05
霞ヶ関にある外務省本庁舎の地下深くに位置する特殊領事館。その会議室に職員一同と、今回の客人、ティナとホーラが大理石の天板でできた楕円刑の卓を囲んでいる。椅子は革張りで深く沈みこむ、いかにも高級な品だ。照明は地下であることに配慮して、人工紫外線を照射できるものを使用し、壁にはスカイブルーで開放感のある下地に、ゴールドの幾何学模様が線を走らせている。
場はひどく緊張していた。外務大臣である鳥居寛治が先ほどから目をこれでもかと見開いてティナとホーラを凝視しているのだ。蔵持でさえ、そんな鳥居の様子に肝を冷やし、嫌な汗をかいていた。実のところ蔵持と鳥居は親戚筋にあたる。だから彼女には鳥居がどういう人物か良くわかっている。
彼は到底かたぎとは思えない身なりをして、親分外交などと世論をにぎわせるほどだ。その手腕は確かに外交向きであり、これまでに不可能といわれていたロシアとの樺太を巡る領土割譲において折衷案を両国間で成立させ、より強力な和平外交を結んだことに始まり、中国との尖閣諸島の領有権、韓国との竹島を巡る領有権の問題をことごとく解決に導いた実績をもつ。しかし、常にロシアンマフィア、中国マフィア、そして日本のブラックな組織の影が彼の背後には蠢いていた。しかし、鳥居はそれらを隠そうともしないことで世間の批評を跳ねのけた。
「俺にしかできないことがある。文句がある奴はかかって来い。吹き消してやる」と取り囲んだ報道陣に一喝し、黒塗りのセダンに悠々と乗り込んだ鳥居の映像は未だに世間をにぎわせている。その場に居合わせた報道関係者の殆んどの膝が震え、中には失禁するものもいたという噂だ。「凄腕という一言では評せない大臣」という世評を背負ってはいるが、鳥居にとってこの特殊領事館は悩みの種であった。外交相手が人間であれば持ち前の話術と尋常ではない知略と緻密さをもった政略的圧迫外交でこれまで周囲をなぎ倒すことができたのだ。しかし、どうだろう。彼の目の前にいる少女は。頭部に耳が生え、尻からはふさふさとした尾が生えているではないか。この領事館を訪れるのはこんな連中ばかりだ、と鳥居は内心で溜息をつく。しかし、今回は人の形をしているだけましといえるか。
ティナとホーラは鳥居の威圧とも威嚇ともとれる視線を浴びて冷静というよりもリラックスした状態で椅子に座っていた。
この場の進行役である浜北が喋りだす前に鳥居が声をはり上げた。
「状況を手っ取り早く説明しろ。なんだ、この小娘たちは」
居合わせた殆んどの職員はビクつき、背筋をのばした。ただ、時枝一刻はあくびを嚙み殺して、この会議が早く終わらないだろうかと考えていた。彼の興味は既に別のところに移っている。一刻は先ほどから何かを探しているが一向にみつからないのだ。
「時枝一刻、この状況を説明せよ」蔵持は一刻を名指した。彼女もまた鳥居大臣の一喝で怯え切り、状況の責任を一刻になすりつけようとしたのだった。
一刻は冷徹に蔵持を一瞥し、浜北には侮蔑の視線を投げた。国を背負ってたつ官僚がやくざに怖気づき、未知の存在にすらその有能な知能が働いていない。思考停止もいいとこで、それ以前である。
「必要な説明は済んでいます。報告は私の上司である蔵持館長からするのが筋であるはずです。詳細について大臣から報告を求められれば私は口を開きますが」
「時枝一刻…」といって歯軋りをした蔵持。
「面倒だな。私はこちらの世界の委細について興味はない。直々に説明をするが問題ないないかい、大臣殿」ティナは目を爛々とさせて言った。
「うむ、話せ小娘よ」と鳥居。腕組をして椅子に深く座り込んだ。
「陛下に向かって小娘とは何事か!」刀剣の束に手をかけてホーラは立ち上がった。椅子が後ろに飛んで壁に激突した。
鳥居はホーラの刀剣を見て、蔵持に厳しい視線を投げつけた。その視線は、「何故、危険物を持ち込んでいるのか?」と責めるものであった。しかし、蔵持は溜息をついて首を横に振った。
鳥居は蔵持という人物について熟知した上で領事館長を任せている。彼女がよちよち歩きの時から、小学校に入学し中学で初恋をし、高校で失恋し、大学生で結婚し、官僚となって離婚し、その友人知人関係に至るまで把握している。たぶん、蔵持についてその親よりも鳥居は熟知している。関係で言えば叔父にあたる。しかし、愛情のようなものは一切ない。あるのは有能な部下であるとい事実だけだが、信頼がおけることは確かだった。その彼女が首を振るほどの存在だということを鳥居は理解した。
