02
タクシーの車内はエンジン音とタイヤが地面を擦る音だけがくぐもって響き、静寂としていた。運転手は「音楽でも?」と聞いたが、時枝一刻は「いえ」とだけ言って断った。時枝は他人の音楽の趣味を理解しない人物だった。もちろん五十がらみのおっさんが聞く音楽に興味もなく、そんなものを聞かされるくらいならば車のエンジン音を聞いていたほうが数倍ましだと彼は思っていた。
家賃は都内の一等地にしては高くもないが、決して安いともいえないアパートの前で降車すると、大きく息を吸い込む。夜陰に冷えた空気が肺を満たし、脳に新鮮な酸素が送られたような爽快な気分になった時枝は、扉の鍵を回して開錠した。
玄関扉を開いて初めに気づいたことは明かりがついているということだった。続いて誰かが談笑する声。部屋を間違えたか? という思考が一瞬よぎったが紛れも無く自分の部屋の鍵で開けた扉であることに思い至る。強盗か? いや、しかし、ワンルームのアパートの部屋から聞こえる声は姦しく、甲高い。人の部屋に忍び込む太い神経の輩が発する雰囲気ではない。生憎、合鍵を渡している女性は伊井奈緒一人であるが、その彼女も先ほどのタクシー内で別れたばかりである。
鍵を回した音に気づいたのか、あるいはまるでタイミングを合わせたように声は止み、キッチンの奥の扉が開いた。
「おかえり、いーちゃん」
「おかえりなさい、時枝様」
立って朗らかな表情で笑っているのは、立体投影映像に映し出されていた猫耳をもち、金髪に碧眼の少女。しかし、彼女の顔立ちはどう見てもアジア人のそれである。その脇に慎ましく立つ人物。彼女にも同様に猫耳がひっついていたが、鮮やかな群青色の頭髪に、つり上がった目が朝鮮系の種族を彷彿とさせ、鼻筋が通り、ともすれば欧米人とのハーフにも見える。彼女は頭髪の濃さとは裏腹に瞳の色が極めて薄く緋色に輝いている。
時枝は少女の姿を直に見て硬直した。そっくりだった。髪の色や猫耳、尻尾を除けば、時枝のよく知っていた彼女そのものと言って差し支えない。
「あなたたちは誰ですか?」ともっともな発言をした時枝。
これに対してポカンとした表情の少女と女性は開いた口が塞がらないといった具合だった。少女は、見る間に目に涙を溜めて顔をくしゃくしゃにした。
「いけません、陛下!」女性のほうがヒステリックな声を上げた。
「だって、だって…」としゃくり上げる陛下と呼ばれた少女。頭に載せられた王冠のような金属飾りは高貴な身分を示している。
少女が声を上げて泣き出した時だった。時枝は視界がぐにゃりと大きく歪むのを見て、立っていられないほどの眩暈を覚えた。そのまましゃがみこんで頭を抱える。
「陛下…!」遠のく声が青い髪をした女性から発せられ、時枝は昏倒した。
「一刻様、一刻様。起きてくださいまし。一刻様、起きてください」少女が時枝を揺らして起こそうとしていた。しかし、その仕草はどこか遠慮がちで起こそうとしているのか、心地よく揺らしているのか分らない。
「もう五分頼むよ、妙ちゃん」
「ダメです、一刻様。妙は一刻様を起こさなくては怒られてしまうのですよ。お願いします」少女は声も弱々しく言った。今にも泣き出しそうな顔をして。
「あと三分。ちょっとだけ」掛け布団を頭にかける時枝。
「ダメです。起きてくださいな」揺すり続ける少女。
「あと二分」起きない時枝は枕を抱えて布団へ潜り込んだ。
「泣きますよ、一刻様」と言って少女は布団へ潜りこみ、一刻の脇腹をくすぐった。
「あは、あは、はははは。ダメ、ダメ、妙ちゃんギブ、ギブ」
「起きました?」
「うん」
