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03

 一刻が宇宙人というものを始めて見たのはその翌日で、最初の仕事は彼らとのコミュニケーションだった。霞ヶ関の地下深くに位置するこの領事館には既に三種の宇宙人、つまり地球外生命体が来訪し、大使として駐在しているものが多数存在していた。その内、二種は極めて友好的かつ知的水準が人類のそれをはるかに凌駕していることから、数日で人類のあらゆる言語を理解し、翻訳することが可能だった。しかし、残り一種の宇宙人とは全くコミュニケーションをとることができず、一切の音声を発することも、なんらの動きも無いままに静止しているため、特務領事館の面々もお手上げ状態だった。

 一刻がその宇宙人の説明を受け、その姿を見たときに感じた第一印象は、本当に生命体なのか、という疑問だった。何しろ、透明な輪郭が時折揺らいで内蔵が丸見えになったかと思えば、深い黒に体色が覆われたり、かと思えば七色に発光することもあった。形はまさにミズクラゲにそっくりなのだが、全長は三〇センチほどあり、大きいといえば大きいが、知的生命体としては小さいのかもしれない。その辺の判断は一刻によく分らなかった。

 領事館のメンバーの中には生物学のスペシャリストがいた。江頭寛治という男で、かなりの変人であるが、その世界では知らない者はいないほどの高名な学者でもある。しかし、風変わりな素行とその行動によって命を落としたと世間には公表されていた。

 彼は動物をこよなく愛するあまり、愛した動物と結婚してしまうという悪癖があったのだ。前妻であるシロイルカのローラが老衰で他界した後、ホワイトライオンのビンシャーに恋をした。二人(一匹と一人)の中はむつまじく、上手くいっているようにも見えたが、江頭の性癖によってその関係は脆く崩れ去った。滾る江頭の一物にただならぬ雰囲気を感じたジャンヒーは警戒し臨戦態勢に入ったまま江頭の喉元を食いちぎり絶命させた。その映像は監視カメラに収められ、ある筋によってモザイクだらけの映像で公表され、江頭の死は悼まれた。というのが表向きの事実だ。動物を愛するあまり獣姦を繰り返す江頭を、動物愛護団体は激しくバッシングし、彼の死は犯した動物からの報復であると揶揄された。しかし、彼は死んでいない。領事館で研究員兼、特務外交官の任についていた。

「げ、江頭さん」一刻は江頭を領事館の研究室で見かけると思わず声を上げた。そして苦虫を噛み潰すように「生きてたんですね」と付け加えた。

 顎を引き、目に力をこめ睨みつけた江頭はしばらく時枝を見ていた。禿げ散らかした頭髪がこの男の薄幸をよく表している。「時枝君…」と言った江頭はいきなり俊敏な動作で動きだしたかと思うと、一刻に向かってヒップアタックをお見舞いした。迫る尻を寸でのところで交わした一刻は言った。

「相変わらずだ。すべての動物のために死ねばよかったのに」

「残念ならが私は生きているのだ、すべての動物のために、とう」ヒップアタックを繰り返す江頭。闘牛士のように交わす一刻。

「ちょっとお二人さん。仕事をしてくださいよ。仲が良いのはわかりましたから」と浜北は細い目で引きつった表情で言った。江頭の前では誰もがこんな表情になる。

「江頭博士の知り会いだなんて、品性が知れるってものですわね」と伊井が白衣のポケットに手を突っ込んだまま、牛乳瓶の底のようなメガネにぼさぼさ頭で言った。江頭は白衣のボタンに手をかけながら彼女へ近づいていく。ボタンを外し終わり、伊井の前に到達すると、「ブス」と言って白衣の前をはだけて全裸をさらし、バタバタと翻しては「ブス」を繰り返した。その光景を見て「はあ」と浜北は大きくため息をついた。伊井は江頭の裸を見ても表情一つ変えずに「ハゲ」と罵り、互いに小学生のようないい合いを繰り返していた。


 時枝はしばらくミズクラゲのような地球外生命体を見つめていた。せわしく体色を変える様は見蕩れるほどに美しくもあるが、これが何を意味するのか時枝はおぼろげに感じ始めていた。

「江頭さん、このクラゲさんは何を食べます?」と一刻。

「真水を日に30CC摂取。その他、あらゆる食物を提示したが、接触しては水分だけを取り除いて干からびさせる変なやつさ」江頭は前をはだけて一物をぶら下げて一刻に言った。

