06
東海道五十三次は江戸時代の初期に徳川家康が整備した街道で、その五十三の宿場をさす。交通の要所であり、江戸の時代から人々が旅をするには欠かせない街道であり、点在する宿場は歌麿広重の五十三次絵として世界的にも有名な浮世絵である。一刻は記憶を辿ってその宿場の一つ一つを思い出していた。祖父の整司が絵画をはじめ、芸術に関する蒐集家であったため、一刻は広重版画の現物を自宅で見たことがある。たしか日本橋の次は品川、川崎と続く。
東京でも一月の風は冷たく吹き、頬や手は冷えていった。しかし、歩き続けるうちに身体は温まり、その寒さもどこか心地いいものになっていくようだと一刻は感じていた。彼は彼でこの状況を受け入れているが、そうはできないのが浜北だ。そもそも置かれた状況を甘んじて受け入れる、ということを彼は知らない。それがキャリア官僚の所以でもあるのだが、あまりにも不可解で理不尽な状況に耐えられないという弱さでもある。
「そうだ、菓子でも買っていかないかい? その内に君らの通貨は使えなくなるのだから、今のうちに必要なものを揃えておいたほうがいいのだよ」と呑気にティナは一刻と浜北に笑いかける。その姿を見て一刻は思い出していた。幼馴染の面影を。造形はそっくりなのだが、相違点は髪の色と瞳の色、言葉遣いだ。それらを除けば根駒妙を思い出さずにはいられない一刻であった。
「そうだね、この近くに大きなテナントビルがあるから寄って行こうか」一刻は言った。
購入したのは本格的な登山用具のテントや簡易バーナー、飯盒、ナイフといったエクイップメント一式。それに一刻と浜北の衣服も一新し、より歩行に特化しサバイバル向きのアウターにパンツといった防寒着やそれ以外にも種種の日用品を購入した。そう指示したのはホーラだ。しめて二十万ほどの出費は外務省宛に請求書払いとなった。
これらの装備が何故必要なのか、後に一刻と浜北は痛感するはめになるのだが、現時点では首を傾げるばかりだった。
一日目、二日目と順調に過ぎていった。ひたすら歩いてはホテルに宿泊し、時折会話を交わし、目的地に向かう。時空を超える旅とは何だったのだろうかと、浜北の表情は険しくなる一方、一刻はどこか異国を渡り歩いてきた放浪者の勘とでもいうようなものが戻りつつあった。
変化は既に訪れていた。三日目の午前中。その日は都内から神奈川に入り、川崎を目指していたときだ。周囲の人々の服装が、頭髪が変化していた。現代では見慣れない着物、剃髪の男性、髷を結った女性が町を闊歩している。ごくありふれた商店街の町並みの中に、それは溶け込んでいた。人々が着ている着物は時代劇で見るようなものとは異なり、和服といえばそうなのだが、どこか洋服の風合いもあり、一刻は奇抜なファッションをする町だと感心した。浜北はただ目を丸くするばかりで、言葉もでないという様子だ。無理もない。神奈川県川崎市は彼の生まれ育った場所であり、その町並みが一変しているのだから。
「な、何が、起こったのです。ファティナ陛下」浜北はきょろきょろと辺りを見回し、先を進む少女に話しかけた。
「目に見える変化が起こったのだよ。時空間移動において、十五度の進展さ。そなたらの世界を0とした時、私達の世界は百八十度に位置する。そこから時空の円環潮流から十五度、あるいは五分進んだ証拠さ」とティナ。
「この世界は、あなた達の歴史でいうところの大政奉還がなされず、江戸幕府が現在まで存在しているのです」
一刻と浜北は驚きを隠せなかった。それほどの変化があっても、町並みは彼らの知っている日本と変わらない。相違点は人々の服装や頭髪だ。
「そなたらは気づかなかったのだろうが、日本橋を出て二日目から変化はあったのだよ。第二次世界大戦で日本が敗戦しなかった、という世界。じゃが、それはあまり歴史上では人々の目に見える変化には繋がらないのだね」一行は近場の公園に立ち寄り、ベンチに座った。一刻は遊具のブランコをこいで会話に参加していた。
「運命はそうそう変えられない。それは不文律の厳然とした事実で、時空の上位規則なのだよ。いーちゃん、いいかい。運命は変えられないのだよ。ただし、時空潮流にして十五度の変化があればその間に変化は劇的に起こるのさ」