「朝食です。今日は遅刻してはいけませんよ」妙は布団の中で一刻を見て微笑んだ。布団を剥ぎ取ろうと手を上げたとき、一刻は妙の腰に手を回して抱き寄せた。キャっと小さく叫んで身を硬くした妙。
「もうちょっとだけ」時枝は甘い声で言う。
「もうダメです。起きてください」妙は身に着けたメイド服のスカートを直して、しかし、その身は徐々に緊張を解いていた。耳元に小声で囁く。
「おはよう、いーちゃん」
「おはよ、妙ちゃん」時枝は、妙に口づけた。小鳥が餌をついばむ様なつつき合いを繰り返し、少し長いキスをした。互いに頬は赤らんで、時々目を開けた瞬間にはにかんでまた目を閉じて感触を確かめる。時枝は下半身の昂ぶり、もっとも起きた時から昂ぶりっぱなしのいち物を、なるべく意識しないように努めた。
お互い舌を入れるキスをしたことはない。ただ、気持ちはピッタリと一致していた。互いに好き合っていると。長い接吻のあと、二人は数秒見つめあう。互いの瞳を見つめあい、その瞳を飽きることなく見つめては小さく溜息を繰り返した。その度に口付ける。一二月の寒風吹き荒ぶ季節のことだ。
その半年後に妙は交通事故で命を落とした。交差点で信号無視をした居眠り運転のトラックに轢かれて即死だった。妙の通夜で一刻は死体にキスをして離れなかった。親族は一刻を止め、離そうとした。しかし、妙の死体ごと持ち上がり、一刻は死後硬直した唇に舌を伸ばそうとして、一向に開かない唇にむせび泣いた。狂気をはらんだこの情景に、一刻の祖父である時枝整司はただ、孫の運命を思い沈痛な面持ちで佇んでいた。
一刻は自分を限りなく呪った。妙の死の前日、彼女と喧嘩した。「高校は一緒に行きたい」と言った一刻に、妙は「私は進学をせず、時枝の家で使命を全うします」と言ったのだ。一刻と妙は主人とその家に仕える者という間柄であった。妙は代々時枝家に仕える根駒家の一族に生まれた。男として生まれていたならば違う道もあっただろうが、女として根駒家に生まれれば、一生を時枝の家に奉仕して仕えることが定められている。進学などはもってのほかであり、必要な教養は自学自習によって得ることになるが、妙はもともと知能の高いほうであり、上流階級の礼儀作法をはじめ財閥関係の相関図、政界の動向から有力者まで把握しきっていた。集団生活で必要とされる友人関係や人間関係の機微にうといところが妙にはあったが、それは奉公人として必要な資質ではなかった。だから妙には進学をする必要が一切無い。それは彼女自身が痛いほど理解している。ただ、心のどこかに、家の外で一刻と時間を共有したい、他愛もないことで笑いあい、何か同じものを食べて味の感想を述べ合ったり、並んで道を歩きたいという思いはただ、眠りに着く前の夢想だった。それが身の丈に合わぬ、叶わないものだと知りながら。
一刻は当然、妙が進学もせずに家に入ることに反対した。そのやり場のない怒りを妙自身にもぶつけてしまったことを彼は後に激しく後悔した。妙が死に、すべてが嫌になった中学三年の夏、一刻は自身に大きな覚悟と制約を課した。
この呪われたくっそたれの運命を自分で捻じ曲げること。そのためには、人を知り、その定めに逆らって生きることを誓った。人間について学び、その言葉について学ぶことを誓った。自分がどうして自分であるのか、全力で答えを求めることを誓った。
