04
カーテンの隙間から差し込む朝日が瞼にあたり、一刻は目覚めた。多くはない睡眠時間だったが、頭はすっきりとしていた。最近の激務を思えば、少しでも熟睡できる時間があることはありがたい。それにしても妙な夢を見たものだと一刻は布団の中で伸びをして思った。人生を走馬灯の様に、あるいは映画のダイジェストを見ているようにリアルで克明な夢だった。伸びをしたまま壁側に向かっていた体を寝返る一刻は飛び上がった。
セミダブルのベッドでやけに端のほうで寝ていたのはおかしいと思ったら、横にこんもりとした山が二つ。一つは非常に整った顔立ちの女性。もう一つは布団をすっぽりとかぶって頭しか見えていないが、その頭頂部には人間のものではない耳が見えている。
一刻はそっと音を立てずにベッドを降りた。その時、朝食は三人分だなと一刻は考えた。
時枝一刻は極めて常識人でありながら変人であると称される理由はこういうところにある。つまり状況をすべて受け入れてしまい、その先に思考が向くのだ。過去は振り返らない。振り返ったとしてもそれは重要な局面でのこと。だから彼はひたすら先のことを考えて行動し、がむしゃらに異国の部族へと接していったのである。
コポコポとお湯が沸き、サーバーではコーヒー豆の粉が湿める傍らで、フライパンにはベーコンが香ばしい匂いと音を立てて焼かれている。卵が三つ落とされて蓋をした。
ガチャ。
「おはよ、いーちゃん」
「おはよう」一刻はせわしなくダイニングキッチンの中で動きながら言った。
「君の良くないところは何も分からないのに、そうやって達観しているところさ」
一刻は朝起きて知らない女性と少女が横で寝ていても驚かない。何故だと問われても困るのだが、時枝一刻はそういう人間なのだ。
「よく言われるよ。さあ、朝食だ」一刻は手早く三等分に切った目玉焼きを取り分けて皿に移し、こんがりと焼けたトーストやサラダ、自家製の漬物をテーブルに並べていく。用意ができると二人は物静かに食べ始めた。
「テレビでもつけるかい?」と少女は言った。
「いや、朝は静かなほうがいいよ」と一刻は笑って少女に言った。トーストに目玉様焼きとベーコン、レタスを挟みこんでマヨネーズをかける。一刻は男らしくそのトーストにかぶりついていく。カチャカチャと食器が小さくぶつかる音だけが部屋に響く。
「名前を聞いてもいいかな?」と一刻はようやくというタイミングで切り出した。というのも、少女と女性の二人が揃ったら聞こうと思っていたのだが、一向に女性の方は起きてくる気配がないのだ。
「私はファティナ・ベルナルクル・サークリフト十三世。ファティナというのがファーストネームなのだけれど、呼びにくいだろうからティナと呼んでくれたまえよ。私は君のことをいーちゃんと呼ぶからな。いいだろう?」
ティナは少女の面影こそあるが、喋り方は貴族を思わせるような雰囲気があった。また、動作がおっとりとし、見ようによっては非常に優雅ともいえる。しかし、トーストにこれでもかとイチゴジャムを塗りたくり、一刻がコーヒーのために用意した砂糖をこれでもかと振りかけて食べていた。その様子を一刻は目を丸くして見ていた。
「俺の名前、言ったかな?」そう、問題はティナが非常に甘党だということよりも、一刻は彼女へ自己紹介をしていないのだ。昨日はティナが泣き始めた所で記憶が飛んでいる。おそらく何かが起こったに違いないのだが。
「知っていた、というよりは前に聞いたからな。因みに、私と一緒にいるのはホーラ・バディナスという従者だよ。あと二分十七秒後にその扉を開ける」ティナは上手そうに山盛りジャムのトーストをかじっている。一刻は彼女のコーヒーへ多めに牛乳を加え、レンジで温めなおし、山盛りの砂糖を加えてやった。ティナはそれを嬉々とした表情で飲み、頭部の耳をピクピクと動かし、尻尾を左右にひらつかせた。その間、一刻は頭の中で数えていた。ちょうど、二分十七秒後に扉は開いた。
「おはようございます、ファティナ陛下、一刻様」ほとんど目も開いておらず、ふらついた様子でホーラはやってきた。
「おはよう、ホーラ。昨日はすまなかったな」とティナは言った。