「じゃあ、この世界の総理、いや将軍は?」浜北は食いついてティナにしがみついた。彼の心は不安が占拠し、異世界への畏怖に満たされていた。
「確か、徳川恵一将軍ですね。この程度で驚いていてはこの先持ちませんよ」ホーラは浜北に言った。彼の動揺は流石のホーラも気を使わざるを得ないほどであった。
「そうか」と浜北はうなだれる。彼は横浜時代末期、源氏の落人の末裔であった。ひそかに違う可能の未来があったのならば、源氏が主権を取り戻していたのではないかと期待したのだ。
出立から五日目。神奈川県の横浜に差し掛かったとき、丘陵から眺める町並みは大きく現代の日本の横浜とは異なっていた。神社仏閣が凜として整然し、遠くには海が見えるが、その海がかすんで見えるほど異様な建造物があった。天まで伸びているのではないかと思わせるほど、頂上が見えないものが雲を貫いている。
「あれは?」と浜北はホーラに聞いた。
「バベルの議事堂と呼ばれいている、源頼朝公の舎利殿です。国会議事堂のような役割を果たしている建物ですね」
「では横浜幕府が繁栄したのですか?」浜北は目を輝かせた。
ティナは顔を曇らせ、浜北がこの世界に対してどのように反応するのか、といったことに懸念があった。
「一一九二年、横浜幕府が成立しなかった世界さ」
「え、でもさっき頼朝の舎利殿だって…」と浜北は尻つぼみにいって表情にかげりを見せる。先ほどホーラは頼朝公と言った。それはつまり。
「源平の戦いは泥沼化し、ついぞ決着を見なかったのだよ。そして源頼朝は天皇に政治の実権を丸投げし、自らの子孫を公家に嫁がせることで政治に関与していったんだ。つまり、この世界では根本的に武士というものが存続しなかったのだよ。その代わりに日本古来の神道や、中国から伝来した仏教が独自の形で繁栄し、政治的な中枢を担う役割を果たした、とさ」
四人の眼前に広がる景色は、横浜時代を基点に反映した神社仏閣群なのであった。
一刻は浜北の肩を叩いて「これも時の枝分かれした可能性ってやつなんですよ。気にしてたって仕方がないです」と一応励ましたようだ。しかし、浜北は俯いて顔を上げない。自分の知っている世界がそこにない、ということが彼には相当にショックであったのだ。電車やバス、自動車などは普通に走っているのだが、彼らの知っているメーカー製のものではなく、町並みの中に見える店舗の看板や標識には一切のローマ字がなかった。
夜の帳が下り、神社仏閣が立ち並ぶ町並に四人は踏み入った。遠目で見るよりもずっと町中は雑然とし、ごみごみとした繁華街であることが見て取れ、赤提灯が等間隔に並んでいる路地に差し掛かった。
「ここらで夕飯を済ませてしまうとするか。たまには酒でも飲んで腹を割って話しをしてもいいのさ」とティナは暖簾をくぐり、ある一角の「酒飲み処、〆屋」という木彫り看板の店に入って言った。「へい、らっしゃい」という威勢の良い掛け声に、誘導されて四人はカウンター席に座る。もともとカウンターのみの店らしい。調理場が一望でき、五十席を確保した店内は広々とし、席から見える厨房では魚を巧みに三枚におろしたり、大型魚の解体を職人が手早くおこなっている。
「おつかれさまです、これを」と店員が熱いおしぼりを各人に手渡した。
「大将、とりあえず生を四つ頼むよ」ティナはこなれた手つきでジョッキを傾ける動作をし、坊主頭に鉢巻を巻いて割烹着を纏った人物に注文した。
「お、嬢ちゃんじゃねえか。あんた達まだ国には帰ってないのかい。こんな辺鄙な日本なんかにいて珍しい外国のお方だねえ。今日はお連れさんも一緒かい。あんた達日本人っぽいが、変な服装してらいね。そういや最近の若人にゃ、洋服っていう奇を衒ったようなもんが流行りだしてんだって。この国も開国して間もないがねえ、歳とっちまうと駄目だいねえ。変化についていけないのよ。西洋のもんはさ、みんな珍しくって重宝がってはいるけど、やっぱり日本のもんがいいやね。へい、生四つ、お待ち」聞いてもいないことをペラペラと喋る大将であった。ジョッキがどんとテーブルに置かれたのだが、その飲み物に一刻と浜北は驚かずにはいられない。そうこう二人が驚いているうちにティナとホーラはジョッキを持ち上げて乾杯の姿勢に入ろうとしていた。慌てて浜北が止めにかかる。