これが時枝一刻の人生の分岐点である。彼はこの時から殻に閉じこもるのではなく、殻が溶けてなくなるほどの熱量と情熱でもって他国の言葉と文化、人類のなりたちを学習した。妙と一緒に行きたかった高校へ進学した後は、ほとんどの日本人が名前も知らない国に短期留学を繰り返し、ウェブで高校の授業を受けて単位を取得した。留学した国の数は三〇を超える。大学はT外語大に進学したが、作製した論文が学会で多数評価され、世界的に文化人類学者としての名声を得ていたため、一歩も大学校舎に踏み入れることなく異例の卒業をした。これといった専攻はないが、あえて上げるなら彼の得意とする領域からあげれば言語学、比較人類学、文化人類学、宗教学全般、心理学、生物学である。これらの分野でセンセーショナルな論文を書いている。彼の論文は「時枝レポート」と称され、各種メディアがこぞって特集を組み、その度にかなりの経済効果を産んでいる。時枝は常人では信じられない方法で未開人と接触を試み、ある部族というよりも殆んどの少数部族は一刻を神の使いと崇め、一部の部族は彼を神自身として崇めた。大学を卒業後、フリーランスの学者として世界中を放浪した一刻は冒険を好んだ訳ではなく、基本は飛行機や船舶で移動した。民族と接し、話し、触れ合い、食事を共にした。
その後、妙を失って誓ったものに対する答えは見つかったのか。いな。しかし、時枝はある部族の、偏屈で人体には無理がたたる儀式に参加した際、転機が訪れた。それは一ヶ月間の完全断食であった。許される経口投与は水のみで一ヶ月を過ごした。栄養状態が著しく低下し、生命の危機に瀕した断食から一五日目、一刻は幻覚をみた。
猫だった。
朦朧とする意識の中、猫が自分の周囲を取り巻いていた。おぼろげな意識で時枝は断食の後半を過ごした。生きているのか、死んでいるのかさえ判然とせず、常にぼーっとした状態であった。時折何匹かの猫が時枝に近づいては指先を嗅いでチロチロと舐めた。ざらついた舌先は決して心地よくは無かったが、不思議とその感触が懐かしかった。そのざらつきは、どこか時枝が小中学校時代に抱えていたものに似ていた。はっきりと意識すれば不快だが、気づかないふりをすればやり過ごすことができる。妙がいた、そして祖父がいた、支えがあった。その支えの一つが妙で、彼女は死んだ。心に大きな穴が開いたが、それをどうにか埋めるものを見つけたはずだった。
時枝の指を舐める猫はざらついた舌で彼の意識を揺さぶった。ざらつきはやがて増し、膨れ上がる。心の奥底にある闇は膨れ上がり、時枝の心を蝕んだ。
時枝の一番最初の記憶は箸が上手く使えないと叱られて母にぶたれ「時枝の子にあらず」と罵られ、それを祖父がなだめ抱きすくめられた三歳のとき。おもえば母に優しく抱かれたことはない。その後、「お前は私達の子ではない」と父から養子であることを告白された五歳。そして子どもができない夫婦に子どもが産まれ、弟ができた七歳。もともと無かった愛情は0からマイナスになった。ことあるごとに叱られ、ぶたれた。ぶたれているうちは幸せだと気づき、家族の中に居場所がないことに気づいた十歳。家での話し相手が使用人の妙と祖父だけになった一二歳。妙を失い、心を殺した十四歳。
人が憎い。
時枝は空になった胃で、もはや空腹を感じることも無くはっきりと意識した。知りたいのではない、人を。自分は人が憎かったのだと。だからこうも人を求め、見て、触り、食べ、確かめたかった。本当に憎いものなのかと。それは彼にとって最後の願いだった。ぼやけた意識に浮かび上がる白い影は残像を逆戻しにしたように像を結んで毛並みの良い、達観した老猫のように描かれた。
「憎いかえ? 殺したいかえ? 人を根絶やしにしたらいいではないかえ?」ひどく意地悪な老婆のように猫は笑った。残像ではなく尾が七つに分かれていた。
