エピローグ
病院についたときには、雅に意識はなく、心電図の音だけが病室に響いていた。
呼吸器のチューブが雅の口元に繋がれている。
義父はベッドの横に膝をつき、雅の手を握った。
母は俺の横で声を上げて泣いていた。
嗚咽が病室の空気を重くする。
「雅……」
俺の声は、ほとんど聞こえないほど小さく、震えていた。
胸の奥が締め付けられるように痛む。
夢の中で父に会ったあの温かさが、まだ心に残っている。
幸せだったのに、こんなに冷たい空気になるなんて。
光輝はベッドに近づき、雅の冷たい手を取った。
いつもなら「お兄ちゃん!」と弾けるような笑顔で迎えてくれる手が、今はただ静かにそこにある。
義父が俺を見上げた。
そして、雅の手を離して俺に場所を譲った。
「雅ちゃん……お願い。目を開けて……」
母は涙をこぼして呟いた。
医師が低い声で告げた。
「雅さんは現在、危篤状態です。意識はなく、いつ心配停止してもおかしくありません。家族で最後の時間を過ごしてください」
俺の胸に、鋭い痛みが突き刺さる。
雅の言葉が頭の中で響く。
――泣くのは弱さなんかじゃない。大切なものを大切だって証明するために、人は泣くんだよ!
「雅……約束したよな。花火、一緒に見ようって……。まだ半年経ってねえぞ……」
声が震え、喉が詰まる。
雅の手を握る手に力がこもる。
母の嗚咽が続き、義父が静かに言う。
「聞いたよ……雅の兄になってあげたらしいね。あの子の夢を叶えてくれてありがとう。雅も、幸せだったと思う……」
俺は義父の言葉に、胸が締め付けられる。
幸せだった?
ヘタクソな兄でしかなかったのに。
雅の笑顔、病室でのカラオケ、猫耳のプリクラ、全部が頭を駆け巡る。
あの「普通」の時間が、雅にとっては夢だったんだ。
「雅……俺、ちゃんと兄になれたか?お前と父さんが教えてくれたんだ。泣くこと、悲しむこと……。俺、分かったよ……。思い出せたよ……」
目が熱くなり、視界がぼやける。
頰に涙が伝う。
父の葬式で泣けなかった俺が、今、雅の手を握りながら泣いている。
教えてくれた。
思い出させてくれた。
ありがとう……。
――お兄ちゃん!!
――やった!さすがお兄ちゃん!
――やりたいこと、まだ色々あるんだ。お兄ちゃんと一緒にやりたいの。
――お兄ちゃん、ほんとありがと!
――光輝くん、楽しい?
――生きていたら、連れて行ってね。
雅との思い出が蘇る。
「…………死なないで……」
俺の声は、震えながらも病室の重い空気に溶けていく。
雅の手の冷たさが胸を締め付ける。
呼吸器のチューブが静かに揺れ、心電図を刻む音が無機質に響く。
「雅……花火見て、ゼリー食べて、くだらない歌歌って……。まだ何もできてないのに……」
俺の言葉は、途切れ途切れにこぼれる。
雅の青白い顔に、いつも見ていた笑顔はない。
代わりに、静かな眠りのような表情だけがそこにある。
雅はいつも笑って「お兄ちゃん」と呼んでくれた。
「雅……俺、もっと話したかった。もっと、ちゃんと兄でいたかった……」
涙が止まらない。
頰を伝う温かい水滴が、雅の手の上に落ちる。
父の葬式で泣けなかったあの日の自分が、遠く感じる。
雅が教えてくれたんだ。
泣くことは、愛した証。
大切なものを失う痛みを、ちゃんと受け止めることだと。
――お前は人でなしなんかじゃない。自慢の優しい息子だ。
夢の中の父の言葉が、雅の笑顔と重なる。
俺は雅の手を握りしめ、頭を下げる。
思い出が、洪水のように溢れてくる。
雅の笑い声、病室での小さなわがまま。
リストに書かれた「普通」の夢。
全部が俺の心に刻まれている。
「お願いだから、俺を置いていかないで……」
心電図の音が不規則になり、長い平坦な音に変わった。
俺は動けなかった。
雅の手を握ったまま、ただ泣いた。
胸の奥が、張り裂けそうに痛い。
「雅……ありがとう。最高の妹だった。お前がいたから、俺は家族を知れたんだ」
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5月7日
深夜3時38分
真田雅は生涯を終えた
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葬式の日、初夏の陽射しが静かに降り注ぐ中、雅の棺は安置されていた。
俺は家族と並び、雅の穏やかな顔を見つめた。
まるで眠っているようだ。
父の時と同じ、静かな表情。
光輝は棺の前に立ち、雅に語りかける。
「雅……お前のおかげで、俺は変われた。泣けるようになった。家族の意味、愛することの意味、全部お前が教えてくれた。ありがとう。最高の妹だったよ。ごめん、泣くことが無駄だなんて言って」
涙が頰を伝う。
母が俺の肩に手を置き、震える声で言う。
「光輝……ごめんね。私、ずっとあなたを誤解してた。あなたはあの人を、雅ちゃんを愛してたのね……。悲しんでいたのね……」
「母さん、俺もごめん。ちゃんと話せなかった。向き合えなかった」
義父が静かに微笑む。
雅が残してくれたものは、みんなの心に深く刻まれている。
「光輝、これ」
義父が俺に雅のスマホを手渡した。
俺はそれを受け取って、首を傾げた。