「ちょ、ちょっと、待った。これってお酒ですよね」珍味でも見るように浜北は白濁して濃厚な泡を立てているジョッキを指差した。
「そうですが、何か。あなた達の時空でも居酒屋という店に入り、飲み物を注文すればアルコールが提供されるはずです。こちらの時空でもその因習は変わりありません」ホーラは目の前にある酒のお預けに一段と不機嫌そうに言った。
「いや、そういうことじゃなくてですね。まずは、ファティナ陛下、あなたは未成年ですよね。お酒はあなた達の世界で許容されているのでしょうか。私は一人の大人として確認しなくてはなりません」銀淵の細いフレームメガネをあげながら、怜悧な顔立ちの浜北は言った。彼の不思議なところは、メガネをかけて線が細い顔立ちでも秀才や冷静といった印象を人に与えないところにある。それは少し太い眉に、厚ぼったい唇をしているせいかもしれないし、感情が面に出やすい特徴からともいえる。
「失礼な。陛下は、」と言いかけたホーラをティナが止め、待ちきれないといわんばかりの動作でティナは勢いに任せてジョッキを持ち上げ「乾杯」と声を張り上げた。そして、ぐ、ぐ、ぐと白濁液を流し込み、「ぷはー」と破顔したのだった。
「私は精神年齢では一九五歳なのだよ。身体年齢は二四歳。いーちゃんと同じさ。ちなみにこの飲み物は日本産の発砲日本酒さ。酒蔵の最新技術で過剰活動させた生の酵母がこの炭酸を作り出し、原料には米だけでなく果実を加えることで甘みと独特の濃くを出しているというわけなのだよ。この時空の一番素晴らしいところは、酒と食べ物が上手いということさ。大将、お代わり」言いながら、ティナは白濁液をごくごくと飲み干していた。
「西洋の文化が入ってきていないということは、この時空の日本は最近まで鎖国をしていたのか?」と一刻はティナの精神年齢の部分にはあえて触れずに聞いた。彼も恐るおそるではあるが日本酒に口をつけ、一口飲むと「上手いな」と小さくこぼした。
「それは半分当たっていますが、半分は違います、時枝様」とホーラ。
「なんか、俺と時枝で態度が違わない?」浜北はホーラとティナに向けて言った。
「うるさい、浜北」とホーラは彼の発言を一蹴して続けた。
「この時空の日本は鎖国政策など一切とりませんでした。しかし、諸外国の特に西洋諸国が日本という国に踏み入ったのが二〇世紀の始めであり、それまでは放置されていたのです。日本が西欧文明に触れた時、西欧はこの国自体を世界文化遺産として保全・保護しようと働きかけました。それ故、日本には意図的に西欧の文化が入り込めない状況があったのです」
「そんなことが起こり得るのですか。国が世界遺産として保護されるなんて。ちょっと想像できないな」一刻は白濁酒をちびちびと飲みながらホーラに聞いた。
「西欧、とりわけイギリスとアメリカが大々的な戦争を一〇〇年以上にわたって継続させていたことが原因でした。西欧諸国はその戦争に傾倒するあまり、アジア諸国の開拓をおざなりにしてきたのです。もちろん日本とも接触がなかったわけではないのですが、極めて片手間に行われた外交だといえます。それだけ激しい戦争が世界を蹂躙していたのです」
「となると、この時空はある意味で純国産というわけか」と一刻はジョッキを持ち上げて、明かりの前に晒し、ガラスの中でシュワシュワと立ち上る気泡を眺めた。日本人が純粋に極めてきた技術の粋を思うと感慨深い一刻であった。この町で見た自動車や道路、文字体型、家屋の立ち並び方といった目に見える部分だけでもこの時空は一刻の知っている日本とは大きく違っている。
「でも、どうして世界遺産になんてなったんですか?」と浜北。
「その理由としては二点あるのだよ。一つは宗教。一つは技術。日本は横浜時代に武士が刹那的な戦士であり、その衰退以降は極めて平和的な宗教大国となった。つまりは神道の興隆だね。それに仏教の理念と布教への貪欲さがあいまって神道はアジア諸国に広まった。この時空で神道はキリスト教、イスラム教、仏教に並ぶ宗派なのさ。