「憎い。憎い。憎い。でも、好きな人がいる」死に際に呪詛を吐くように時枝は言葉を漏らした。喉を振るわせる力すらなく、もはや精神力で振り切った声だった。その時彼の脳裏にははっきりと祖父の姿があった。
「こちらに来なさいな、運命の嫌われもの。本懐を遂げたいのだろう、違うかえ?」老猫は舌なめずりをして猫らしい動作で頭部を撫でている。しかし、見開かれた瞳孔の奥はしっかりと時枝を見ていた。「違うかえ?」目の奥で問われた時枝。それは彼の見た猫の言葉か、彼自身の言葉か。
「違う。俺は人間だ。人が好きだ。自分の人生を恨んではいない。憎いが、恨んではいないよ」時枝は猫に語りかけた。
「殴られて、罵られた幼少期も。何故時枝の家に連れてこられたのだと思わなかったのかえ」
「思ったさ。でも時枝家があったから俺はここにいる」
「弟が生まれて、家族中から無視され、最も位の低い、幼い使用人をあてがわれてどう思ったかえ。弟を殺してやりたいと思ったんだろう。違うかえ?」
「違うさ。弟の秒矢をそんなふうに思ったことは無い」
「腐っても時枝のおぼっちゃまだえ。流石といったところだえ。しかし、これはどうだえ。お前が気づいてはいても、気づかないふりをしていた事実だえ。妙をひき殺したトラックはお前の父上が仕組んだものだったんだえ。もっとも血など繋がっていない、憎たらしい父上だえ。どうだい? 憎いかえ? 憎くて憎くて殺してやりたくなるなあ、一刻くん」
くん、と跳ねるように悪戯っぽく笑った老猫。時枝の主観では一飲みにされそうなほど膨れ上がった幻覚だ。喰われそうなほどの猫に時枝はすくみあがる感情に戸惑い、幻覚であることをかろうじて意識し、これが自分の意志でどうにかできるものであることを思い、強くありたいと願った。
「強くない自分を自覚できた」
そうかえ、そうかえ、そう…、か…、え…。
意識が戻ったとき、ぬるく水分の多い粥を口に含まれているのを意識した。低栄養で失った視力で見えないのか、辺りが夜だから暗いのか、しかし、そんなことよりも口の中に広がるひどく甘いものに体の統制を奪われた。バビンスキー反射の様な人間古来の反射に支配されて栄養をとった。時枝一刻、二〇歳の春。
意識が完全に戻ったとき、時枝の身体は四〇キロでガリガリに痩せていたが、部族長からこう言い渡された。
「生死も危うい儀によう絶えた。苦痛を知る者はこの儀に耐えず死んでいくもの。敬服いたす。また、そなたに我らが神が光臨されたと申す村人がおる。そなたは神の子じゃ。どうじゃ、旅人でここまで神に愛でられたものはおらぬ。留まらぬか?」
「遠慮します、村長」ガリガリに痩せ、虚ろな表情で時枝は言った。
「残念じゃの。生きて返せぬのじゃて」村長の目は急に死んだ魚の様に濁り、瞳の色を失った。と同時に、高床式の住居を取り囲む青々としたジャングルの木々がざわめく。意識を済ますと木々の陰から殺気が漏れている。
時枝の肩を矢がかすめ、よろめいて地に手をついた瞬間、野生人たちの雄叫びがこだました。鬱蒼と茂る木々の影から幾重もの戦士が飛び出してくる。殺気だった目に、口角に唾を飛ばして叫び、現地の言葉で「死をもたらす、死をもたらす」と繰り返している。手には石器を仕込んだ棍棒。原始的ではあるが、急所に命中すれば大型の哺乳類も一撃で倒すことができる代物だ。
時枝は逃げなかった。もとより、衰弱した身体にそんな体力はない。しかし、彼のとった行動は常軌を逸し、よろよろと立ち上がったと思うと両足にあっりたけの力を込めて雄叫びを上げたのだ。そして「迎えうつ」と音声を張り上げた。
止まらない戦士達。
興奮で戦慄き、目を血走らせる痩せた時枝。