「意外と摂取量は少ないな。そうだ、伊井さんは宇宙全般が専攻でしたね。彼はどうやって地球に来たのです。やっぱり人類には想像もつかない宇宙船ですか」

「半年前、突然現われたんです。東京H市にある森林で住民が発見し、警察が保護。その数時間後にこちらで機密事項生物として保護しました。その近辺に宇宙船と思しき物体は一切存在しませんでした」と伊井は白衣のポケットに手を入れて言った。

「明らかに地球外生命体だ。ただ、不可解なのは生物の構造上からいって脳と思しき器官が存在しないことなんだ。体色変化、そして浮遊移動には明確なパターンが存在している」と江頭は言う。

「そのパターンはこの場所に来てからですよね?」

「その前を俺は知らねえからな、なんとも言えん。やつをここから出すこともできねえからよ」と言って江頭は浜北を見た。

「特定機密です。保護されるべき情報ですから」浜北は冷然と言ってクラゲを見据えている。

 この地球外生命体が収容されているのは厳重に管理され、放射性物質も透過しないような設備である。白を基調とした無味乾燥な部屋にクラゲが悠然と漂っている。それを一向はモニター越しに見ていた。

「江頭さん、あなたはもう気づいているはずだ。そして浜北さん、あなたはいくもの言語を喋れるし、優秀な外務省官僚だから分かっているはずだ」時枝はクラゲに哀れみの視線を投げかけてとつとつと話した。

「何がです」と浜北。

「あるメッセージを連続して一定期間繰り返すものはどういったコミュニケーションでしょうか」律然と厳しい表情でいう時枝。

「信号です」

「ではここから導き出される答えは」

 その場にいた全員が黙り込んだ。浜北は唇を噛み締めて眉を寄せた。江頭は肩をすぼめて「救えない場所さ」とこぼした。伊井はゆっくりとした動作でメガネを上げた。

「みなさん、気づいていて私をこの場に立ち合わせたのですね。彼は生命体であるがその本体ではなく、通信媒体に過ぎない。何を伝えたいのか分らない。だから扱いに困っていた」

 誰も反応しない。しばらくしてモニター室の後方、壁に背をもたせ腕を組んでいた蔵持が重い口を開いた。

「その通りだ。文句があるのか、時枝。財閥の御曹司だろうとなんだろうが、お前は特殊領事館の外交官だ。外交相手と対峙してもらう。私達が半年かかりで出した結論をほんの数十分で出すとはな。言って見ろ、お前の文句を」と口元に厭らしい笑みを浮かべて蔵持は言った。そこへ慌てて浜北が口を挟んだ。

「ちょっと待ってください、蔵持館長。彼の発言次第では領事館に多大な影響が出ます。それはこの日本に留まらず、世界的な問題になるかも知れない。例えばこの生命体が地球を侵略しようと目論んでいたらどうするのです」

「知ったことか。勝手に侵略させておけ」

 眉の端をひくつかせて浜北は蔵持をにらむ。ことの重大さが分かっているのかと。

「官僚や国の意向を私は省みずに言いますよ」

「時枝さん!」浜北は叫ぶ。

「この生命体が発しているメッセージはSOS。ただ、ここの物理的な環境でそれは宇宙空間まで届かない。違いますか、伊井さん」

「そうです。その地球外生命体が発している通信波は地球外上で使用されている如何なるものとも異なりますが、地下五〇〇メートルを透過できていません。実証済みです」伊井は言って、時枝から目が話せずにいた。年齢は一回りも下の青年に彼女は惹かれるものがあったのだ。

「彼は今、ここから出して欲しいと訴えている」一刻は言い放った。

「言っちまったか」不気味な笑みを浮かべて江頭は言う。浜北は力なく頭を垂れ、伊井はどういうことかと目を丸くしていた。

「いいだろう。許可する」蔵持は何のためらいも無く言って、しかし、その発言に浜北は驚きもしなかった。蔵持が時枝をこの生物に会わせた時点で諦めてはいたが、いざこれから起こることを思うと、頭を抱えずにはいられない浜北であった。

「書類はいかようにもこちらで整える。その代わり、時枝。その生命体を連れ出すのはお前だ。いいな」

「はい」


 一刻は生命体が浮遊している部屋へと入っていった。この領事館において生身でクラゲのような生物に触れたものはいない。未知の生物であるゆえ、誰もが警戒し厳重な管理のもと処遇されている。それを一刻はいとも容易く破っていく。その様に伊井は言い知れない魅力を感じ、浜北は空恐ろしいものを見るような目で眺め、江頭は嫉妬の目を向けた。蔵持は表情一つ変えていない。