そして、技術面で言うとね、戦争を凍結させた二〇世紀初頭の西欧諸国は、日本という国に踏み込んでみたら科学的にも経済学的にも自国と遜色がなく、それらの細かい分野で見れば戦争をひっくりかえしたであろう技術を持っていたのだよ。具体的には細菌をはじめとする微生物の研究にはじまり、遺伝子への着想も二〇世紀の始めに端緒をみている。他にも金型や鋳造では世界トップクラスの技術水準にあったことなどが大きな理由さ。大将、ちょっと包丁を見せてくれるかい?」とティナはカウンター越しに声をかけた。
大将は漆黒に鋭く光りを反射する刃物を目の前に掲げて見せた。
「柔平の村雲術式、大業物でございやす。あっしの腕はこいつに磨かれたようなもの。刃先の先の先まで神経が行き届いたように伝わり、食材の声を届けてくれる。随分と世話になりやした」大将は愛おしそうな目つきで刃渡りを眺め、感謝の意を込めて、何より共に戦ってきた戦友に語りかけるかのようにいうのだった。
「柔平とは鍛冶屋の名称で、日本では随一の腕を誇る職人です。村雲術式とは刃渡りの角度形状を指す用語で、大業物はその刃物の等級を示します。この時空において鍛冶屋は職人という位置づけよりも優れたマテリアル研究者と認識されています。もちろん鉄を鋳造した刃物も一般的ですが、この店の大将は炭素合金で精製された最高級の高度を誇る業物を私用しています」
ホーラが話す傍らで、小気味の良い音をさせながら大将は腕をふるっている。笑顔を崩さずにいるが、四肢の動きに一切の無駄がなく、洗練された料理人であることがみてとれる。
「嬢ちゃん、うんちくはいいから、ほら突きだしだ。食べないね」大将は小鉢をテーブルに置いていく。艶のある桃色をした蛍烏賊に塩昆布をまぶし、食用菊が添えられている。色合いも鮮やかながら、蛍烏賊の1匹1匹に飾り飾包丁がなされているあたりは芸の細かさが感じられた。粋な居酒屋でたまに出される、板長の創作といった感じがたまらない、と一刻は思った。その料理を口にした途端、一刻の口内は爆発するような衝撃に襲われる。
摩り下ろした生姜を加えた醤油とだし汁で蛍烏賊をさっと茹で、付け合せの食用菊は薄めた素で酸味を加えている。手製の昆布を細かく刻み、岩塩で揉みこんでいるのだろう。それを日中の寒暖差が激しい冬季に天日干し仕上げる。烏賊へ施された飾包丁はだし汁を染込ませるために行われ、内臓部には極細の注射器ですだちを少量流し込んでいる。手間と味の複雑さは一級の品であるが、その調理肯定が味わった瞬間に想像できるというシンプルさがあった。優れた料理はと食した人が、素材や調理方法を直感で理解できるものだといわれている。シンプルに上手いとはそういうものであり、お袋(母親)の味がどんな高級レストランにも引けをとらずに愛される理由はそこにある。ただ、大将の料理は複雑ながらシンプルさを演出するという離れ業だ。
一口噛むごとに烏賊の内臓から出される苦味と昆布の旨味が、生姜のえぐみと絡んで溶け、岩塩の辛さはじわじわと口内に広がり、少量の酢がそれを若干中和して消すが、それでも少し塩辛い。だから酒が進む。一刻は発砲日本酒を一口含んで喉へ流し込む。その甘みが、料理の辛味を完全に無かったことにし、口内をクリアにすることで、次の一口への準備を整えることができるのだと気づき、驚いて大将をみた。
「天才ですか」世界諸国を回り、多くの料理を食してきた一刻もこんなに感動したものはない。
「よしない。これくらい普通さね」大将はあからさまに照れていたが、咳払いをして続けた。「あたり(つまみ)はどうするんだ。今日は近海で良い魚が入ったから、捌こうかね」
「頼むのだよ、大将。あとは適当に持ってきてくれたまえよ。大の男が二人もいるのだから沢山持ってきて構わないさ」
「あいよ」と大将は腕まくりをし、厨房へ激を飛ばす。調理方法の細かい専門用語は一刻には理解できなかったが、複雑な工程を簡潔な言葉で伝えていることが音節で理解できた。
「もしかして、この時空でもっとも発達しているのは料理なのですか?」浜北は言った。
「言い得てはいますね。金属研究もそうですが、それを凌ぐ知識と研究が食物になされたことは確かです」ホーラは満足気に烏賊を食べてながら言った。「麻薬なのさ」と意味ありげにティナは小さく付け加えた。