「写真フォルダーに一本だけ動画があるらしい。家に帰ってから見なさい」
「分かった」
◇◆◇
俺は葬式が終わってから、部屋で雅のスマホのロックを解除した。
パスワードは聞いたことないし、知らなかったけど、適当に「383838」と打ったら開いた。
ザルすぎるパスワードだ。
写真フォルダーには、マジカルカメラで撮った写真と、たった一本の動画があった。
『やっほ〜!お兄ちゃん!!』
画面の中で、雅が病院のベッドの上で元気に手を振っている。
少し青白い顔だけど、いつもの弾けるような笑顔だ。
点滴のチューブが揺れ、病室の窓から差し込む光が彼女の髪をきらめかせる。
『えっとね、これ、お兄ちゃんへのメッセージ!お兄ちゃんが私のこと忘れないようにって思って撮ってみたんだ。ちょっと恥ずかしいけどね!』
雅は照れたように笑い、髪をいじりながら続ける。
『お兄ちゃん、いつも来てくれてありがとう。本音を言うとめっちゃめんどくさかったでしょ?でもさ、来てくれるたびに、私、すっごく嬉しかったんだよ?カラオケしたり、プリクラ撮ったり、ゼリー食べたりして。ほんと楽しかった! お兄ちゃんがいてくれたから、私、ちゃんと「家族」って感じられたんだ』
光輝の胸が締め付けられる。
画面の中の雅は、まるで今そこにいるかのように生き生きとしている。
なのに、もうその声も、笑顔も、直接見ることはできない。
もう二度と
『ねえ、お兄ちゃん。私、知ってるよ。お兄ちゃん、昔お父さんが亡くなったとき、泣けなかったって自分で思ってるよね。でもさ、違うよ。泣けなかったんじゃない。心が、痛すぎて止まっちゃっただけなんだよ。私も、最初はお母さんのことを考えると、胸が苦しくて泣けなかった。でも、時間が経って、お兄ちゃんと話して、だんだん分かったの。悲しいって、愛してたってことなんだよ』
雅の声が少し震える。
彼女は深呼吸して、笑顔を取り戻す。
『確かに泣いたって何も変わらないよ?死んだ人は生き返らないし、壊れたものは戻らない。でも、立ち直るために、前を向くために涙を流すって理論もありじゃない?誰もどれくらい悲しかったら涙が出るのかとか、どれくらい辛かったら涙が出なくなるのか、なんて調べてないからわからない。誰も教えてくれないから。でもね――』
雅は少し首を傾げ、いたずらっぽく笑う。
『感情に正解はないし、不正解もない。って、当然か。光輝くんが泣けなかったのは、光輝くんのせいじゃない。誰のせいでもない。でも、いつか光輝くんが悲しいって感情を理解して、誰かのために泣けることを、私は祈ってるよ』
俺の目から涙が溢れる。
頰を伝う涙がスマホの画面に落ちる。
雅の言葉は、まるで俺の心の奥底に隠していた傷をそっと撫でるようだ。
父の死で泣けなかったあの日の自分を、雅はこんなにも理解してくれていた。
『まあ、お兄ちゃんがもし私のことで泣いてくれたら、嬉しいな。だって、それは私を愛してくれてた証拠だから。泣かなくてもいいよ、って言ったけど、ほんとはちょっと泣いてほしいな、なんて! ふふ、わがままでごめんね』
もう二度と見られない雅の笑顔は、陽だまりのように暖かく、優しく、綺麗だった。
雅が口にする一言一言が、俺を優しく包み込んでくれた。
『最後に、お願い!私のこと、絶対一生忘れないでね!あと花火!ちゃんと見てよ! 私の分まで、おいしいもの食べて、笑って、楽しく生きて! お兄ちゃん、絶対いい先生になれるよ。お父さんみたいに、優しくて、かっこいい先生に! 私、ずっと応援してるから!あ、別に小学校の作文を見てたわけじゃないからね?全然違うからね?部屋とか勝手に入ってないよ?じゃ、じゃあね、お兄ちゃん。大好きだよ!』
「あの野郎……」
動画はそこで終わり、画面が暗くなる。
俺はスマホを胸に抱きしめ、声を上げて泣いた。
雅の笑顔、声、彼女が残してくれた言葉。
全部が、胸の奥に深く刻まれる。
彼女はもういない。
もう二度と、直接「お兄ちゃん」と呼ぶ声は聞けない。
それでも、雅が教えてくれたことは、永遠に生き続ける。
雅との思い出は、絶対に忘れない。
「雅……ありがとう。絶対に忘れないから……」
◇◆◇
夏の花火大会の日、俺は雅の墓前に言った。
空に花火が上がり、鮮やかな光が夜を彩る。
光輝は空を見上げ、呟く。
「雅、見てるか?約束は守ったぞ。花火、めっちゃ綺麗だ。お前の分も、ちゃんと見てるよ」
「光輝、一緒に花火見よう」
翔太と沙奈が微笑みながら、俺のところへ歩いてきた。
いつからいたんだ?
「四人で見よう。そのほうが楽しいでしょ?」
「……そうだな」
俺達は空を見上げた
人は死ぬと泣く。
悲しむ。
それは、愛していたから。
生きていた証を、胸に刻むためだ。
本当に出会えてよかった。
泣く理由がわからなかった俺が、泣く理由を持つ雅に出会えて、泣く理由を知れてよかった。
花火が夜空に咲き、俺達を照らした。
◇◆◇
「よーし、道徳始めるぞ〜!席につけ〜!」
「はぁい!」
「さて、今日は命や繋がりの大切さについて、学んでいくぞ」
「先生!繋がりってなんですか?」
「……先生にとっては、めちゃくちゃ大切なことだ」