 一刻は部屋に入室すると、クラゲの触手とおぼしきものに躊躇いもなく触れた。この時、流石に江頭はモニター室から声を張り上げた。

「そいつに触れちゃいかん。干からびるぞ」マイク越しに江頭のがなり声を聞いた一刻はそれでもやめなかった。

「ほら、ここから出してやるからな」

 クラゲのほうから近づき、一刻に触れた。互いが触れ合ったとき、一刻に明確なイメージが流れ込んだ。大きな目が近づいてきて、覗き込むとその瞳の奥には無限の宇宙が拡がっている。惑星と惑星が恒星からの光を受けて輝き合い、規則的な動きで周回を繰り返していた。瞬く光はやがて集合し、大きな塊となる。それはぼやけた輪郭の猫となり一刻へ語りかけた。

「また会ったなえ、青年や。しかし、今回は我が言うばかりじゃて。時間がないのじゃ。この生物をはよう仲間の元へ返しなされ。いいかえ。お前が大切に思うておる人類のためだえ。滅ぼしたいのじゃったらこやつはここからださんことだえ。選ぶのじゃ、青年よ。そなたの爺はお前を金でこの組織に売った。時枝家の厄介者、一刻よ。選ぶのじゃて」

 幻覚は消えても、一刻にはリアルなイメージが頭から消えなかった。クラゲに触れてから十秒ほど静止していた一刻を心配し、江頭が部屋に駆け込んできた。

「大丈夫ですよ、触れても」一刻は死んだ魚のような目で江頭を見た。

「そうか」

「外へ出します」一刻はクラゲの触手を引いて歩き出した。


 外務省庁舎の屋上にたどり着くまでに、大きな障害は無かったが、浮遊するクラゲを見られることには浜北と蔵持が気を焼いた。

「これは手品でして。イッツマジック」と浜北はやけに発音の良い英語で誤魔化し、一方別の場面では「最新の3Dホログラムだ」と言って蔵持は観衆に説明した。機密事項が一般人に触れる瞬間こそ特務外交官が気を払うべき事項なのだが、一刻や江頭、伊井にとってはあまり重要なことではなく、生粋の役人である浜北と蔵持はそのことだけが気がかりであったのだ。

 かくして屋上にたどり着いた一行は、広々とした空間に出て、青々と拡がる空を眺めた。新年を迎えていくらも立たない年明けのころ、屋上にすさぶ風は冷たく、裸に白衣を纏っただけの江頭はガタガタと震えている。

 無数のクラゲが江頭の周りを取り囲んだかと思うと、そこを基点にクラゲたちは増え続けた。屋上の床面積いっぱいに増殖したクラゲはその場に居合わせた人間達に語りかけた。

「「我らに攻撃の意志はなし。使者を回収す」」

 幾重にも唱和された機械音声とも肉声ともいえない不思議な音がその場にいた全員の頭の中で響いた。

「ほら、帰れるってよ」一刻は繋いだ触手を放し、そっとクラゲの頭を押した。ふらふらと漂って無数の仲間に溶けていくクラゲ。

「ちょっと待った」大声を張り上げたのは蔵持だ。浜北も宙に漂うクラゲを掻き分けて一刻に駆け寄る。

「まずいですって時枝さん。そう簡単に保護した生命体を開放するわけにはいきませんよ。上への説明もつかない」浜北は眉根を寄せて一刻を見つめている。「でも、攻めてこないって言ってますよ」と一刻はせめてもの反論を試みたが、「そういう問題じゃないんです」と浜北は厳しい口調で言い、その横で般若の様な顔をした上司が睨んでいる。

「時枝一刻。お前は特殊領事館の外交官だ。外交手腕を見せてもらおう。地球に特命大使を駐在させるように掛け合え」蔵持は言った。なんとも横暴な注文だと一刻は怒りにも近い感情を覚えた。今日会ったばかりの地球外生命体と交渉をし、その内容は「地球に特命大使と言う名の人質を寄こせ」と言っているようなものだ。

 その傍らで江頭は白衣の面をバサバサとやり、変態極まりない行動をしているが、やはり地球外生命体には意味が通じないようで、クラゲたちはのんびりと漂っている。伊井はしきりにメガネを上げ下げしては生物を観察し、常に持ち歩いている古びたシステム手帳に忙しくメモを走らせている。