「麻薬?」と一刻は口ごもるが、その言葉にティナもホーラも反応はしなかった。
上手い酒と料理を存分に楽しんだ酒宴で彼女達の性質というものが明らかになった。口火を切ったのはホーラだった。「時枝一刻。貴様は私達のことについて、既にどういう存在か気づいているのだろう。たとえ気づいていなかったとしても何故聞かぬのだ。ええ、黙っていては分からないではないか」
彼女の目は据わり、ひどく酔っていた。酒癖が悪い人物の典型的な模範生で、口調や態度そのものが変化してしまっている。
「そうなのだよ、いーちゃん。君は考えていることを滅多に言わないところが魅力的だけれど、それも節度が過ぎるとこちらは悲しいものさ」とティナは上気した顔で言い、「そうだ、そうだ。陛下の言うとおり」とホーラは囃し立てる。しかし、しきりにティナの頭を撫で回し、頬っぺたをプニプニと弄んでいるホーラ。既に主従の関係は崩壊していた。
「え、時枝さん。彼女達の存在って。まさか、まだ何かあるんですか。ちょっともうやめてくださいよ。常識の限界ぶっ飛んじゃってついていけないですよ、僕。ただでさえ今日はショッキングだったのに」テーブルに肘を付き、雫がしたたるグラスを虚ろな目で眺める浜北は言った。彼も相当に酔っているようだが、どうにか理性を保っている状態だ。
一刻は表情一つ、顔色一つ変化していない。飲んでいない訳ではなく、こっそりとセーブしていたということもない。むしろ彼が一番飲んでいたくらいだ。周りの三人を見ると、相当に出来上がっているために、彼は少し引いていた。「こいつらの介抱すんのやだな」と内心毒づいていたりもした。いわゆる彼はザルというやつで、異常に酒に強く、酔うという現象が全く起こらない。そんな一刻は先ほどから黙り込み、愚だ愚だとしてきた会話を聞いていたのだが、ここで重い口を開いた。
「まず、確認しておきたいことは、君たちには時間に関する性質がある。私達の体感できない次元で時間というものを認識し、絶対的な時間感覚つまり正確な体内時計があるということ。これをまず前提として考えた時に、次のようなことが考えられる。
まずはコンビニの監視カメラの映像を細工したことや見来さんの時間を止めて人形にしてしまったことから、時間を止める事ができるということ。
もう一つは、この徒歩旅行がそうであるように、現在とは異なる時空を行き来できるということ。
そして三つ目。ティナとホーラに会って私は今日で五日目だけれども、君たちはまるでそんな態度をとっていない。むしろ何年か付き合いのある友人のように私に接してきた。初対面の時からね。そして、ティナは首相官邸へホログラムでメッセージを送ってきたが、その時話していたのは日本語ではなかったのにもかかわらず、既に流暢な言語を習得している。まだ、あるよ。鳥居大臣や蔵持館長の関係についても知っていたし、見来さんや江頭さんといった個性の強い人たちにも動じずに対応していた。浜北さんが川崎の宿場で源頼朝の子孫であることを聞き、横浜に差し掛かった時、ティナは彼を哀れむような表情で見ていた。まるでその心情を予め知っていたかのようにね。さっき言ったティナの精神年齢一九五歳という発言が冗談でないのなら」
「ないのなら?」浜北は充血した目で一刻を睨むように見ていた。どの程度頭で理解しているのか甚だ怪しいが、彼は言っても日本のキャリア官僚である。酒に酔った程度で記憶が薄れることもない、だろう。
「一つは、ティナたちは既に異なる時空の私達に接触していた。それ故に私達のことを知っていたし、領事館の職員についての知識があったということ。二つ目の可能性は、いわゆるタイムループの様な現象で、同じ一年を何度か繰り返し経験しているのではないかということ。誰それが半分何秒後に起きてくる、部屋に入ってくると言い当てられるのは、予知能力が無くてはできない。しかし、もし予知の能力があった場合に世界を崩壊から救うことは容易いように思える。また身体年齢二四歳で、精神年齢が一九五歳というのに説明が付けられない。気になっているのは私達が始めて会った翌日の朝に、ホーラさんが言った、本当は記憶をなくしていないのですか? という言葉。だとすると、私も何年かは君たちとタイムループをしていたのか、と先っきから妄想のようなことを考えていたんだ。ま、バカバカしいけどね」