「おはようございます、ホーラさん」と時枝は言った。そんな彼の様子にホーラは驚いて目を丸くし、急に目が覚めたようだった。
「なんです、本当は記憶があるのですか、時枝様? 昨日は私達を騙されたのですか? 酷いではありませんか。陛下が感情を乱してタイムストーム(時空嵐)まで起こしてしまったというのに」ホーラはまくし立てるように一刻へ迫った。彼女のイチゴ柄のパジャマの裾を引っ張り、ティナは彼女を椅子に座らせた。
「こらこら、ホーラ。いーちゃんの性格をよく考えてみたまえ。彼は記憶があろうと無かろうと、変わらないのだよ。良くも悪くもいーちゃんはそういう人間なのさ。そして、いーちゃん、君は私達のことを知っていたかい? 私達に関することのあれこれを、思い出を、甘い日々を、蕩けるように濃密な時間を、覚えているかい?」どうだい、と少女のあどけない顔で、冷酷な人間を哀れむような冷めた目でティナは一刻を見やった。
しかし、一刻にはとんと彼女らに関する記憶はない。あるとすれば首相官邸に届いたホログラムに投影された彼女の姿だが、それが甘い日々と関係するはずもないことくらい一刻にも分かっている。
「申し訳ないですが、ないですね」一刻はほとんど申し訳ないとも思っていない口調でさらりと言った。それにホーラは肩を落とし、ティナは目に涙を溜めた。
「陛下、もう泣かないで下さいね」
「分かっておる。私はもう泣かないさ」
「どうして彼なのです。どうしてこんな人でなし…」ホーラは恨みがましい目で一刻を睨みつけ、鼻の頭に皺を寄せるほど悔しそうな顔で言った。
「ちょっと人でなしって、酷くないですかホーラさん」一刻はコーヒーを啜りながら苦笑いをして言った。
「酷いのは君なのだよ、いーちゃん。まあ、よい。いろいろと込み入った説明をしなくてはならないが、まずはあの窮屈な領事館とやらに出勤して面倒なあれこれを済ませてしまおう」
「そうですね、陛下。三回目とはいえ、あれをやり過ごさないことには先に進めませんから」
ティナとホーラは申し合わせたように話し、そそくさと朝食を済ませた。一刻は訳も分らないままに出勤の準備をした。その時、一刻の考えていた事はというと、訳の分からない少女へ対する好奇心や期待、あるいは不安ではなく、何故彼女たちは自分のことを知っているのかと言った疑問ですらない。
そういえば朝からクラちゃんが姿を見せていないな、というちょっとズレた、しかし核心をついたものだった。
一〇時一〇分前、一刻は職場の扉を開けた。
「おはようございます」と声を張っていいながらデスクに付き、PCの電源をつける。見れば大半の職員は出勤しているようで、中でも蔵持と浜北は書類作成に追われ、結局徹夜をしたような面持ちだった。キャリア官僚も大変だと一刻は思う。
「あ、そうだ」と何かを思い出したように一刻は立ち上がり、蔵持のデスクに向かった。
「蔵持館長。報告があります」背を正し、一刻なりに真剣みを持たせて言ったつもりだった。
「なんだ、時枝一刻。一時間後には未確認生物について大臣レクだ。それに私は寝不足で機嫌が悪い。下らない報告だったらぶっ飛ばすぞ」蔵持の目の下にあるクマは尋常ではない暗さで、更に目の充血も常軌を逸していた。これは事によっては死ぬかも知れないな、と一刻は身の危険を感じ、ちょっとしたジレンマに陥った。言わなくてもぶっ飛ばされるだろうが、言ってもぶっ飛ばされるだろう。そのとき、タイミング悪く一際陽気な人物が事務室に入ってきた。
「ひゃっほうございますぅ(おはようございます)。ヒュー、今日も綺麗だっね、館長。僕と付き合わない? おっと、その目元のアイライン、色っぽいよぉ。もう館長ってば、そんなにめかし込んじゃって、俺のこと意識してる」稀代のチャラ男、見来晴彦には目元のクマすら自分を誘惑する化粧に見えるのだろう。どうやら見来は昨晩、そのまま繁華街に繰出したらしく、昨日の格好のままやけに肌の艶が良くなって出勤してきた。
「死んでくれ、見来」蔵持の形相は般若の如しだ。
「あのう…」と一刻。
「なんだ」と鬼のごとき蔵持。
「今日もお美しいですね」笑えない冗談を一刻は言い放った。時枝一刻は普段は冗談など一切言わない、ユーモアのかけらもない人間である。それ故に、彼が発する時として北極のブリザードよりも凍てつく発言に何度職場が極寒の局地に陥ったか分らない。
