第三章
「お母さん!お母さん!見てみて!」
これは、夢か?
蝉を背中の後ろに隠して、母に近寄る幼い俺。
母は優しい顔つきで庭に出てきて、膝をついた。
幼い俺は母の目の前に蝉を突きつけた。
「捕まえた!!」
母は一瞬、目を丸くして小さく悲鳴を上げた。
「こ、光輝!びっくりしたじゃない!」
そう笑いながら、ちょっと怖がった顔で蝉を見つめる。
けど、すぐにその表情は柔らかい笑顔に変わった。
「でも、すごいね光輝!こんな大きな蝉よく捕まえたね!」
そう言って幼い俺の頭を撫でている。
その様子を、部屋の中で愛おしそうに見ている父。
あの温かい手や、父の眼差しはもう戻ってこない。
夏の暑い日差しの中での母や父の笑顔が光って見える。
いつから家族はあんな風になったんだろう。
何も分からないんだ。
目を開けると、そこはただの暗い部屋。
窓の外の街灯がぼんやりとカーテン越しに見える。
さっきの温かさはどこにもない。
いつから母との距離が離れてしまったのか。
そんなのは分かりきってる。
あの日、俺が父の葬式で泣かなかったからだろう。
――母さん、なんで泣いてるの?
――人でなし。
分からないんだ。
あの時どうすればよかったのか。
どうするのが正解なのか。
「…………正解なんてないか。再婚して、新しい家庭を築いている母さんにとって、俺は邪魔者でしかないんだろうな」
それこそ、話も聞かずに責め立てるほどに。
◇◆◇
「今日は命と家族の話をする」
先生のその言葉に、「だるい」などの声が上がる。
確かにそれには共感する。
命と家族なんて最悪な話題じゃないか。
「そこー、うるさいぞ。まあ、あれだ。命の尊さを学ぶのは悪いことではないからな」
命の尊さ?
どうせなくなるものに執着してどうするんだ。
「まず、みんなの命は奇跡が起きて出来たものだと知っているか?」
「せんせー!奇跡にしては起きる回数が多くないですかー!」
お調子乗りの女子が半笑いで先生に聞いた。
先生は呆れたような顔をしている。
「奇跡に回数制限はない」
「なにそれゴリ押し〜」
奇跡に回数制限はない?
そもそも奇跡なんて起きないんだ。
奇跡といういかにも素晴らしい現象かのように言っても、結局は偶然に過ぎない。
「はーあ」
沙奈の方からそんな声が聞こえた。
目をやると、心底興味のなさそうな顔をしている。
「くだらない。奇跡だとか言うけど、結局なくなるものに価値なんてない」
「…………」
「そう思わない?光輝」
「同感」
へえ、沙奈もそう思うことあるんだ。
俺達は再び先生の声に耳を傾けた。
「だから、お前達は両親への感謝を――」
先生が言いかけた時、沙奈が突然立ち上がった。
どうしたんだ?
先生が心配そうに沙奈を見ている。
「佐倉?」
「先生、体調が悪いので保健室に行きます」
「おお、そうか。保健係――」
「結構です。こう気がついてきてくれるみたいなんで」
俺?
何でだ?