「陛下、失礼しました。無礼をわびます」鳥居は高圧的な口調ながらゆっくりと頭を下げた。
「よいよい。しかし、あれだの。そなたらまるで親子のように息が合っているの」その言葉に蔵持と鳥居は瞬間的に緊張した。それは殆んどの人間は見落とすほどの隙に生まれたものだった。もちろん一刻は逃さなかったが。
「ホーラ、基本的な説明を頼む」
「はい、陛下」
ホーラが語った内容は次のようなものだった。
「私たちは時の支配者。あなた達の知識体系に準じて言えば、生物学名でトキト(time sapiens)、トキト科(timinidae)、トキト亜科(timininae)。つまり、私たちはヒト+トキの生物学的存在なのです。
私たちはこの地球の異なる時空から訪れました。生物はこの現在において約四〇億年前に誕生し、膨大な時を費やした進化の過程を経てヒトとなったのです。しかし、生物の起源をたどったその道筋で、あなた達ヒトに必ずしもいきつくわけではありません。有機微生物から水中生命体になるまで過程においてさえ、その生物が進化を遂げる過程は決して必然的なものではなく、偶然による産物なのです。進化の過程においてあらゆる分岐した存在として、あなた達ヒトがいて、私達トキトがいます。枝分かれした可能性により私たちは異なる存在としてこの地球で生存しているといえます。
私達トキトの祖先は四億年前のスノーボール(地球全土の凍結)を経てカンブリア爆発による生物の一斉多様化の時期に端緒があります。ある真菌は非常に寒さに弱い種でしたが、氷河期において自らを時間凍結することで生き残りを図ったのです。その菌を私たちは時菌と称しています。この時菌は生物としては非常に劣等種であり、食物連鎖の最底辺に位置する菌類でしたが、他種への寄生能力を獲得し、カンブリア期において生存に成功したのです。しかし、時菌はあなあたちの時空では生き残ることの無かった種です。これも偶然という可能性の分岐といえましょう。
そもそも時菌が寄生したのは生物として始めて『眼』という器官を発達させた三葉虫です。しかし、時菌が寄生した三葉虫は…」
「ちょっと、ちょっと、待て。時間凍結ってなんだ。そんなものありえないだろう」裸体を布団で簀巻きにされた江頭は、首だけを円筒の布団から出して言った。
「そなたらが認識できるのは三次元の世界化であろう。しかしな、我らは時間というものを客観的な観測事実としてではなく、極めて主観的な感覚として認識できるのだよ。四次元を体感しているのさ。時間凍結は先ほどホーラが見せたであろう」とティナは、気障な姿勢で固まっている見来を指して言った。
「私たちは、これがアンテナの様な機能を果たし時間というものを知覚し、操作することが可能なのです」ホーラは猫耳をひくつかせた。
「さっぱり分からん」と蔵持。
「認識できないものは想像もできないのが普通だね。私もこの感覚をそなたらに説明することは不可能に近いのだよ」と言ってティナは悪戯っぽく笑った。
「お前達の起源や特性は大よそ理解できた。つまりお前たちは複数の可能性が分岐した平行世界からやってきたのだろう。それで、何故この世界にやってきた」ドスの効いた、しかし透明感のある声で鳥居は言った。この声に普通の人間なら怯まないものはいない。脳の奥の恐怖を感じる場所に直接響くような音なのだ。
「流石、大臣殿は飲みこみが早い。さて、ここから本題さ。そなたらはこの生物を知っておろう?」ティナは小さな手を胸の前に差し出すと、そこからフワフワと漂うクラゲが出現した。
「クラちゃん!」一刻は叫んで立ち上がる。そう、彼が探していたのはクラちゃんだった。昨晩からとんと姿を見せていないことが気がかりで、彼は嫌な予感がしていたのだ。
「これは私達の世界では『運命と時の者』と呼んでいる宇宙からの使者なのだよ。そなたらは宇宙の意志と称しておるそうだね。広く無限の可能性で分岐したこの世界において、この者がある個人に懐いたのは私を除いて、この世界の時枝一刻の他にはいなかった。そして、この者が予知した通り、この世界は滅びる。これから一年後じゃ」ティナはクラちゃんの柔い傘を人差し指で突いた。ふわりと波紋が広がるように傘は波打ち、透明な色がみるみる漆黒の闇へと変化していく。
「崩壊は静かに訪れる。災厄や戦争による物理的な損傷が原因ではない。忽然とこの地球は消え去るのだよ。存在が消滅する。我らは時を支配できるが、この力を持ってしてもそれは止められない。