「あー、あー、通じているのか甚だ疑問ですが、私達にも敵意はありません。互いの利益を相反できるような友好的な関係を望みます」一刻は精一杯恭しく言ったつもりだ。

「「我等の一部を長きに渡り幽閉せしめ、この期に及んで友好を説くとは理解に難し。交渉の余地はない」」声は一刻だけの頭に響いた。クラゲたちがそう判断したのだ。

「ですよねー」と一刻は苦笑いで頬を爪先で掻いた。横目で蔵持を盗み見るが、鬼の様な形相は険しくなる一方だ。

「「我らに攻撃の意志はなく、そなたらの星に干渉もしない。滅びが近づいている。ただその時を待つべし」」クラゲたちは一斉に体色を黒く染め、おどろおどろしい塊となって宙を彷徨い始めた。その様子に一行は異常を感じ、どうやら一刻だけが彼らとコミュニケーションしているらしいと察し始めた。

「どうなっているんだ、時枝一刻。報告をしろ」蔵持は叫ぶ。

「あなたたちは何ものなのです」一刻は蔵持の声に構わずクラゲたちに聞いた。

「「我らは宇宙の意志。そなたらの滅びは救われない。もう会うことはないだろう」」すっと透明になり空気の中に溶けいるように消え始めたクラゲたち。

 あ、という暇も無く大群のクラゲは消えうせた。

「ダメだったみたいです」一刻は脂汗を流して蔵持の表情を覗き見る。浜北は意気消沈して頭を垂れていた。

 蔵持が大きく溜息をし「ふー」と息を吐いた時だった。ふわりと透明な物体が一刻の頭上に漂い始めた。

「「我等の一部がそなたの元に残ることを決めた。わずかだが希望を残そう」」どこからとも無く不思議な音声は響き、消えていった。一刻の目の前にはおそらく領事館で保護していたクラゲと同じものが漂い、呑気な様子でフラフラと回転しては触手を翻している。

「一匹残してくれたみたいです」力なく笑って一刻は言った。以降、その地球外生命体は昼夜を問わず一刻の周囲を付きまとうことになった。


 それから、一刻をはじめ領事館の職員は多忙を極めた。もともと猫の手も借りたい忙しさで、その原因は国家機密事項を扱うが故に職員数を増やせず、かつ風変わりな専門家ばかりを一本釣りで雇っていることに起因する。事務作業は主に浜北が舵をとり、それを蔵持がサポートしていた。一刻は領事館の中ではかなりの常識人であったため、外部との連絡や交渉において重宝されたことで、彼の業務量は日増しに増えていった。また、週に一度は日本国内のどこかで保護されてくる地球外生命体や、千年後の未来から来たというシルバーに輝くタイツを身に纏った未来人、目が異様に大きく肌が病的に白い地底人、毛むくじゃらの雪男、国内のマッドサイエンティストが私的に製造したという合成獣(キメラ)、それらが霞ヶ関の地下深くに次々と運ばれてきた。

 一刻は領事館に勤めて三ヵ月が経過した頃、伊井奈緒と交際し始めた。きっかけは一刻の周囲をふらふらと漂うクラゲだ。今では「クラちゃん」という愛称で親しまれてはいるが、正式にはCWC-3rd-v(cosmos will creature third vititer)と名づけられている。

 クラちゃんは一刻の周囲を片時も離れず、まるで彼を基点に周回する惑星の様に漂っていた。それに並々ならぬ興味を示していたのが伊井であった。宇宙についての専門家である伊井にとっては自然なことではあったが、彼女にも一刻に近づきたいという下心と打算はかなりあっただろう。クラちゃんは一刻と引き離されそうになると体色を黒くして辺りの水分を貪欲に吸収して膨張し、乾燥しきった大気に多量の電流を放出して事務室と研究室の機械をすべて壊してしまうという事件以来、一刻の自宅にまで付いてくることが許可された。伊井はクラちゃんの外での様子を観察したいという理由から一刻のプライベートに入り込み、度々マンションを訪れた。

 因みにクラちゃんは体色を透明にすれば人目につかず、雑踏に紛れることができる。一刻が指示すればそれくらいの芸当はお手のもので、一刻とクラちゃんは互いに会話ができるが言葉を使わないので周囲には分からない。そのことを伊井が知った時、何を話しているのかとしつこく聞いたのだが、実のところ、一刻にも何を話しているのか良くわからなかった。それは会話をしているというよりは、互いに感情を共有している、あるいは認識を擦り合わせている、ようなもので、どう言ってみようもないのだった。