先生はこちらを見て「頼んだ」というような目をしている。
めんどくせえ。
俺は立ち上がって、沙奈を連れて教室を出た。
「サボりですかい?」
「サボりに決まってるでしょ。あんな胸糞悪い授業」
「同感」
保健室まで行って、教室に戻ろうかと思ったけどやめた。
沙奈とサボろう。
保健室の先生は出張でいないようだ。
俺達は保健室に忍び込んで、ベッドに座って雑談することにした。
「そういやお前、親に感謝って言われそうになった時、キレてただろ」
「バレた?キレてたよ。あんなカスに感謝なんかしてやるもんか」
「珍しいな、そんなキレるなんて」
「血が繋がってるだけの他人なんだから、自分はお前をよく知る義務がある。みたいな言い方が本当に腹が立つの」
血が繋がってるだけの他人。
その言葉は、妙にしっくりきた。
母の再婚、義妹、全部が頭に浮かぶ。
あの日、父の葬式で泣かなかった俺を、母が「人でなし」って呼んだ声。
感謝しろとか、家族だとか、急に押しつけられてもピンとこない。
「分かる」
俺は小さく呟いた。
「家族って、なんでこんな重いんだろうね」
「 勝手に期待して、勝手に失望して。ただめんどくさいだけ」
窓の外を見ると、校庭の木々が風で揺れてる。
蝉の声が遠くで聞こえる気がした。
あの夏の日、母が怖がりながら笑ってくれたこと、父が愛おしそうに見てたこと。
あの頃は、家族ってただ温かいものだったのに。
「なぁ、沙奈。お前、家族のこと考えると、どんな気分になる?」
「気分? 最悪だよ。親のことを考えるだけでイライラする。光輝は?」
「…………」
俺は答えられなかった。
頭の隅で今日の夢がちらつく。
父の葬式で泣かなかった俺。
母の「人でなし」って言葉。
義妹の涙。
全部がぐちゃぐちゃに絡まって言葉にならない。
「ま、考えるだけ無駄か」
俺はベッドに寝転がり、天井を見上げた。
「どうせ、考えたって変わんねぇよ」
「だね」
保健室の静かな空気の中、俺達は黙り込んだ。
蝉の声が、頭の中でまだ小さく響いていた。
「ねえ、光輝」
沙奈がぽつりと声を落とした。
「もし家族が全部消えたらどうする?」
「……は?」
唐突すぎて眉をひそめる。
「親も、兄弟も、ある日いきなり全部なくなったら光輝はどう思う?」
「……どうも思わない」
「嘘」
沙奈は即答した。
「嘘じゃねえよ」
「絶対嘘。そういう顔してる」
「……」
めんどくさい。
けど、否定しきれないのも事実だった。
俺はため息をついて、天井を見上げたまま言った。
「……家族なんて、どうせいなくなる。なら最初から期待しない方がマシだろ」
「でも、それって……嫌じゃない?いなくなるって、死ぬってことだよね。そんなのだったらなんか嫌だな。光輝はそれでいいの?」
「…………だって俺、どうも思わなかったから」
「……そっか」
◇◆◇
保健室で沙奈と話した後、俺はそのまま家に帰った。
もう母さんの顔も見たくない。雅とも話したくない。
玄関の扉を開けると、リビングから母と義父の声が聞こえてきた。
義父は優しい声で母に話しかけている。
ああ、俺の居場所はここじゃない。
そう思って、俺は自分の部屋へ直行した。
「光輝、ご飯は?」
俺に気づいた義父が、リビングから顔を出して俺を見た。
「いらない」
「……光輝、話がある。来てくれるか?」
「俺にはないから」
俺は義父の方を見ずに、部屋に行った。
俺はベッドに倒れ込んで、目を閉じた。
なんで。
なんでこんなことになったんだろう。
俺はただ、普通に生きていただけなのに。
父が死んで、母が再婚して、新しい家族ができて。
俺だけが馴染めずにいる。
……昔の俺は、泣き虫だった。
母に甘えて、父に守られて、普通に笑って、普通に泣いてた。
それが、いつからかできなくなった。
もう誰も信じたくない。
誰も信用したくない。
誰も好きになりたくない。
そう思って生きてきた。
なのに、雅は。
沙奈と翔太は。
「家族」だとか、「友達」だとか、そんな言葉で俺に近づいてくる。
その優しさが、俺には痛い。
俺はもう、人に優しくされるのが怖いんだ。
だって、どうせいつかはいなくなる。
なら最初から、一人の方がマシだ。
それが俺の出した「正解」だった。
でも、雅は、その「正解」を否定する。
――泣くのは弱さなんかじゃない。大切なものを大切だって証明するために、人は泣くんだよ!
あの言葉が、俺の胸の奥でずっと響いている。
もし、本当にそうなら。
もし、泣くことが大切なものを守るための行為なら。
俺はあの時どうすればよかった?
父が死んだ時、俺は泣けなかった。
なら父は俺にとって大切な存在じゃなかったのか?
そんなわけない。
父は、俺の自慢の父親だった。
俺は父のことが大好きだった。
なのに、どうして?
どうして、あの時、俺は泣けなかったんだ?
――だって人はいつか死ぬんだから。いつ死んでもそれは定められたことだとしか思わない。
なんであんなことを言ったんだろう。
答えが出ないまま、俺は眠りに落ちた。