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時枝一刻は深夜、鉛のように重い瞼を意志の力で持ち上げパソコンの画面とにらみ合っていた。両手はせわしなくキーボードを打鍵してるが、遠のく意識のせいか誤入力を頻発させてバックスペースキーとエンターキーを小指が往復している。
東京都霞ヶ関二丁目二番1号本館に位置するのは外務省本庁舎。その地下の奥深くに据えられた一室が時枝の職場である。部局名は特殊外交領事館。南庁舎一階にある二十四時間営業のコンビニエンスストアのバックヤードに入り、飲料冷蔵庫の無機質なアルミニウムの扉を開ける。左右の素晴らしく冷えた飲み物を尻目に、さらに奥にある扉の脇に設置されたテンキーに日替わり五十桁の暗証コードを入力して開錠、そしてエレベータに乗り込めばその職場に通じる。
外務省においてこの部署を知る者は一部のキャリア官僚と、省外においては内閣総理大臣、及び外務大臣のみである。特定機密保持法案が可決された直後に設置され、軍事機密の漏洩をカモフラージュに当時の総理大臣がひた隠しに設置をしたかった政策機密がこの部署であった。
およそ一〇人で構成される特殊外交領事館は外務省設置法に定められた所掌事務二十九項を一手に集約し、かつその主眼は日本国外との外交ではない。特定機密事項内政令に規定されるところの外交相手とは星外および、時空外、世界存在外と記されている。つまり、宇宙人、未来人、異世界人との外交上の交渉が主たる目的とされているのだった。
「伊井、ボックスの構成物質は解析できたか」苛立たしげなな声を発したのは、館長の蔵持米子。朱に染めた頭髪に、切れ長の見尻が鋭くすらりと長い手足をした女性キャリア官僚であるが、四十代手前という異例の若さで領事館長に任命された強者である。
「地球上にある物質ですね、ぜーんぶ。技術は今の何年も先ですけどねー。ふふ、ふふ」間延びした声と、その後に含み笑いを持たせて言ったのは伊井奈緒。牛乳瓶の底のように厚いメガネレンズ越しにプリントアウトした出力結果の表を皿の目で拾っていた。ボサボサの頭は油でべたつき、身に着けている白衣はどこでどうついたのか煤けて薄黒く襟元は黄ばんでいる。断っておくが伊井は女性である。
T大卒の彼女は引き抜きという形で大学院博士課程の研究室から現在の職についている。異例の採用過程だが、実際のところ研究室の中でも特異すぎる研究テーマを掲げては教授陣の眉を中央に寄せさせるため、大学側は良い厄介払いができたと思っている節もあった。井伊の専攻は広義の天文学であるが、特に宇宙に特化し、こと宇宙外生命体の存在の如何に関しては並々ならぬ拘りを持っていた。実際彼女は就職の際に文科省の宇宙開発部門と雑駁に説明を受け、大学側もそれで納得した。しかし実際は外務省の特殊領事館という国家最重要機密を扱う部署への配属であったのだ。
「おい、伊井。研究発表とかしたら禁固刑だ。楽しそうにするな」蔵持は迫力を込めて言ったつもりが、さすがの深夜二時。彼女も気力の大半を失っていた。
「見来! ここまでを報告」蔵持館長は眠気を吹き飛ばすように声を発した。
「アイアイサー。しっつちょう。日本近辺でヒッグス粒子及びそれに近似する粒子の乱れは観測されていません。夜更かしはお肌に禁物ですぜ。美貌が台無しだ。帰って寝たほうが良い。僕と一緒にね」言い終わるやいなや指をパチンとならして言ったのは見来晴彦。シャツの胸元を大きく開け、その隙からはさりげなく金のネックレスが覗き、長髪を茶色に染めている。今では珍しいホストとかつて呼ばれていた職種を彷彿とさせる男だ。
見来はその容姿に反し、前職は関西にあるK大の准教授であった。女子学生にことごとく淫行を働く素行の悪さが高じて懲戒免職となった。というのが表向き事実である。その実は、光子研究の分野において新進気鋭の第一人者である見来を外務省が体よく(彼の性格に即して)引き抜いたのだった。
「死んでくれ」蔵持は大きく溜息をついて言った。鬼の形相をした蔵持館長は人を喰いそうな勢いがあった。
「え。先に行ってくれ? もう、館長ってばここ職場ですよ」鼻の下を伸ばした見来は額に手を当てて眩しげな顔をする。二人の表情のコントラストに室内が笑いに包まれた。しかし、連日連夜、深夜にわたる残業で疲弊した室のメンバーは既に限界を迎えようとしている。
「館長、レポート上がりました。今転送します」立ち上がり、携帯端末を蔵持館長のパソコンにあてがいデータを転送した時枝。「十五分仮眠します」と言って部屋を出て行こうとする彼を蔵持は引き止めた。
「今日はもう帰っていいぞ、時枝。もう限界だろう。ほれ、タク券だ」お札ほどの紙切れを蔵持は時枝に差し出したが、時枝は片手を上げて断った。