 一刻にとって伊井は年上の女性を思わせる存在ではなく、非常にマイペースで手が掛かる恋人であった。自宅では殆んど風呂に入らないため常に頭髪はボサボサで、三日おきにマンションを訪れた時、一刻が身体を洗った。ドライヤーや櫛を通すのも一刻の仕事となった。実のところ、伊井は十分に美しい女性であった。メガネをとればくっきりとした切れ長の二重瞼に、筋の通った鼻筋。やや厚い唇は艶かしくも、時折すぼめては子どもっぽい一面を見せる。胸も豊満で素晴らしい弾力を備えていた。普段の身なりが汚すぎて、それらの素養はすべて台無しになっていたのだ。

 行動面でも一刻は手を焼かされた。伊井は寝食を忘れて考え事をしているので、虚空を見つめていることが多く、しかし思い立ったら直ぐに行動するために落ち着きがなく一貫性が無い。ペンを握ったまま寝ていることもあれば、食事の最中に事切れたこともある。ハチャメチャな伊井ではあるが、どこかプライドが高く姉御肌を見せることもあり、外で食事をしたときは常に伊井が支払いを持ち、彼女なりに一刻の支えになりたいという思いはあるのだろうが、そういったことはすべて空回りしていた。

 それでも一刻は伊井のことを好きになり、真剣に彼女と付き合った。度が過ぎる破天荒さは多少驚くところもあったが、未開の部族と接した時に比べるとそれほどの衝撃でもない。しかし、日本の首都に住む一回りも年の離れた女性と、絶海の孤島や絶壁の高地に住む部族人を比較するものもどうかと一刻は苦笑し、しかし、こんな関係も悪くないなと思う日々だった。

 一方、伊井にとって一刻は三十六年間の人生における初恋の相手であり、初めて身体を許した男であった。年下の彼、というよりは非常に知的だが控えめで他人への配慮を忘れず、常識人である一刻は、伊井にとって自分に無いものを沢山持っている尊敬すべき相手であった。伊井の周囲には家族も含めて常識人といえる人はおらず、それは常に彼女の環境を取り巻く男性に共通して言えることであった。伊井の父親は高名な科学者でもあるが、彼女に輪をかけて変人であった。研究に熱中するあまり栄養失調になったこともあれば、半年間風呂に入らず、しばしばホームレスと間違われることもあったという。大学時代の研究室にも風変わりな人物しかおらず、外務省の特殊領事館に勤務した後もそうであった。皆一様に変人なのであれば、個性もなくなるのではないかというとそうでもなく、強烈な個性はやはり強烈で、伊井にとって男性とは恋愛対象になるものとは思えなかったのだ。


 また、伊井の身の回りのことを一刻は文句も言わず、驚きもせずに世話をしてくれた。クラちゃんの観察と称して一刻のマンションに上がりこみ、しかし、観察に熱中するあまり床で寝てしまったが、翌日はしっかりベッドに寝かされていた。メガネは枕元におかれ、レンズが綺麗にふき取られて視界は良好。起きた時はほんのりとコーヒーの匂いが立ち込めていた。布団を出てリビングにいくと朝食が用意されていた。汚かった爪先は綺麗にふき取られていたし、五日間は履いていたであろう靴下も脱がされ、足先も綺麗になっている。目元を拭っても不快な油のべたつきはなく綺麗になっている。伊井は一体何が起きているのか分からずに混乱したが、それが寝ぼけた頭で混乱しているのではなく、目の前にいる時枝一刻という一回りも年の離れた男性に胸が苦しくなるほど想いを寄せているためだと気づいたのは、トーストを食べ終わって、コーヒーを啜っている時であった。

「けっこ、じゃなかった。だめだめ、気が早い。落ち着け私。落ち着け私。あの、その、あの、あの…」伊井はひどい早口で独り言を呟き、思いつめた表情で一刻を見つめている。当の一刻は雑誌『nature』を朝からパラパラと流し読みし、伊井が急に改まって何かを言おうとしているので顔を上げた時だった。