「おお、そうか…」しかし、当の蔵持の反応がおかしい。ちょっと顔を俯けて赤らみ、もじもじしていた。
「思春期か。なんで館長は顔赤らめてモジってんすか。それに時枝さん。場を弁えて下さいよ。あの人はいつものことだからほっとくとして、あなた何を報告しようとしていたんですか」浜北和哉は堪らず突っ込みをいれ、一刻を促した。
「浜ちゃん、怒らない?」と一刻。
「怒りませんってば。まあ、内容によっては館長は怒るかもしれませんが」と浜北は蔵持を横目でみたが、彼女は気まずそうに書類の端をトントンと揃えてデスクの上を整理していた。内心、浜北は舌打をして鼻腔を広げ、一刻に向き直る。
「ターゲットである未確認生物に接触しました」その場が一瞬で凍りつき、皆が五秒ほど静止して一刻に注目した。
「とう!」という掛け声と共に、何か恐ろしく早い塊が一刻に向かってきた。「へぶし」と情けない声を上げて一刻は宙を舞い、脇腹を何かに突き上げられたのだ。
「へいへい、へい。一刻ちゃんよぉ。そりゃないってもんですよ」
白衣の前をはだけながら稀代の変態男、江頭は一刻に近づく。一刻もまさかこの男にぶっ飛ばされることになるとは予想だにせず、完全に不意を突かれた形だった。
「一言もの申したいんだけどね、君の行動は目に余るものがあるよ」江頭はとつとつと喋り始めたが、お前が言うかという露出ぶりにみなが唖然としていた。「大体、どうして君にばかり面白いことが起こるんだい。僕だって未知の生物と触れ合いたいんだよ、分かるかい」と言いながら、江頭の逸物は滾り始めた。彼はグロテスクな宇宙人、丁度昔の映画に『エイリアン』というものがあったが、それにそっくりな生物に恋をし、求婚したが敢無く撃沈。あわや消化液で溶かされかける寸前というところまでいったが全く懲りていないらしい。
「時枝一刻。お前は一度席に座り、思い出したように立ち上がったな。まさかそんな重大なことを失念していたわけではあるまい」と蔵持は問い詰めた。
「滅相もございません」一刻は言葉とは裏腹に、作り笑顔で誤魔化そうとしている。これは彼の悪いところだ。笑顔で大抵のことは誤魔化せると思っている節が一刻にはあった。
「まあ、いい。で、その生物は今どこにいるんだ」
「ちょっと失礼」と言って一刻は館長席の後ろにある九台の大型ディスプレイの電源を入れた。九つの画面は更にこと細かく細分化され、霞ヶ関に密集する各種省庁の監視カメラに接続されている。「これだな」と一刻はある場所を指定してクローズアップした。そこはまさに、この外務省特殊領事館の入り口であるコンビニエンスストアであった。店内の様子がいくつかの画面に分かれて映し出されている。店内は至って普通のコンビニであるが、客層は幾分変わっており、外務省へ用務で来たと思われる外国人や出入りの業者、スーツを来た官僚などなど。しかし、その客層の中で若い女性が二人、正確には女性と少女が二人雑誌コーナーで立ち読みをしている。普通のコンビニであれば珍しくもない客なのだが、何しろここは外務省の南館内にあるのだ。彼女たちは相当目立っていた。
「あの少女のほうですね、ホログラムの映像に映っていたのは」
職員たちは皆ディスプレイの前に集まり一様に注目し、浜北は少女を指差して言った。
「僕はロリコンの趣味はないのだけれど、あの横にいる見目麗しい女性は誰だい? ひょっとして僕の新しい恋人だろうか」もはや見来に突っ込みをいれるものすらいない。
「彼女はあの少女の従者だそうです。今朝説明を受けました」
「なるほど、では時枝さんは今朝方、あのお方たちに接触したというわけですね」多少説明くさし言い回しを浜北はすることがある。
「いえ、接触したのは昨晩自宅へ帰ってからです。いろいろあって、朝起きたら横で寝ていました」
その場にいた全職員が言葉を失った。「いろいろ」の部分を端折り過ぎだろう、と言いたいところだが、それ以上に昨晩接触をしていたことや、横で寝ていたということも訳が分からない。しかし、本人の一刻自身ですら何も分からずにいるのだろうと皆が理解できた。そもそも未確認生物は大概にしてそうなのだ。