一刻は頭をワシャワシャと掻いて、「酒に酔ったかな」と柄にもないことをつけ加えた。
「ほんと、そんな馬鹿らしいことあるわけないです。タイムループって、そんな」浜北は笑って一刻の肩をバシバシと叩く。
「後者の方で正解なのだよ。流石はいーちゃん」
「そうだな、時枝一刻殿。流石は陛下が見初めただけの人物だ」
ティナとホーラは口々に一刻を誉めそやすが、一番驚いていたのは一刻自身だった。そして、浜北も顔を引きつらせて彼女達を見ている。
「しかしな、もう一つあるのさ。私の能力は。まあ、それはそれとして、大将! あれある? 癖豆」ティナが赤らんだ顔でカウンター越しの大将に行ったとき、彼の表情が一瞬鋭くなったことを一刻は見逃さなかった。
「お嬢ちゃん、どこでそれを知ったんだい?」大将は調理の手を止めていた。
「ある筋の人物さ。ここにあるって聞いたのだよ。大丈夫さ、私たちは初心者じゃない」
「お嬢ちゃんたちのような外国の方には本来お出ししないんだがね、知っているんだってゆうんなら仕方ないやね」
大将は小さな溜息をついて裏厨房に入っていき、手には小ぶりの平皿を持っていた。
「へい、お待ち。純度は低いほうだいねえ。しっかし、気をつけない。お前さんがたまだ若いのに、そんなものにはまっちゃけないよう。つってもこんなもの提供しているうちの店も店なんだが、そういう決まりもあるもんでねえ。普通のお客さんにはださねえのさ。特別だいね」
コトリと置かれた皿には小さな枝豆がほんの少しだけ盛られている。
「なんですこれ。赤い枝豆ですか?」浜北は興味ありげに手を伸ばそうとしたが、ピシャリとその手をホーラに弾かれた。
「いーちゃん、食べてごらんよ」ティナは悪戯っぽく笑っている。
一刻はためらいも無く豆に手を伸ばし、匂いをかぐ。無臭だった。楕円形の豆を皮から押し出すように口に含み、ゆっくりと咀嚼した。甘み、酸味、辛味、旨味、苦味。全てが渾然となったような味が口内に広がった。まずいわけではないが、決して美味いともいえない。酒のあたりには向きそうにないと一刻は感じたが、それも束の間のことだった。
瞳孔が瞬間的に拡散し、心臓が激しく鼓動を打ち始めた。血管という血管が破裂するのではないかというくらいに圧を増し、全身から汗が噴出すのではないかと思うほど一刻の身体は火照っている。店内の薄暗い光りが眩しく感じられ、視界は白く染まっていく。目をしばたかせても効果はない。
「それは癖豆という、この時空で開発された合成化学食品です。強い身体増強作用と報酬系に強力な作用をもたらす覚醒食品とも言われています。もちろん、この店内で食すのは合法ですが、基本的に生産や食品提供をするのは違法です。本来は医薬品として扱われるべき品であり、なんとこの居酒屋は薬局の指定も受けている為にそれが可能なのですが、限りなく違法です」ホーラの説明は一刻の脳内にグワングワンと反響し、それが彼をいっそう不快にさせた。
「いーちゃん、君はもう気づいているんだよ。私と君が会った時、何が起こったのか。何を見て、何を体験したのか。そしてそれがどういうことなのか」ティナの声は頭の中でくぐもり、高くなったり、低くなったりした。一刻は正面に座っているティナを見ようと必死に目を凝らした。その像もおぼろげになり霞んでいく。
ぼやけた意識に浮かび上がる白い影は残像を逆戻しにしたように像を結んで毛並みの良い、達観した老猫となった。それはいつか見た猫だった。七本の尾を怪しく揺らし、ニヤついた顔で一刻を見つめている。
「願いどおり幼馴染に会えて良かったのう。もう思い残すこともないだじゃろう、違うかえ。終わりにするのだろう。人類を好いておるなどと欺瞞はもうよすのじゃ、一刻。本当は運命など変えられない。時間も戻らぬ。そうじゃないかえ? 愛した人は戻らぬのだから、幻で会えただけでもいいのではないかえ?」
一刻の前で老猫は厭らしい笑顔をし、裂けた口元を開いて舌なめずりをした。