「私と付き合ってほしい。好きで、だと思い、ます、です。ご、ごめんなさい。いやだよね。迷惑だよね、こんなオバサン。ごめん、忘れて。あは、あははは」苦しげに笑って、コーヒーカップを握り締める伊井を見て、一刻は胸が締め付けられる想いがした。思ったことは何でも口にしてしまう人が、躊躇いがちに伝えてきたことなのだ。それが愛おしく思えた。精神的には自分よりも幼いかもしれないが、ずっと純粋でずっと正直に生きてきた人なのだ。思うように行動し、思うように話し、思うように生きている。一刻と似ているようで、実は全然違う。一刻は自分を偽り、がむしゃらに突き進んでは何かを探して求めていたのだ。人を知りたいという思いに突き動かされるように行動してきたが、それは中学三年の春、幼馴染の根駒妙を失ったことにすべて起因している。ぽっかりと開いた心の穴を埋めようと必死になっていたに過ぎない。だから自分と伊井は似ているようでも違う。そう痛感した一刻であった。

「おねがいします」一刻は雑誌をパタリと閉じて頭を下げた。「え?」と戸惑った伊井のメガネをとって口付けた。

 これが二人のなれ初めである。


 それからの半年間。一刻は「忙殺」という文字を体感するほどの激務に追われるた。それは一刻だけでなく、特殊領事館の職員すべてにいえることであった。職場で夜を明かすことは常態化し、休日は月に二日ほどあれば御の字。むしろ、身体を壊して静養した日が休日という具合であった。

 それに追い討ちをかけて業務を逼迫させたのが、総理官邸に忽然と現われた謎のブラックボックスである。そのボックスからは映像が照射され、現代の技術では考えられない精巧なホログラムが使用されていた。地球上のどの言語にも属さない音声で、使者とおぼしき人物がメッセージを送ってきたために、その解析は一刻に任されることとなった。何より一刻が驚いたのは、その使者が妙にそっくりだったことだ。宇宙人や未来人に接していれば猫耳や尻尾は粗末なことでもあり、むしろ人型をしているほうが驚いたくらいだ。

 それから数日のうちに一刻は使者のメッセージを大よそ解析し終えた。領事館の事務室でパソコンに向かい、作業を終えた一刻の視界にはクラちゃんが突然現われて七色に光ったと思えば、急に体色を暗くして漆黒色に変化した。

「「滅びをもたらす使者なり」」

 クラちゃんからはっきりとしたメッセージを受け取ることは滅多になく、それだけ内容とあわせても強烈なフレーズであった。

 使者のメッセージは解析出来次第、上司の蔵持に報告するのは当然のことなのだが、一刻はそうしなかった。そしてクラちゃんのメッセージも一刻の中で封印した。そうした理由は限りなく私情を挟んでいる。一刻は妙に似た少女に会いたかった。たとえその使者が、「この地球を滅ぼす」というメッセージを伝えてきたとしても、今だ未知の地球外生命体が「滅びをもたらす使者」だと言っても、一刻は会いたかった。

 地球に害をなす未確認生物、それに近似するものが確認されたならば、全力でそれを排除しなくてはならない、と外務省設置法の特務規定(特定機密指定)に記されている。つまり、妙に似た使者は、一刻次第で排除されてしまう可能性がある。特殊領事館にはそのような事態を想定して手練の戦闘要員(暗殺者として働いていた)が配置されていた。

 報告書はぼかして書けばいい。クラちゃんの警告は無かったことにすればいい。しかし、地球は滅びるかもしれない。そう思った一刻の頭にある思いがよぎる。

 これまで接してきた未開の部族や少数民族の人々とその温かみ。人と人の営みを通して分かった生きること、その意味と意味の無さ。みんな死んでしまえばいいのだろうか。

「根絶やしにしたらいいではないかえ?」いつか見た幻覚の猫が蘇って再び一刻に問いかけた。「憎いのだろう?」猫は笑う。

 歯を食いしばり、目を硬くつむり、拳を握って一刻は耐えた。これは幻覚だと自分に言い聞かせ、過ぎ去ることを祈る。しかし、彼の思考は自動的に働いた。これまでの人生は幸福であったか。いな。不遇でなかったとは言い切れず、親に愛されたことを知らない時間を過ごした。誰かに頼ることを知らずに生きてきた。祖父は手放しに放任という愛とお金を与えてくれたが、結局は自分を金で公務に売ったではないか。

 伊井の顔が頭の片隅によぎり、意志の力で消した一刻。死んだ魚の目をして「ごめんね、奈緒さん」と呟いた一刻。

「妙ちゃんに会いたい」一刻を突き動かすゆるぎない妄念が世界を破滅へといざない始めた。

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