プロローグ
人が死ぬとなぜ人は泣くのか。
なぜ悲しむのか。
俺にはそれが分からない。
その感情を、俺は知らない。
知らなかった。
誰も教えてくれなかった。
でも、君はそんな俺を包み込むかのような笑顔で言った。
「――――――」
◇◆◇
父親が死んだ。
交通事故だった。
飲酒運転のトラックにはねられて死んだ。
母は泣いていた。
父の会社の人も泣いていた。
祖母も、祖父も泣いていた。
ただ一人、俺だけは泣けなかった。
なぜ周りが泣いているのか分からなかった。
「光輝、こっちにいらっしゃい。お父さんにお別れを言いなさい」
母が俺を棺の前に手招きして言った。
父はまるで眠っているかのように死んでいた。
病院で見た傷だらけでボロボロで、触りたくないような顔じゃない。
「本当に死んだんだ……」
ぽつりと呟いたその言葉は、誰の耳にも届かずに消えた。
母はずっと泣いている。
「母さん、なんで泣いてるの?」
「……え?」
母は顔を上げて目を見開いた。
「光輝は悲しくないの?」
俺は頷いた。
「だって人はいつか死ぬんだから。いつ死んでもそれは定められたことでしょ?」
「…………人でなし……」
なぜそんなことを言われたのか、俺には分からなかった。
聞かれたことに答えただけで、人でなしと言われる意味が分からなかった。
母は心から俺を軽蔑したかのような顔をしている。
◇◆◇
それから、母とは全く話さなくなった。
そのまま高校生になり、母は再婚した。
小6の時に父親が死んで、中学、高校とずっと引きずり続けていたから、やっと立ち直ったのかとしか思わなかった。
相手には俺と同い年の連れ子がいるらしい。
仲良くしようとは思わなかった。
家にやってきた義父は優しそうで、義妹は気が弱そうだった。
ただの偏見だけど。
「よろしくね、光輝くん」
義父は俺に手を伸ばしてきた。
俺はその手を掴んで「よろしくお願いします」と言った。
義妹は恥ずかしそうにしながら「よろしくね」と言っただけだった。
何を恥ずかしがっているのだろうか。
義父と義妹が家に来てから、母は笑うことが多くなった。
以前のように俺を避けるような態度もなく、ただ「普通の母親」に戻っていた。
俺はそれを遠くから眺めていた。
それらは俺に向けられる笑顔じゃない。
母にとって必要なのは、俺じゃない。
ずっとそうだったから。
◇◆◇
ある日、義妹と二人きりになることがあった。
母も義父も買い物に出かけていて、家には俺と義妹だけ。
義妹は机の上に教科書を広げていたが、全然集中できていない様子だった。
「なにしてんの?」
自然と声をかけていた。
義妹は少し驚いて俺を見上げると、一瞬だけ目があった。
その目は潤んでいた。
そして、机に置いてあったプリントを渡してきた。
それは2点と書かれた小テストだった。
「……前の高校で受けた小テストの点数、悪くて。お父さんに言えない」
それだけ言うと、義妹は下を向いて唇を噛んだ。
俺は不思議だった。
なぜそんなことで泣きそうになるのか。
「別にいいじゃん。人間、出来ることも出来ないこともあるんだし」
そう言うと、義妹はかすかに笑った。
「……光輝くんって、冷たい人なんだね」
「…………」
「お義母さんから聞いた。お父さんが亡くなった時、泣かなかったって」
なぜ俺のことを全く知らないこんなやつにそんな言い方をされなければならないのだろう。
俺は腹が立って、プリントを机に叩きつけた。
「そんな話聞いて何になるの?くだらない話を覚えるより、英単語を覚えたほうがいいんじゃない?」
「光輝くん……。どうしてそんなこと言うの?」
「知ったような口を利くなと言ってるだけ」
「……光輝くんは、本当に冷たいんだね」
「冷たい?違うだろ。ただ無駄なことをしないだけだ」
「無駄じゃない!」
義妹は声を荒げた。
急に大声を上げて何なんだ。
俺は少し驚いたが、すぐに鼻で笑った。
「泣いたって、点数が上がるわけでも、俺の父親が生き返るわけでもない。全部現実は変わらない。だから意味がない」
「……そうやって割り切って、本当に心が楽になるの?」
義妹の目は真っすぐ俺を見ていた。
不愉快なほど真っ直ぐで、俺が嫌いな感情豊かな善人だ。
「誤魔化してるだけなんじゃないの?本当は悲しいのに、自分で気づかないふりしてるだけなんじゃないの?」
不愉快だ。
「俺のことを勝手に決めつけるな」
「決めつけてるのは光輝くんの方だよ!」
意味が分からない。
決めつけてるのはお前の方だろ。