「いいですって。皆似たようなもんでしょう。俺だけ帰るわけには行きませんよ」辺りを見回せば目の下に深いクマを作った室のメンバー達、そのデスクには栄養ドリンクの空き瓶が所狭しと転がっている。伊井や見来の様な変人たちは疲れ知らずに働いているが、そうでない人物も多い。徹夜も三日目となると幻覚を見始めてもおかしくない頃合いである。時枝は小さく溜息をついた。
蔵持は既に時枝のレポートを読み始めていた。部屋を出て行こうとする彼を再び蔵持は激しい声で呼び止めた。
「時枝! このレポートの確証は。主観でいいから答えろ」
「八割ってとこです。実証データを入手するにはもう少しかかりますね。特に猫の生態に関するデータが欲しい。極めて動物的なコミュニケーション方法をとっていまして。それが猫に近似しているんです。こういった事例は少なくないんですよ」肩をすくめ、よくあることですよ、と言いたげに時枝は顔を綻ばせた。
「猫? そんなことはどうだっていい。もう来てるんだな、やつらは」
蔵持の言葉にメンバー全員が椅子から飛び上がるように立ち上がった。そして時枝へ一斉に注目した。
「ええ、三時間ほど前にこちらに着いているはずです」さらりと言う時枝。
「そんな重要なこと黙っているなんて、君もつくづく隅に置けない男だな」引きつった顔で言ったのは見来だ。稀代の女たらしである見来にもこの事実は衝撃であるらしかった。
「まあ、いっくんたら面白い人ね。そうか、もう来てるんだ、あの機械を作った人たち。あら、人なのかしら? まあいいわ。早く会って話がしたいわね」伊井は浮き立つ衝動を抑えられないといった表情で言った。
鬼の様な表情で顔を伏せていた蔵持はパソコンの画面を睨んでA4レポート三十枚を速読していた。読み終えると見据えた相手を射殺すような鋭い眼光で唸るような声を発した。
「全員解散。明日一〇時に登庁し、一一時より大臣レク。以上」
騒然とする室内を尻目に、時枝は蔵持のデスクからタクシー券をつまみ上げると足早に部屋を後にした。
首相官邸に忽然と現われ立体投影映像に投射された
少女が発したメッセージに関する考察(概略)
特務外交官 時枝一刻
発声・発音について
人類との相違は殆んどないと言っていい。口内における咽頭の振動により音を生じ、その調節を舌下及び口蓋、歯裏にあてがうことで行っている。ただし、濁音が特異な音声形態を有し、その際に擦過音を発する。これは舌上の形状によるものと推測される。
生体について
これに関しても人類との相違は少ない。外見上の特徴から言えば四肢が短く頭部がその比率において大きいことは、発信者が子どもであることを推測させる。また、特異な点として、頭部に据えられた耳と思しきものであるが、これが本来の収音機能を有しているかは定かではない。進化論からの知見では、頭部に耳介を有す哺乳類は捕食時に地面に口をつける種が多く、そのためと考えられている。猿および類人猿を経て進化した人類の耳、または鯨、海豚といった海生哺乳類の耳が即頭部にあるのは、捕食行動時に前方向いているからである。つまり、人類と外見上相違の無い少女の耳が頭部にあることは多くの議論の余地を残し、その機能が収音に限らないことは推測に難くない。
また、立体映像に見える尾とおぼしき揺れる紐状の物体については後述する。
言語について
音節の区切りが非常に曖昧なことからもフランス語の様な欧米圏の言語に近い。メッセージの内容に使用された名詞は四十三、動詞は七、助詞は四、副詞は九、間投詞は0であった。間投詞が全く無かったことには補足的にノンバーバルなメッセージがそれに付随していた。それはつまり尾の動作によって間投詞に近似する役割を担っている可能性が示唆される。あらゆる言語において測定されうるメッセージ本来の緊張状態は間投詞及び非言語のメッセージによって緩和されうることを鑑み、少女の表情やその他の身体的特徴の動作を平面地点分析の最高指数一〇〇で計測し、その相関関係を統計処理したところ、尾の動きと関連があることが有意さ五%水準で支持された。
名詞の内容で注目すべきは「時間」に関する概念であり、それらを現す名詞が一〇以上であった。曖昧かつ判断できない概念もあるがそれらは極めて尾が活発に動いていることを付け加えたい。ある概念において豊富な表現方法を持っていることは文化的にその概念が重要な位置を占めていることを示す。イヌイットの「雪」や、砂漠の民の「砂」がそれであるように。
以上を鑑み、少女のメッセージを解読するとこうなる。理解できなかった内容に関しては主観を介して補っている。重大な部分が欠落しているがそれこそ彼らの本意であるように思う。
「私は時の支配者。時空の彼方より旅をしてやってきた。突然の来訪ではこちらの世界に混乱をもたらすことが容易に想像できるため、予めこのような通信をしている次第である。
来たる二〇三X年、一月一五日午前〇時、我は到着す。特に歓待をする必要はない。来訪の目的は順次そちらの使者に伝える。こちらに敵意が無いことだけは申し添えておく。しかし、そちらの世界にとって我々は害となる可能性は否定できない。