19.JAMと、18歳の選択
生徒会の選挙が終わった後、気がつけばあっと言う間に高校2年の年は終わってしまったというのが、良太の感想である。
高校3年とは、時代は違えど、多くの若者にとって自分が決める初めての選択の年である。
良太自身にとっても、親の保護下から離れ、自分で自分の道を選ばなければならない時だった。
3年の秋には、夕方の県内ニュースでも地元高校生の就職率を必ず取り上げる。
先行きある地元の若者の未来を心配する様に、ニュースを終えるが、それは世の中の景気を知らせるバロメーターの役割を示していた。
良太質が3年生であった1996年は、正に就職氷河期時代の真っただ中であった。
大卒の若者でも、就職が大変な時代である。
アナウンサーは、こう締めくくる。
『内定率●●%の厳しい状況を受け、高校としても地元企業に採用の枠を広げて頂くように訴えていくとの事です。』
バブル経済崩壊が1991年2月、今日、現在失われた30年と言うが、バブルがはじけて5年目である1996年は、何時迄続くか分からない景気低迷の中、地元企業は勿論、日本の企業総てが生き残る事だけを考えていた時期であった。
そんな時代でも、親から守られている高校生の良太にとって、アナウンサーが伝える言葉は響いてこなかった。
テレビと新聞の世界は、自分の回りの世界とは違うと思っていたのである。
(大学へ進学し卒業する頃には、景気は良くなっている筈・・・)
(高卒で就職する人達は、大変だな・・・)と、何処か他人ごとの様に考えていた。
しかし、そんな良太の世界が突然変わったのも、1996年の秋であった。
良太の父が職を失ったのである。
当時の事は、現時点でも良太も詳しく聞いた事は無い。
ただ、18歳の良太にも経済的な不安を感じざるをえなかった。
良太の父は、会社都合での解雇であった為、すこしばかりの退職金は出ただろう。
失業手当も、退職月の次月から直ぐに支給されたと思うが、高い月謝の私立高に2人通わせなければならない親の重圧は相当なものだったと思う。
良太自身も、丁度、志望大学への推薦入試が決まった時であった為、目の前が真っ暗になった事を覚えている。
1996年は、THE YELLOW MONKEYの9枚目のシングル、JAMが発売された年であった。
当然高校生にも多くのファンがおり、カラオケ全盛の時代で、友人も良太もよく歌った曲である。
世の不条理を歌った曲なのだが、サビの歌詞は何処か人を励ましてくれる曲である。
Good Night 数えきれぬ
Good Night 夜を越えて
Good Night 僕らは強く
Good Night 美しく
曲の世界観と、その時の日常がリンクしていた気になって当時の良太はJAMを聞いて自分を慰めていた。
あれから30年が経とうとしている現在、一番将来をに不安を感じていたあの頃を思い出す曲であり、名曲だと思う。
話はもどるが、良太の両親は、そんな状況の中でも大学の入試を受ける事を認めてくれた。
正直、良太自身にはその優しさが心苦しさがあった。
最終的に、当時の良太は、大学に受かる自信も無かったので、結果的に落ちれば、親のせいにもならないなと、落ちて堂々と就職口を探そうと、自分を納得させた。
決して自分に言い聞かせた訳ではない、ひとのせいにはしたくないという18歳の男の選択だった。