長老がおもむろに立ち上がり、恭しい動作で腕を一振り動かし、戦士達を時枝の眼前で制止させた。戦士たちはその場で平伏し、武器は地面に放り投げられた。
「このお方こそ本物の現人神じゃ。永大にわたり彼を祭ろう」長老は声を張り上げ、戦士たちをはじめ、木陰に隠れ遠巻きに様子を窺っていた村人は一斉に歓声を上げた。
インドネシアの激しい潮流に囲まれた孤島に住む未開部族にとって実に百年ぶりの現人神であった。彼らの信仰によれば、現世にあらわれた神が存命の間、村は安泰で繁栄を極め豊穣と子宝に恵まれるとされ、その存在は島にいなくとも構わないという滑稽なものであった。そもそも、この孤島を最初に訪れたのが一九世紀末の破天荒な貿易商であり、そのことに起因した人為的な慣習が信仰になったものに過ぎない。時枝はそのことを知りつつも、自分が神と崇められることを否定はしなかった。むやみに部族の慣習や宗教を否定しないことが人類学者には求められたし、そもそもそんなつもりは時枝には毛頭無く、ただ人々の様々な営みを垣間見ることが彼にとっての興味のすべてでもあった。
大学を卒業した後、時枝は研究という名の放蕩を続け、彼のフィールドワークの分野は何も未開の部族に留まらなかった。時にアメリカ大陸の原住民、インディアンと呼ばれていた部族の調査にも赴いたし、かつて植民地とされて侵略を受けた部族の現在を調べることにも彼は精力的に取り組んでいた。
一方、彼は時枝財閥の尽きること無い財力を貪り、世界中を駆け回っていた。もちろん彼自身にも書物による印税収入や原稿料、各種マスメディアからの取材による報酬等はあったが、微々たるものであった。そのため採算は常に大赤字。しかし、そんな時枝一刻を手放しに見守っていたのが彼の祖父、時枝整司である。
中央アフリカに点在するピグミーの部族を渡り歩いてる際、一刻の携帯電話に通信が入った。コンゴ民主共和国にあるイトゥリの森のムフディ族は最も有名なピグミーであり、時枝は深い森の中、成人男性の平均身長が一五〇㎝に届かないピグミーに囲まれてしばらくの間生活を共にしていた折りのことだ。
「息災か、放蕩息子。おっと、俺の息子じゃなかったわい」と電話越しに豪快な笑い声を上げる時枝整司。彼は豪放磊落という形容がとても似合う人物だ。白い頭髪は後ろに撫で付けたオールバックに八〇歳を手前にして背筋は伸び、足早に闊歩する。その姿は見るものに畏怖の念を抱かせるほどである。眼光は鋭くもときに優しく、見据えた人物の生い立ちを見透かすような視線を投げかける。声は聞くものの胸を震わせるほどに低音が響き、余韻を残す。
「小さな戦士達に囲まれて楽しくやっていますよ、お爺様」
「なんじゃ、今度はアフリカのピグミー族か? お前も物好きだな。電気も無いところなんじゃろう?」
「それがですね、僕が今会っている種族は文明に帰化しかけている部族なんですよ。経済観念も持っているし、明文化された法も存在する。それに携帯電話やパソコンを使いこなす人物もいるくらいです。彼らはかなり有能なんですよ」
「ほう、それは興味深いな。少数部族の中でも積極的に文明に触れているものたちがおるのか。ところで一刻よ。たまにはこちらで爺とゆっくり話でもせんか」低く柔らかい口調で整司は言った。しかし、この言葉に一刻は驚愕した。これまでに祖父である整司が一刻に対して「帰ってこい」と言ったことはなく、それらを匂わす発言すらしたことがなかったからだ。
「お爺様、まさか御身体の具合でも…」と言いかけた一刻の言葉を、豪快な笑い声で整司はさえぎった。
「違うわい。勝手に老いぼれにされては困る。ちと込み入った事情があってな、まあ、近いうちに日本に戻れ」