「泣く人は弱いって、そう思い込んでるでしょ。でもね、泣くのは弱いからじゃない。大事だから、守りたいから、失いたくないから泣くの!」
「だったらお前は泣いて守れたのかよ?父親が死んだ時、母さんは泣いた。でも何も変わらなかった。あれのどこに意味があるんだ?」
義妹は一瞬怯んだが、強く睨み返してきた。
「……意味がなくても、泣くんだよ!」
「は?」
「お母さんはね、光輝くんのお父さんが大好きだったの!だからいなくなって、苦しくて、どうしようもなくて泣いたの!」
「それで何が変わった?父さんは帰ってきたか?」
「帰ってこないよ!」
義妹は叫んだ。
彼女の頬に涙がつたう。
「でもね……。泣かないと自分まで壊れちゃうんだよ……!泣くのは弱さなんかじゃない。大切なものを大切だって証明するために、人は泣くんだよ!」
俺は言葉を失った。
その勢いと熱に圧倒されそうになったが、すぐに怒りが勝った。
「綺麗事ばかり言うな。結局、泣いても何も守れないくせに。そんな無駄なことで慰め合って、何になるんだよ?」
義妹は俯き、拳を握った。
しばらく黙っていたが、震える声で言い返す。
「……そうやって否定してるのは、光輝くん自身が一番泣きたいからなんじゃないの?」
「勝手なことを言うな」
「勝手じゃない!!」
義妹の叫びが部屋に響いた。
互いに一歩も引かず、鋭い視線をぶつけ合う。
張り詰めた空気が今にも弾けそうだった。
「ただいまー」
母が帰ってきて、リビングの扉を開けた。
そして、涙を流す
義妹と、いつも通りの俺を見て母は誤解をした。
「雅ちゃん!!」
母は荷物を床に落として、急いで義妹の元へ駆け寄った。
そして、義妹を抱きしめた。
「大丈夫?何があったの?」
「お義母さん……」
義妹は母の腕の中で涙を流し続けた。
「大丈夫、大丈夫よ。もう泣かなくていいからね」
母は義妹の頭を撫でながら、優しい声をかけていた。
ああ、その声を知っている。
その手の温かさも。
でも今、その温もりは俺に向けられていない。
二度と、俺に戻ることはない。
胸の奥がじりじりと焼けるように痛んだ。
それなのに、涙は出ない。
やっぱり嘘だ。
壊れないために泣く?
じゃあ、もうすでに壊れてるんだったら?
「光輝!! どうして雅ちゃんを泣かせたの!」
母の怒声が飛んだ。
「……別に、泣かせてない」
「嘘おっしゃい!こんなに泣いてるじゃない!」
母の視線は、まるで俺を「人でなし」と呼んだあの日と同じだった。
俺はゆっくり立ち上がり、視線を逸らした。
「泣くかどうかは、本人の勝手だろ」
吐き捨てるように言って、部屋を出た。
背後で義妹のすすり泣く声と、母の慰める声が遠ざかっていく
あの顔を、義妹を抱きしめるその腕を、俺は知っている。
◇◆◇
昔、俺が苛められて泣いていた時、母はよく抱きしめてくれた。
「お母さん〜!」
俺は泣きながら母に抱きついた。
母は優しく抱きしめて、頭を撫でてくれた。
「大丈夫、大丈夫。光輝はお母さんが守ってあげるからね」
母の声は、震える俺の心を包んでくれるようだった。
あの頃の俺は、母がそばにいればどんなことも怖くなかった。
そうだ。
あの時の母は、確かに俺を守ってくれていたんだ。
けれど今、その温もりはもう俺のものじゃない。
泣き虫だった俺を抱きしめてくれた腕は、別の誰かを守っている。
◇◆◇
「……はは」
自室に戻った俺は、ベッドに横になり天井を見つめた。
乾いた笑いが漏れる。
守ってくれるはずだった母は、俺を見捨てた。
泣けなかった俺を「人でなし」と呼んで。
そして今は、俺の代わりに泣ける子供を抱きしめている。
結局、泣けるやつが愛されるんだ。
胸の奥に渦巻くものを押し殺そうとしても、どうしても消えてくれなかった。
父が死んだ時、泣けなかったらどうすればよかった?
言い訳せずに逃げる以外の方法があった?
――……そうやって否定してるのは、光輝くん自身が一番泣きたいからなんじゃないの?
何も知らないやつに、俺の気持ちが分かるかよ。
「そういう偽善が、一番嫌い」
みなさんこんにちは春咲菜花で。大変申し訳ございません。ほんの一瞬投稿した「言えない言葉」を削除させていただきました。物語を書くために話を聞いていた友人に「やっぱ恥ずかしいから消して」と言われてしまい、続きを書くのが困難となりました。本当に申し訳ありません。これはエッセイではないので、ちゃんと完結まで持っていきますので、新連載の「泣く理由を知らない俺が、泣く理由を持つ君と出会ったなら」をどうぞよろしくお願いします!