「あー、もう。くそ。浜北和哉、すぐさま入館手続きの書類を用意しろ。時枝一刻と伊井奈緒は奴らを迎えにいけ。江頭寛治、白衣の下に何か着て来い。そして見来晴彦は適当に死んでてくれ。それから…」蔵持は手早く職員達へ指示を飛ばしていった。彼女の指揮は的確で無駄がない故に信頼され、この領事館にはなくてはならない存在である。
「その必要はないのだよ、蔵持館長」いつの間にかティナは事務室に入室し、戸口の前に立っていた。彼女は大き目のキャスケット帽にパーカーを羽織ってはいるが、その下にはいかにも高貴な身分を思わせるシルク地に金糸で刺繍を施した着衣を纏っている。帽子とパーカーは一刻が取り急ぎ量販店で購入したもので、頭部の猫耳と尻尾を隠すためのものだった。
「私はファティナ・ベルナルクル・サークリフト三世である。この同じ地球の異なる時空からやってきた、時を支配する眷族だ」ティナは帽子とパーカーを脱ぎ、凛とした表情で言った。猫耳に尻尾という、冗談のような見た目に誰もが見入っている。ティナは見た目こそ少女であるが、言葉を発し身振りを加えれば品性がにじみ出ている。
「私はその従者、ホーラ・バディナスでございます」ホーラは慇懃な調子で言い放ち、帽子と羽織っていたコートを脱ぎ捨てた。しかし、彼女には猫耳と尻尾を隠すほかにも、もう一つ隠さなくてはならないものがあった。
それは刀剣だ。どうやら彼女らの主従関係の中で、ホーラは外出の際は帯刀することが義務付けられているらしい。しかし、ここは日本であり、もちろんそんな物騒な見た目のものを、たとえレプリカであろうが持っていれば銃刀法違反となる。そこで外出する際、一刻は世界中を駆け回っていたときに地図や海図を丸めて入れておくのに重宝した円筒型の製図入れ(アートチューブ)を出し、その刀剣を隠した。
ホーラがそのアートチューブから刀剣を出すと場が静まり返った。見た者を刺すような切れ長の眼光に、薄い唇、上背は長身の蔵持館長よりも高く手足も長い。ピンク色のシャツに赤いマント、臙脂色のスカートという女性らしい格好をしているが、その赤色もどこか血の匂いを思わせるところがある。
「どうやって入ってきた?」蔵持は眉に皺をよせ、後ろのディスプレイを指差しながら険しい表情で言った。そこには確かにティナとホーラが映っている。仮にもここは日本国の特定機密保護法で隠匿された場所である。関係者以外は許可無く立ち入ることなど厳禁であることは言うまでもない。
「言ったであろう、我らは時の眷属であると。それくらいの小細工は安いのだよ。さて、これから鳥居外務大臣殿と打ち合わせなのであろう。手っ取り早く特命大使の任を拝そうではないか。種種の調印も必要であろうな。我らは少々急いでいるのだ。
それから、これから三〇秒後に全裸の男が部屋に入室してくるが、私の恩情で許してやる。そしてその10秒後に入室してくる、見た目だけはいい男が即座にホーラをナンパし、痛い目を見るが彼に非があるので許してくれ」ティナは目に柔和な、しかしどこか深い色を秘めて笑い、蔵持に話しかけた。
「予知か?」怪訝な表情で蔵持は言う。
「これまでの入館者とは根本的に違う感じがするわ。どこの星から来たのかしら、でもさっき同じ地球と言っていたけれど…」と伊井は目を輝かせている。
この時、一刻は考えていた。ホログラムでは全く異なる言語を話していたにも関わらず彼女達が流暢に日本語を喋っている理由を。監視カメラの映像に映りながら目の前にいることを。鳥居大臣のことを知っており自分の名前も知っていたことを。更にはこの領事館に自力で入館してきたということを。そして未来を言い当てられることを。
その三〇秒後、江頭は全裸で事務室に突入し「裸の王様参上。どうだ参ったか、このアバズレ女」と蔵持を罵り、こっぴどく叩かれた。その一〇秒後には見来が入室し、何のためらいもなくホーラを口説き始め、ホーラは抜刀して見来を突き刺した。といっても刀身のない束のみの剣に刺されたといっていい。しかし、見来はパタリと動きを止め、その場から凍りついたように固まって動かなくなったのだ。
一刻はおぼろげに分かりはじめていた。彼女達がどういう存在なのかを。