんと歌ってる感じになるぞ」

「すっごい! お兄ちゃん、めっちゃ考えてくれたんだ!」


雅は目を輝かせてイヤホンを手に取る。


「うわ、めっちゃ曲ある! どれにしよっかなー。ねえ、お兄ちゃん、一緒に歌う?」

「俺はいい。見てるだけで十分だ」

「えー、つまんない! お兄ちゃんの歌声、聞きたいのに!」

「うるせえ。病人なんだから大人しく歌っとけ」


俺はいつもの調子でぶっきらぼうに返すけど、雅はニコニコしながらイヤホンを耳に突っ込んだ。

アプリから流れるイントロに合わせて、雅が小さく体を揺らし始める。

歌い始めたのはよく鼻歌で歌ってたやつだ。

雅の声はイヤホン越しでもちゃんと聞こえる。

少し弱々しいけど、楽しそうなのが伝わってくる。

点滴のチューブがリズムに合わせて揺れる。

看護師に怒られそうな光景だが、雅の笑顔を見るとまあいいかって気分になる。

怒られるのは俺じゃないし。


「気持ちいい! お兄ちゃん、ほんとありがと!」


一曲歌い終わった雅は、息を整えながら笑った。


「次は何歌おうかな。ねえ、お兄ちゃん、リクエストある?」

「お前が好きなやつでいいだろ。どうせ俺の趣味なんて知らねえんだから」

「むー、そっか。じゃあ、次はバラードにしよっかな。なんか、しっとりした気分」


雅はアプリをスクロールして、しんみりした曲を選んだ。

俺はその光景を横目に、窓の外を見た。

窓の外では雪がまた少し舞い始めていた。

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