第7話 雲の上にある望み
ジャクセルはビルの中、角からそっと一階エントランスに鼻先を差し込んだ。奇妙なニオイがした。
単数形のアンモニアと便臭が澱んだ微かな空気──その中に混じる、よく知ったムスクの匂い。
あのエルフの実業家の澄ました顔が目に浮かぶ。──虫唾が走る。
続いて耳を、そして金色の瞳を覗かせると、広々としたロビー、飾られたクリスマスツリー。そして中央に置かれた革張りのソファ。そこに、仕立ての合うスーツを着た紳士が、脚を組み、悠々と腰かけているのが見えた。
──だが、異様だった。
紳士は首に、金属製の首輪で、小さな四面体をぶら下げている。
まるで牛の鈴だ。重く鈍い輝きを放つそれが、新聞をめくる手の動きに合わせてわずかに揺れていた。
それでも男は落ち着き払って、インクの香りする新聞を広げている。
その長い耳。金の髪。端正な顎先のライン。ユルゲン・シュタールベルク本人に違いない。
やがてユルゲンは紙面から視線を上げた。ジャクセルの姿をとらえた目が、好みからかけ離れた娼婦がきた客のように、目を閉じて天を仰いだ。
サピエンスなら四十代半ばほどに見える顔立ち。細身のスーツに収めた長い肢体が、無駄な動きひとつをしない。新聞をきれいに畳むと、よく通る嫌味な声を響かせた。
「──出てきたまえ、ジャクセル・バウハウンド君。ここには私しかいない」
ジャクセルは、足音を隠さず、濃紺の制服に剣を背負った姿をロビーに現した。
「人質を買って出たそうじゃないか」
問いかけに、ユルゲンは薄く笑った。
「そうだ。犯人の要求でね。つまりは単独犯のようだ」
数十の人質は管理しきれない。知名度が高いユルゲンだけを残してあとは解放したと言うことだ。
「しかし、うまいことやったな」ジャクセルは皮肉を隠さない。
「これで生還できれば英雄だ。次の選挙は勝ったも同然だな」
ユルゲンは、指を絡ませ、薄く笑いながらうなずいた。
「──違いない。けれど運がなかった。まさか君が出しゃばってくるとはね」
ロビーは今の時間、日陰にあたる。
新人の頃、馬車を駐めた場所で揉めたことがある。賄賂に小金を掴まされたのが癪にさわって検挙した。
そのユルゲンは、
「どうやらこの首は、今日で胴体とお別れらしい」
首元の小箱──タガヤサンの四面体に触れて、ジャクセルに示した。
ジャクセルは立ったまま、その黒褐色の魔具を見据えた。
「そいつが魔力爆弾ってわけか」
「そう。これ一つに、最大重力呪を詰めてめてあるそうだ」
ビルを爆縮解体で全壊させるには充分だ。
まるで他人事のように言うユルゲンは、窓の外、遠くに見える野次馬たちを眺めた。
「オーディエンスの手前、涼しい顔でいるが、君には伝わっているだろう」
その目には、抑えた殺意が笑みを浮かべている。
「望むだけとは、いかないが、それなりに金はある」
エルフの実業家は、ジャクセルに横目で命じた。
「斬ってくれ。犯人を。私のズボンを台無しにした代償だ」
ジャクセルは、彼の屈辱を薄めるかのように煙草へと、火を着けた。
「彼から恨みを買った覚えは?」
「不渡りを出したんだ。彼の養父の工房がな」
ジャクセルの耳先が跳ねた。
「……どうやって回収した」
「土地をいただいた。もちろん、合法的にだ」
「知ってて貸したんだろ」
ユルゲンは片唇を持ち上げ、小さく笑う。
「──このソファから、一歩でも立ち上がれば、即ドカン」
どうやらロビー自体にセンサー結界が張られているらしい。
「おかげで同じ新聞をもう三回読んだ」ユルゲンは肩をすくめた。
しかし、溶接工に、そんな高度な魔法が使えるとは思えない。
ジャクセルはユルゲンの前のテーブルで、煙草を灰皿に押し付けて歩き始める。
「重力魔法の使い手が背後に居るようですな」
ソファは背中側から通る。
横目に入れた首輪は鉄製。溶接の痕跡──こちらはピエトロの仕事だろう。締めたビスの先を溶かし、閉ざしてある。この場では外すことができない理由だ。
「今しばらくのご辛抱を。解除の合言葉を聞いてきます」
通り過ぎて行ったその制服に、ユルゲンも、ソファから背中を向けたまま言う。
「巡査長。もう一度言うぞ」
静かな憤り、それは地雷のような低い声だった。
「彼を斬れ。──できるだけ、残酷にな」
ジャクセルは首をすくめ、階段へ向かって行く。
「約束はできかねます。彼にも裁判を受ける権利があるんでね」
背後で同じ新聞を広げる音がした。
「いつかのキップの時とは違うんだ。今日の私にはケチるつもりがない」
ムスクの香りがまとわりつく。
ジャクセルは階段に足をかけ、鼻をフンと鳴らし、先を見上げた。
屋上までは遠い。
それでも気が変わることは無いだろう。
ジャクセルの望みは、現世から遠い、妻の逝った雲の上にある。