故に、このクラゲが私の他に懐いた一刻殿の力をお借りしたいのだよ。私の『運命と時の者』と一刻殿のクラちゃんは既に統合し、一つになった。崩壊を止められる時間はこれより三六四日」
クラちゃんの漆黒の傘は肥大し、円卓を占めるほどに膨れ上がる。漆黒の傘の中には煌びやかに瞬く星達が集合した太陽系が映し出され、青々と輝く地球が投影された。ティナの「崩壊」の言葉と共に地球は忽然と姿を消し、引力を失った月は太陽に衝突。燃え尽きた。地球の自転に依存していた衛生は悉く迷走し消滅してく。一時的に太陽系のバランスが崩れたが、それは宇宙という無限の時間の中ではほんの一瞬で、エントロピーの法則に伴ってカオスは次第に収束していった。不可解な、原因すらみとれない事象によって地球は消えた。
リアルで生々しい映像を見せられ、一同は固唾を飲んだ。
「日本国、いや地球を代表して伺いたい。私たちは何をすればいい」鳥居はテーブルに肘をつき、落ち着き払った姿勢で言った。しかし内心ではこの事態をどう処理していいのか分からなかった。
ホーラは立ち上がり身を乗り出した。
「時枝殿をこちらの世界に大使として迎え、トキトとします。この件に関し彼の助力は不可欠であり、我等にお譲りいただきたい」反論は認めませんとホーラは付け加えた。
苦い顔をしたのは時枝一刻本人と伊井奈緒だ。しかし、蔵持も鳥居もほくそ笑んでいた。厄介者が払えるのだ。浜北は複雑な表情で事態を見守っていた。事務仕事は常識的な時枝が来て以来、格段に楽になっていたが、それを除いても浜北には釈然としないものがあった。外務省官僚として特殊領事館に新採用から配属された彼は、何故か採用一年目にコンビニ店員を命じられた。浜北は語学において五ヵ国語を話し、書字であれば二〇ヵ国語をマスターしている秀才である。コンビニの店員とは縁もゆかりもないが、その語学力は外務省のコンビニでは大いに役立った。そして特定機密への入り口であるバックヤードの冷蔵庫の管理も彼に一任されていた。一年の勤務を経て彼はその地下に潜った。おかしな境遇にあるが、出世を約束された身だ。しかし浜北は同い年の時枝一刻には言い知れない思いが心の底にわきあがる。嫉妬ではない。競争心もない。優越感でも劣等感でもない。
強いて言えば境遇の違いから生まれた運命の差とでも言うもの。そこから嫉妬も競争心も優越感も劣等感もない交ぜにしたものが一切そがれて浜北の眼前を過ぎ去っては度々現われるのだった。だから彼はこう言った。
「私が責任を持って彼らに同行し、地球の崩壊が止むまでそのレポートを行いましょう」
浜北の発言に最も驚いたのは蔵持だ。もっと保身的なやつだと思っていたのに、と彼女は舌打する。そして美味しいところをもっていかれたと思うのだ。
「あい分かった。浜北事務官を監督役とし、時枝一刻外交官をお前らの世界に派遣しよう」
鳥居大臣は時枝財閥の問題児を目の前に、厄介払いができたと笑みをこぼしていった。そもそも一刻は彼の祖父、時枝整司が推薦したことによってこの領事館に赴任してきた経緯がある。しかし、推薦の話を持ちかけたのは蔵持であり、その渦中にある蔵持は目を据えてただ事態を見守っていた。
「大臣殿は先見の明があるとお見受けする。礼を言おう」そう言ったティナの目は険しかった。これから先のことを思うと暗澹たる気持ちを消せないのが彼女の心情だ。この先、膨大で過酷な年月を時枝という年端もいかない青年に強いることなるのだから。
その後、煩雑な事務手続きを経て、ティナとホーラは特殊領事館の特命大使としての任を受け、時枝一刻は彼女らの世界の大使としての任を配した。
翌日、東京都中央区日本橋の中央柱の前に特殊領事館の職員数名とティナ、ホーラが立っていた。日本橋の中央柱には空想上の生物である麒麟があしらわれており、それも翼のある麒麟を意匠とすることで、世界に羽ばたく都市という願いを込めているらしい。その麒麟をティナは眩しそうな眼差しで見上げている。
ティナとホーラは既に帽子や外套を着てはおらず、猫耳や尻尾も隠してはいない。というのも、堂々と出してしまえばこの東京という土地柄からか、コスプレに見えてしまうから不思議なものだった。幸い、ティナの透き通るようなブロンドの頭髪や金色の瞳も、人々からは単なるコスプレイヤーとして受け取られる一因となった。時折足を止めて、携帯電話のカメラでこっそりと写真を撮る者もいたが、ティナやホーラはこなれたようにポーズをとって愛想をふりまいたことで、領事館の職員を驚かせた。彼女たちはどうやらこちらの世界にかなり溶け込んでいるように見えて仕方ない。