「分かりました」煮え切らないもやもやとした気持ちを残して通話は切れた。いつもは柔和な表情をしている一刻が、珍しく険しい顔つきでいるものだから周りにいたピグミーたちは彼に何か重大なことが起きたのだと察した。中でも一人の非常に美しい現地人女性、日本人の感覚から言えば少女に近いような小柄な体躯をした人物は一刻により沿い、彼の手をとって寂しげな視線を向けた。部族を訪れてからずっと身の回りの世話を焼いてくれていた女性だ。ひそかに彼女が時枝に対して恋心に近いものを抱いており、時枝自身もそのことはよく分かっていた。目を伏せて顔をゆっくりと横に振る時枝。部族の長からも彼女を娶らないかと酒席で冗談交じりに言われたことがある。
基本的にピグミーは文明人との交わりを敬遠し、ましてや婚姻などはもってのほか、考えも及ばないことである。しかし、時枝の場合は事情が異なった。彼の語学能力だ。彼は部族と生活を始めて三日目には日常会話、そして満足なコミュニケーションを部族のすべてのものと取り交わしていた。小さな慣習や決まりごとにも律儀で、無礼があったときには心底謝り非礼を詫びる姿は、他のどの研究者とも違っていた。種族、民族は違えど、ここまでピグミーに礼をはらい、敬意をこめた人物はいなかったのだ。それ故、時枝は部族の一員としての儀を受けるほどに歓迎をされていた。
いかなる理由であれ、祖父からの「帰国せよ」という報があれば無視することはできない。これまで、「帰れ」と言われないことで愛を感じ、だからこそ言われた時には真っ先に駆けつけたくなるものだった。その三日後、時枝は日本に降り立った。寒風が吹き荒ぶ年明けの頃だ。
成田空港のポートから自家用ヘリに乗り換え、関東近郊の山中に位置する時枝総本家に向かうものと時枝は思っていたが、なんとヘリが着陸した場所は首相官邸のヘリポート。着陸時のすざましい風圧に全身をなぶられながら、時枝整司は凛とした佇まいで威風を放っている。時枝がヘリから降り立つと二人は抱き合って再会を噛み締めた。整司の側近たちも一刻のことは一目置いており、その再会を労った。
その後、一刻は総理大臣からなんの説明も無いままにある辞令を受けた。辞令書は数秒でプログラムが破棄される電子証書で、そこには「外務省、特務領事館、特命外交官」の文字に、文書の内容には特定機密といった文言が多数表れ、情報漏えいの際には「禁固刑」などの恐ろしい内容も見られた。総理大臣は辞令を言い渡すと足早に立ち去り、入れ替わりで三人の人物が現われた。その内の一人は絶対に堅気とは思えないような、やくざか警察かといった面立ちに、腹の底から掠れた低い声を囁くようにいう奇異な人物であった。彼は外務大臣の島屋正吾。その両脇にはすらりとした長身長に目鼻立ちもくっきりとした派手な顔立ちながら、鉄の様に冷徹な表情の特殊領事官長の蔵持米子。狐の面をつけたような面立ちで薄ら笑いを浮かべる外交事務次官の浜北和哉。
威圧というよりは奇異な印象を放つ三人は静かに一刻の前に並び立った。しかし、そんな雰囲気に構うことなく、一刻は深く礼をして「よろしくお願いします」と言った。
「履歴書にあったよりも普通だな」と鳥居はぼそりと呟いた。それだけでその人物の総評を言い渡すような舐めまわす視線を投げかけて鳥居は時枝を見ている。
「ですが、経歴は飛びぬけて異常です。ただ、我々は異常者を集めているわけではありません。問題は彼の能力。語学力には定評があるようですが」と蔵持は厭らしく笑って言い、フランス語、ドイツ語、スペイン語でまくし立てるように早口に何かを言った。「最後に日本語で「分かりますかお坊ちゃん」と添えて。
