第6話 屋上の爆弾魔、交渉人も死にたがり
──午前十時。
ミハラ市警察 24分署から、ジャクセルは馬の後ろに舞矢を乗せ、オール通りへと駆けつけていた。
冬の空だが雲が薄く、陽が出ていて雪は降っていない。
風も妙に生温かく、クリスマス前とは思えない陽気だ。
通りに入ると、人なみがビルの屋上を仰いでいた。スーツ姿のビジネスマンが多い。遠くでは交通整理の警笛が鳴り、あちこちで苛立った声が上がっている。ジャクセルは馬の手綱をわずかに緩め、背後の舞矢へと声をかけた。
「しかし分からんね、日本人てのは」
「なにがです?」
「どうせ昼には辞めちまうんだろ? 昼寝でもしてりゃいいのに、なんで首を突っ込む」
「そりゃ……課長さんと約束したからですよ」
ジャクセルは問題児。24分署のマッチ箱。なんでもない書類仕事を大火災に発展させる。──課長はそう言っていた。
「しかも……最近は気落ちしている。違うんですか?」
ジャクセルは肩をすくめ、雑踏を抜けながら前方を見据えた。
現場はオール通りに面した十階建てのサガノビル。法律事務所や会計事務所が多く集まったテナントビルだが、その周囲にはさらに高いビルがいくつも聳えている。
屋上には、グレーの作業着の男が見えてきた。思っていたよりも若い。三十手前というところか。柵の外側に立ち、震える肩越しに遠いどこかを見つめているようだ。
「……しかしよ、飛び降りなら、もっと高いとこ選べばいいのにな」
舞矢は思わず顔をしかめた。
毒蜂色のリボンテープが規制線を敷く手前で、野次馬たちの背中が、一様に屋上を見上げている。
馬上の舞矢にも、その屋上にいる男の姿がはっきりしてきた。シワだらけの作業着に、泣き出しそうな顔。その手には小さな黒い箱が握られている。唇を噛み、指先が小刻みに震えている。
「通報どおり、なんか持ってやがるな」
ジャクセルの視線が鋭くなる。
「……あれ、起爆装置ですか?」
「ああ。起爆箱。魔法爆弾のリモコンさ。あそこに合言葉を詠唱すると、仕掛け先でボーンってわけ」
舞矢は背筋が冷たくなるのを感じた。
「でも、魔法爆弾の仕掛け先って、このビルですよね……?」
「そうだな。しかも人質のエルフにって話だったが、要は心中ってことかね。どんな理由があるんだか、しらんけど」
そう言いながらジャクセルは馬を降りた。降り方が分からず戸惑う舞矢に彼は手を貸し、駆け寄ってきた若い警官に馬を預けた。
「行こう」規制線をくぐる。舞矢も追う。
すぐに気づいたのか、猫科人間の女性警官が手を挙げて、彼を招いた。黒い毛並みにドレッドヘアが揺れている。市警の制服の胸元に同じMRPDのバッジが光っている。
「やあ、サラ。メリークリスマス」
「ハイ、バウ。古巣はどう?」
ジャクセルの愛称を口にして、サラは微笑む。そして歩きながら、屋上の男について説明を始めた。
「名前はピエトロ。五年前に転移してきた異世界人よ。西門地区で溶接工をしているけど、犯歴はなし。ただ、投資でユルゲン・シュタールベルクに恨みがあったようね」
「……じゃあ……人質ってのは女エルフじゃないのか」
「そ。残念ね。あなたのことが大好きな、あのユルゲンよ」
舞矢が口を挟む。
「誰です、そのユルゲンって。有名人なんですか?」
「……ああ。エルフの実業家だ」ジャクセルは頭が痛そうに言った。
「性懲りも無く次の市長選にも出るらしいが、ここで奴を木っ端微塵にできるなら、かえって功徳かもな」
「功徳って……善いことって意味ですよね? なんでです?」
舞矢の素朴な疑問に、サラが小さく吹き出した。
「市警察のトップは市長なのよ。つまり、私達のボスになるかもしれない人ってわけ。……それに、このバウとは色々、因縁があってね」
ビルから100m。最終の規制線にたどり着くと、サラが足を止める。
「さて。ここから先は万が一の爆発に備えて、進入禁止よ」
「交渉人は?」
「本部からこちらに向かっているそうだけど……どうせ待たないんでしょ?」
ジャクセルは屋上を一瞥する。ピエトロの視線は西、つまり住宅地区の方向に釘付けで、接近しても気づきそうにない。
「ああ。ちょっくら解除の呪文を教えてもらってくる」
「って普通にダメですよ、だって──」
舞矢が制止しかけたが、課長の〝奴は死にたがりだ〟という言葉が胸をよぎり、口ごもる。胸が強く脈打ち、口の中が乾いた。
「交渉の専門家が、来るんですよね……」
だが、その上に、ジャクセルの低い声が被さった。
「……そうかもな。だが課長から聞いたろ。希死念慮ならこっちのが専門だ」
彼はサラに横目を送った。
「新人を頼む。まもなく退職だが、初日でまだ共済にも入ってない」
そして彼は、ひとり規制線をくぐると、身を屈めてビルへと走っていった。
残されたサラは、舞矢に微笑んで右手を差し出した。
「サラ・バステト。生活安全課よ。まもなく退職する新人って、あなたとってもクールね」
握手の際、鮮やかなネイルが指先に触れた。黒い毛並みが冬の陽を受けて艶やかに光る。舞矢より背が低いのに、姿勢の良さと曲線美が眩しくて、舞矢は恐る恐る手を握り返した。
「山本……舞矢です。いちおう今日は、ジャクセルさんのお目付け役です……」
お目付け役。彼が自死を選ばないための。それが任務だと課長は彼女に命じたが、
「さっそく置き去りにされてますけど……」
舞矢は、ビルの一階を覗き込み、踊り込んで行くジャクセルの背中を心配そうに見た。
こんなことで、バディと言えるのだろうか。
残り三時間を切った、はじめての警官生活とは言え……。
舞矢は彼らと同じ濃紺の制服を着ていることが、申し訳なくなってきた。