午前九時半を回った頃には歩行者もまばらになり、比較的ゆったりと歩く人が増えはじめていた。時枝一刻と浜北和哉は、特殊領事館の大使として初めて他国(国といえるかは不明だが)に赴くことになる。それなりの正装をすべきと蔵持は判断したのだが、それがかえって彼ら一行のコスプレ感を強めてしまっていることは否めない。
「さて、いくとしよう。お見送りご苦労であった」ティナは蔵持と伊井、見来や江頭に手を振ってトコトコと歩き出した。それにホーラが無表情でついて行く。
実はどうやってティナの世界に行くのか、といった肝心のことを領事館の職員は知らされていなかった。ただ、「日本橋の上からなのだよ」と言われ、それなりの方法で移動するものだと誰もが思っていた節がある。それなりの方法とは、パッと消えて時間旅行に出かけるとか、想像もつかないような動物が迎えにくるとか、そういったファンタジックなものだ。一刻は某魔法使い映画を最近鑑賞したこともあって、てっきり日本橋中央柱の麒麟像が異世界への入り口で、壁に向かって歩いていけば異世界に着くのではないかと若干期待していたものだから、ティナが品川方面へ歩き出した時には思わず浜北と顔を見合わせた。
「陛下、ちょっと陛下。まさか、歩きですか?」一刻は慌てて追いかけ、ティナの横に並ぶ。
「そうだ。歩いていく。何か変かい? それから陛下というのはやめてくれないか。ティナでいいと言ったはずだよ、いーちゃん」ティナは一刻を見上げ、足を止めることなく歩いている。表情は前を見て、大きく手を振って、さあ、これから歩きますよと言わんばかりの勢いだった。
何が変なのか、と聞かれたところで一刻にもそれは分からない。浜北にもだ。後ろから怪訝な表情で見送りの領事館職員もティナの後に付いて歩いていた。
「ファティナ様、どこかに異世界への入り口があるんですよね?」浜北は恐るおそる聞いた。
「そんな訳ないじゃないですか」とホーラは侮蔑の表情で浜北を見た。あなたお気は確か?と言わんばかりのその顔に、浜北は困って一刻を見た。一刻は首を横に振り、降参の合図をした。
「おい、どこで見送ればいいんだ、陛下殿」剣のある声で蔵持は言った。そこでティナとホーラは、見送りに来ていた職員が付いて来ていることに気づき、ぴたりと足を止めた。
「そなたらも私達の世界に来たいのかい? これだけの人数をまとめるのはいかに私とホーラといえど無理なのだよ。時空を超えるのにはせいぜい四人が限度なのさ。そなたらはそこで見送ってくれたまえ」ティナは言った。
「だから、時空ってのはどこで超えるんだ、嬢ちゃん。俺はロリコンじゃねーんだ。返答によってはここで脱いでもいいんだぞ、あぁ」と江頭は言い、思いっきり伊井に頭をはたかれた。ホーラがティナの前に立ちはだかり、江頭との間に入って言った。
「あなたたちは何か根本的に思い違いをしているようですね。時間とは実体のない物理的連続体です。ある地点で急に途切れたり、ある地点から急に別の時空へ移動することなど不可能なのです。連続体である潮流を遡上するように私たちは時空のずれを進みます。故にその行程は暫時的な移動により行われます。ですから、異なった時空においても共通して存在する『道』を使用します」ホーラは極めて事務的に言い、領事館の面々を見回した。
「では、私の愛しい人。いってらっしゃい」と見来はさりげなく腕を広げてホーラに抱擁しようと近づいた。ホーラはキッと蔵持を睨みつけて視線を飛ばし、蔵持はそれに肯首して応じた。ホーラは抜刀し、見えない刀剣を見来の胸に突き刺した。憐れ、見来は口をすぼめて接吻を求め、腕を広げた姿勢で時が止まった。
「もしかしてその道って」内心、参ったなと思いながら一刻は聞いた。日本橋を始点に品川方面へ向かった時点であることを一刻は考えていた。まさかその予感が的中してしまうのは、非常に気が重かった。
「そう、東海道さ。最も私達の世界ではRoute Fate(運命線)と称されている街道なのだよ。もちろん終着は京都の三条大橋」ディナはあどけない顔で笑い、進行方向へ向き直って歩き出した。背を向けたまま手を振り、それにホーラが続いた。
一刻はちらりと伊井の顔を見たが、彼女と視線が合うことはなかった。