もちろん一刻はその言葉を翻訳して答えた。但し、それぞれ中国語、朝鮮語、タガログ語を混ぜて。それを浜北が訳して蔵持に伝えた。蔵持は「能力に問題なし」と小さく言った。
その様子を静観していた人物が口を開く。「一言いいかの、お三方」沈黙を破ったのは時枝整司だった。
「どうぞ」よどみなく透き通るような、しかし凄みのある声で鳥居は言った。やくざのような男に凄まれても整司は全く臆するところがない。
「正吾の坊やも大きくなったものだ。のう?」と鳥居に対して厳しい視線を向ける整司。
「時枝のおじ様。それは言わない約束では」鳥居は瞬時にうろたえた表情を見せたが、それはほんの一瞬のことだった。
「まあ、いいわい。わしが言いたいのはの、うちの秘蔵っ子を渡すんじゃ。非礼ではないかの、おぬしらは。なあ、一刻、お前は何ヶ国語が話せるんじゃ?」
「口語で話すことができ、かつ読解できるのは一〇〇くらいでしょうか」と一刻は言った。かつて整司が電話を越しに質問をしてきた意図がここで分かった一刻であった。
「一〇〇か。異様に多いな書字読解だけならば?」と浜北。細い目を興味の限り見開いている。
「うーん。たぶん四〇前後でしょうか。カウントしたことはありませんね。覚えるという感覚で言語を理解しなくなってからは取得言語という考えが無いのです。新しい言語でも人と接しているうちに三日あればパターンがつかめます。もちろん非言語のコミュニケーションも含めたパターンですが。そもそも文字を待たない部族も多いので、それらを勘案してですが」時枝は自らの能力をひけらかすでもなくさらりとその事実を言っただけだ。しかし、鳥居も蔵持も目を見開いて驚いている。また、浜北は驚くというよりは同じ外交官として好奇の目を禁じえない顔をしてた。ただ、整司だけは誇らしげに「うんうん」と頷いていた。
浜北はアラビア語の、特にイスラムの戒律が厳しい宗派が隠語として話すような秘匿言語で「このわけも分からない組織に君は入るのか?」と聞いた。一刻はそれに対し、ヒンドゥー語のネットスラングで「自分に拒否権はない」と答えたが、浜北が意味を介さなかったために、解説を加えて通常のヒンドゥー語に言い換えてやった。浜北は恥じ入るではなく、興味津々といった面持ちで目を輝かせ、一刻に相槌をうつと、上司二人に向かって言った。
「間違いなく天才ですよ。なのに、どうです。僕らに会い、まず頭を下げた人間が特務領事館のメンバーにいたでしょうか。間違いなく、これだけの能力を持っていながら常識を弁えているあたりが変人の枠を超えています」
「浜北、わめくな」鳥居の一喝で浜北は背筋を伸ばしたが、一刻への好奇の視線は止まなかった。
「では、時枝様。彼を我々の組織に加え、厳格な管理下におきますがいいですかな?」と鳥居はあくまでも事務的な口調で、しかし恐れを含んだ口調で時枝整司に許可を求めた。たとえ総理大臣直々の辞令であっても、この時枝家当主が首を横に振ればそれまでである。
「おぬしらに一刻は役不足じゃが仕方ない。いいかな一刻?」
そう整司に聞かれた一刻であったが、もちろん拒否権はない。総理大臣に辞令書を渡され、彼にとってそれ以上におそれ多い祖父からの頼まれごとだ。断る理由は一切無い。
「はい、もちろんです」
うむ、といって頷いた整司。ここから時枝一刻の人生は一転し公官庁に籍をおく身となった。
ただ、一刻にとってこの転機は好機で自らの価値観を打ち破るものだった。なぜなら、彼の勤め先は特務領事館。宇宙人や未来人、はたまたそれ以外の存在と接触することになるのだから。